平沢進「上空初期値」と仏教
平沢進の歌詞世界には仏教的な色合いの作品があるが、「上空初期値」もそうしたもののひとつに数えたい。この作品はアルバム『点呼する惑星』に収録されている。人生のレールはすでに用意されて、それに従えば、定められた幸福な生を送ることができる世界で、自己を疎外して得られる幸福に懐疑が生じる主体、というはじまりとみえる。そうしたがんじがらめの幸福を抜けて、夢を見ることを許された地点に視界をひらいたのが「上空初期値」といえる。
飛べ王道の空 初期値
雲海の波 遠く立ち
束の間に現れるあの山へ
ここに描かれるのは尽く雲の造形である。「あの山」もまた変幻する雲がみせた一形態(つかの間の)であり、それは数多の“今”の一片としてある。雲――その変幻する形態の全容――とは“存在”の一切を指している。
見よ断片の夢の乱舞
自在の空にさらわれて
時の葉の揺れとなり
キミを象る
雲はすこしも留まらず、次々に形を変える。そのかたちかたちに存在の片鱗をみる。存在だけではないな、あらゆる観念も含まれている。それらは次々に現前して、たちまちに去っていく。この雲海にあって、雲の“運行”というものはない。さまざまに形を形成し、固定的な物(たとえば椅子とか、岩とか、キリンといった)の表象を擬するというイメージが雲にはある。この詩に現れる雲とはそうした表象を構成する素である。
仮にある雲を見て「あれはキリンのようだ」というとき、それはキリンである。“ようだ”という擬性を脱落してキリンとしてある。つまり、雲といいながら、地上で私たちが見、使い、生活する物の一切が語られている。それが雲の比喩によって、変幻性が与えられる。どういうことか。
雲の造形が仮にキリンと酷似しても、キリンとしての恒常性を義務付けられていないために、たちどころに“キリンではないもの”へと遷移する。この遷移は雲がキリンではなかったことを意味するのではなく、むしろそれもキリンであって、キリンが我々にとってキリンであり続けることがキリンの必須の条件ではないことを明かしている。“あり続ける”ということ自体が問われなくてはならない、つまり時間的な認識を脱落し、我々が時間といって因果律により次々にバトンタッチされる時間意識を逃れて、断片的な時(エネルギー表現の一様態)としてこの世界を見る。雲的な時と時の接続には脈絡がなく、何かが次に何かとして残ったり変容したりはしない。十年前の今日を思い出してほしい。それから三百年前の今日、またいまここにある今日、この三つの今日が直列する時間というのも考えられるのだ。生年を違えて、月日において誰と同じ誕生日というときにはそういう時間が流れているが、八月二二日の次は二三日であるという憶見の権威化によって、それを時間的なものと捉えにくくしているのだ。
このようにして雲は「断片の夢の乱舞」を見せ「自在の空」を表す。時とはエネルギーの表現型配列のバリエーション、その一覧である。次行の「時の葉」とはこのことを意味し、一瞬一瞬の時がすなわち葉である。その葉のゆれをなし干渉して干渉した各一時が相互に意味付けて“時間”を形成する。
ひとつひとつの時は、それら単体においては無に等しく、意味がない。何かが意味を持ちうるのは、そこに関係が表れて初めて意味となるのであれば、全宇宙の原寸大の鑑賞者不在の立体絵画である一片の時は意味をもたない。時は不動だから、思念も現れようはずもない。思念は時間にほかならない。時と時が連絡するところに思念が生まれる、その連絡の仕方は自在であって、我々にとって整合性のある時間系列とは限らない。ひとつの時はべつのすべての時との連絡をすでに有し、その経路の一本として私たちがみているこの時間系列があるのにすぎない。これは系列が選ばれるということではない。ありうすべての系列にはそれぞれの思念のありかたがありえ、そしてそれらは可能性としてではなく、すでに走査し終わっていて、走査のさなかにその時間に即した思念が起こる。この思念の発生がすなわち「キミを象る」の意味となる。
空想も置き去る
終わらぬ変幻の空
あー勝利さえひれ伏す
止まらぬ雲の無意味な履歴
我々の意識は我々の時間意識に馴化しているため、なかなかまったく別様の時間系列を想像するのが難しいが、それは事実的にある。我々の時間意識に拘束された空想すら“雲”は置き去って今から今へと運行する。その運行は果てしなく終わることがない――一篇の小説を半ばまで読み進めている私が抱える書物はすでに書き終えられたものとして、その手にのしかかっているとはいえ、読み進めている私という時間は何度でも繰り返される。
あらゆる時のバリエーションを余すことない海洋があるのだ。バリエーションは別のすべてのバリエーションに接続している。それを切り捨てているように見えるのは、我々一経路でしかない時間系列に従属する者の視野のためである。この低い視野から飛翔して、時の雲海を一望する地点からすれば、もはや「勝利さえひれ伏す」のがわかるだろう。つまり、時は時、すべての時のひとつひとつは絶対的な前後関係をもたず、自在に先立ち、また後を追う。それは一斉に成されており、優劣も前後もない。言葉が何かを指示できることや、認識が対象を認めることができるのは、混沌のなかから手がかりを得て輪郭を選び取る(その他の輪郭を捨象する)ことで可能である。犬といっておよそ可能な指示対象のすべてをその語に包括させたら、犬という語は何も指示しないものと同義になる。
そうならず、犬が犬の意味をもちうるのは、犬の語に相当する対象と相当しない対象が切り分けられているからだ。その切り分けは人においては人と対象との関係、対象と対象以外との関係によっておこなわれている。
この上空初期値における世界観にはそうした切り分けるために必要な主体という概念が脱落している。そのためにすべては同‐時であり、無意味である。変幻自在の雲は手前に表した表象を容易く手放してもう別の表象へと移るのである。そこに我々の時間意識による連関が見出されようとも、見出されない連関と同等の価値しかない。あるいは価値が設定できない。これが「止まらぬ雲の無意味の履歴」と言われている。
見よ残像は白き屋根
天涯の都市儚げに
見る間にも丘陵に輪廻する
雲の織り成す一瞬一瞬の形影は、前後関係が断ち切られ、すべての形影と同等に結ばれているから、いま眼前にひとつの“次の時”が提示されても、その時は偶然的だ。すると眼前にしない別の“次の時”が一挙に幻視される。また、時間がすべての時に向けてあるということは事実見た“手前の時”もすべて現在化する。これが「残像は白き屋根」といわれている。「天蓋の都市」が都市から都市への、我々の時間意識に根ざした変幻でなく「儚げに見る間にも丘陵に輪廻する」のも、こうした上空初期値の時間意識によって整合性がある。
舞い飛ぶ遺恨の塵
あるがままの滝に落ち
懐かしく無に帰る跡形も無く
「あるがまま」とは、この空観的な境地(一時は全時に連結している)を示し、諸々の時間順列において起こる様々な遺恨は開かれて、意味を保てず(しかし、諸々の時間順列(一系列の権威化)のなかでは相変わらず遺恨は遺恨である)瀑布となって静謐な滝壺に至る(「懐かしく無に帰る跡形も無く」)。
空想も置き去る
終わらぬ変幻の空
あー勝利さえひれ伏す
止まらぬ雲の無意味な履歴
意味は他の系列を排して限定的に抜き出す(系列を権威化する)ことによって現れるなら、すべての一時が他のすべての一時と同等に接続されるとき、意味は脱落する。すでに書き終えられた書物だけが私たちに与えられていて、どのような独創もこの書物を漏れない。そしてその書物を手にとる者ではなく、私たちは読まれる文字列として存在している?
見よ白き視野を昇り
見よ白き視野を昇り
見よ「ようこそ」と聞こえた
雲の形影は一時が権威化した今によって迷いを生じたが、権威が脱落したときあらゆる意味は脱落し、同時にあらゆる意味が現出する。
見よ錯視の霧は晴れ
見よ「ようこそ」と聞こえた
錯視は一系列によって見られた時間意識であり、その時間意識は他の系列の時間意識によって相殺される。
見よ隠し絵は解かれて
見よ「ようこそ」と聞こえた
いま眼前にない時だからといってそれはないのではなく、ある時もない時もかわらずにある。
飛べ混沌の風を切り
雲海の谷見るがまま
ここでいう「混沌」は全時と同義である。そこを風が切り脱落した意味が今度は回復して、時と時を自在に系列化していく。前段階で得た全時現今の意識(不生不滅)から生じ滅する時間へと回帰している。その生じ滅している時系列も全時と同等にあり、ゆえに「雲海の谷」も「見るがまま」にあるといえる。
降り注ぐ陽の粒子
終わりなく
その現前する一時は無無常の一時として、あり続けて現前を終えてもあり続ける。
聞け断片のキミの声
自在の海に洗われて
意味を成し放たれて
今を象る
「断片」はここでは「キミ」と「キミの声」と両方にかかっている。ある者が主体化することは、全時から系列化された時間へと捨象が起きることである。一時一時にはキミでもありうる者の声もあり、ただ、その音は他のすべての一時へと発散(自在の海)している限りは意味をもてない。ある系列へと収束するときそこに言葉と化し「意味を成し放たれて」この発語によって「今を象る」。
空想も置き去る
終わらぬ変幻の空
あー勝利さえひれ伏す
止まらぬ雲の無意味な履歴
見よ白き視野を昇り
見よ白き視野を昇り
見よ「ようこそ」と聞こえた
見よ錯視の霧は晴れ
見よ「ようこそ」と聞こえた
見よ隠し絵は解かれて
見よ「ようこそ」と聞こえた
見よ白き視野を昇り
見よ「ようこそ」と聞こえた
これは平沢進流に表現された中観の歌である。