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托鉢私見

托鉢に思いをめぐらしていると立ち上がってくる映像は、草上に身を投げ出して眠る明恵の姿だった。

あるとき「山犬にでも喰われて死のう」と思い立った明恵は、山犬の徘徊する野辺に仰向けになって山犬を待っていた。やがて山犬がやってくる。周囲の死体を嗅いでは食らいつきして廻りをめぐるうち、ついに明恵に近づき、鼻をひくひくさせ始めた。

が、山犬はそれきり明恵のそばを立ち去ってしまった。

明恵の伝記にある挿話のひとつである。
この挿話がなにを意図したかは知らないが、そこに托鉢に通じるもののあるように思う。

托鉢とは偶然性のなかに自らを投げ出す行為だろうと私は思った。それは他者に布施の心を興させる行為でも、功徳を授ける行為でもない。行者は遍在せず局在して、路傍の石に混じる。一夕驟雨がきて、過ぎ去ったあとの碗にひと口の雨水を受けるなら、喉に潤う。笠に衣に重く露が溜っている。また足下では微妙な勾配を縫って流れているものもあり。この雨のどの雨にも貴賤の別はない。過ぎゆく人と1円を投げる人、その間に貴賤はない。偏に行者は偶然そこにその時間托鉢に立ち、時間が満ちて立ち去るだけだ。そこに居合わせた人にも居合わせなかった人にも幸も不幸もその別はなく、すべてはたまたま何か思ってあるいは何とも思わず銭を投げあるいは過ぎるのみに若かず、またあるいはすれ違いもせず別の道を行く人もありもう風呂にでも入っている者もあり、それらはまったく偶然性によっているのであって、そこに何か功徳や何かがあるのではまったくない。そして行者は偶然きょうの食にありつく我もあり、食にありつかぬ我もある。ふたつある我にも貴賤なく、悲喜もない。両者はともに同じくしてあり、ただここに現出しているのが偶々いずれかであるのに過ぎない。碗の内にはただ空だけが変わることなく溜っている。

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