貞久秀紀『外のなかで』から一篇読む
前作『具現』にもあった「ある日」はこの詩集でも特徴的な使い方がされている。
昔話は「むかしむかしあるところに……」と始まる。この「あるところ」はどこかであり、どこでもよく、「むかしむかし」もいつかであっていつでもよいのであり、この開幕の負う効果は普遍性を醸すといえる。いつかどこかであったともいつでもないどこでもないところでの出来事として場面を不確定へと設定する。
貞久の「ある日」はこれと対照をなしている。
分かるだろうか。まず2連からなるこの詩は、ひとつの時を2度書いている。それは「この子」が「わたし」と松林にいて、松ぼっくりを拾って手渡してきたという場面だ。1連目はその概要、2連目はその詳細。
ただ、一面ではこの2連の情報量は等しい。第1連は長い一文からなり、「だった」と締められる。第2連は二文で構成されている。前者はやや遠景的であり、後者はそこにある実際の目で捉えられたように見える。前者は回想的で後者は肉感をともなっている、と言ってもよいかもしれない。
2連目の冒頭におかれた「ある日」は記憶から遠のくことのなかで、しかもその日がたしかにあり、それが固有の時間であることを示している。「触れることのできるわたし」という印象的な表現がそれを決定づけており、それら舞台はその子の目によって出現していくように描かれている。「むかしむかしあるところに」とは決定的に異なる、現在的で具現的な手法で描かれているということだ。それでいて、こうして詩に残されることでようやく留められうるものになる些細な時間であり、しかも詩のなかでは石のように質量を伴った時間として表現され私たち読者へと手渡されている。