詩集『ウイルスちゃん』への雑駁な想念
暁方ミセイの第一詩集『ウイルスちゃん』(思潮社2011)から数編を読み返していた。頭はまとまっていない。といって、まとめるちからがいまの私にはないから、そのままいくつか書きつけておく。以下引用は特に断らない限りすべて同詩集から。
この詩人が詩で瞼をひらき世界を眼差すとき、眼奥に死のイメージが定位する。「呼応が丘」に噴いている蒸気は主体の血液と同期して世界へと発散していく。
「死のイメージ」は死の安寧のようでもあり、そこはかとなく見られる存在である属性への嫌悪のようにも見え、恒温動物として世界と繋がる自己が雪の降る景色のなかに立つ「世界葬」では人体を悔いているようでもある。
世界と同化しながらも、その世界を人体によってしか眼差していないということが語られている。雪のなかで凍えてみることに自己の死のイメージはむしろ薄く、人体の火によって溶ける雪のほうにこそ弔いの念をおこすとき、認識の火によっても世界は「わたしへと」溶け「輝かしい現実」を失いつづけていることに思い至っている。
主体にとり、世界は慎ましく運行していて、あるものがあるように変転している。そのなかに私たちが<生物>とか<死>とか言い習わしている、他よりすこし尊いと感ずるものも、他のすべてと変わらない価値で、均質に生い、均質に失われていく。「わたしはからだ」は体とも空だとも変換でき、その両方を包含している。そして空なのは自己だけではなくすべてがそうなのだ。
別の詩集にはこうある。
こんなに死を静かに描写したものを知らない。「この冬に死ぬ虫は、この冬を恨まない」のは冬によって彼は死ぬのだが、冬が殺意によって殺すのではなく、慎ましい運行のあいだに生じた関係のなかで死ぬのに過ぎないためだ。そこに意味や生き甲斐といった無粋なものは介在しない。
人は社会的生活に慣れ過ぎて、社会的な価値/構造に執着する。生きることに意味を求めるのも、そうした社会的永続性のなかで意味や目的に飼い馴らされた結果だろう。社会が神なのだ。神の手を逃れたところに暁方ミセイの目がある。フラットに生成と剥奪が繰り返されていて、その只中を生きようとしているように見える。
生き残ろうと欲望はいつも喧しい。熱波の注ぐアジアの河岸でなおも肉体は生きようと環境に抵抗する。あの蟋蟀のように生きられない。詩の冒頭「苦悩なんてたいていつまらないことだ、すぐに終わるよ/待ってて、/シッダールタ、/楽園で」も生を適切に軽くしようとしているようにみえる。
詩集のタイトルはおそらくここと同根の意識だろう。「ウイルス‐ちゃん」とは「苛まれる肉」のない亡骸に吹いていて、人にあっては脅威に思うウイルスに敬称——なかでも愛着的な「ちゃん」——をつけて呼称し、その脅威性をフラットに変えているのだ。
ウイルスはなにも生物をとって食おうとしているわけではなく、慎ましく運行する全体の一部のなかであるようにあるだけの存在であり、そこに憎悪や脅威は晒された生物の、なかでも免疫反応を示す者の目にだけそう映るのに過ぎない。
『ウイルスちゃん』収録の詩の主体はいつも、苛まれる肉体に苛まれている。肉体をもつことの苦痛の発現するのは、見られる存在であった者、自己の選択を自己から奪われた者のうちにではないか。主体は環境の襲来によって覚える苦痛に耐えるのではなく受け入れようとしているようにみえる。このへんの詳細は、語ろうとすれば詩集のことを語っているのか自分のことを語っているのか分からなくなるので、ここでは控える。また機会があればそちらのほうについても別に書いておきたいと思っている。兎に角そのために、生存しようとする肉体が疎ましく、苛まれる肉のない視線だけになりたいと願うのだ。
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