酒井登志丸『魳のうた』
手書きがそのまま印刷された、おそらく少部数の私家版なのだろう。40ページほどの薄い本である。これを高知県の図書館横断検索にかけてみても、わずかに2館のうちに1部ずつ所蔵されているのみであり、書籍を知る者は少ないと思われる。が、その内容の展開は整っていて、著者の文芸への明るさを感じることができる。著者の体験記録としても貴重なものだ。
書名の魳とはカマスのことである。この書籍は著者が少年期に体験した地元のカマス漁の記録を中心に、当時の状況を語る。著者は昭和の初めの生れとのことである。
漁業というのは収入が魚群の到来に左右される不安定なものであるらしい。漁村のひとつである酒井登志丸の生まれた高知県の漁村についてもそうであった。歴代の村長は村民の食糧を確保したいため、村の山を開墾する願出を繰り返し国に送っていたが、なかなか許可がおりることはなかった。ある村長になったときこれが進展する。責任は自分がとるからお前ら勝手に山を拓けと、実力行使を促したのだった。しかして、山は畑となったが、国からのお咎めはなかったという。
その村長は日露戦争で軍功を挙げた人物でもあったとのことで、話はこれに移る。上官を逃がして自分は捕虜になったのだが、酒井はここにたとえ死を選んででも捕虜にはならないといった太平洋戦争の「ヒステリック」な意識との違いを指摘する。
著者が物心ついたころには、すでにきな臭い雰囲気が漂っていた。辺境の漁村にもそれは翳を落とし、村に若者の姿はなかった。
山で畑をする者が、沖にカマスのなぶら(魚群が立てる海面のざわめき)を見つけると、村全体がどよめいて海へ向かったという。そこに見えるのは、老人、女性、子供たちの姿であった。まずは畑をしていた者が鍬を投げ捨てて一散に傾斜を駆け下りる。「カマスだぞ」の咆号が村中の視線を沖に集めた。カマスは網漁であり、魚群を取り囲むように網を張って引き揚げるチームプレーである。あれよという間に陸の舟に村民の黒い人だかりができる。騒ぎは小学校にも当然響く、校舎はもぬけの空となって、少年たちまでが舟に乗ったのだという。著者もそのうちの一人だったのに違いない。
舟は名人の先導の下、網を巡らし、そのときを待つ。このカマス漁の瞬間を著者はベルリンフィルハーモニーと指揮者カラヤンに擬え、臨場感豊かに描写しているこのくだりは圧巻である。名人の号令を合図に一斉に網が手繰られる。海底から上がってくる網の上に逃げ惑うカマスの腹が無数に反射しながら、ぐんぐん海面に近づいてくる。やがて海面が音を立てて泡立つのである。
著作はその後も船上の飯の話から陸へ上がって女性が手早く加工する話などと続くがここでは割愛する。
本著作のなかで特に示唆を覚えたのは村の漁場の話である。当村の漁場は広く、近隣の村の沖にまで及んでいたのだが、これには被差別地区のことが関係しているのだという。漁場がそのような配分であることを、村民もその一人である著者も、また被差別地区のほうも、それに疑問を挟む者はいなかったのだという。昔からのことでそれが当地の人たちには当たり前だったと。
被差別地区の側が実際そう思っていたかについては留保が必要かもしれないが、当たり前だと思っていたということもあり得ない話ではないだろう。
酒井はいう。当然だと思っていること、それ自体が差別なんだと。当たり前に漁場を持てないなら、当地で海産の幸(サチは元々獲物を射る矢を指し、のちに獲物自体をも指すようになって、さらに現在使用されるように幸字を当てるようになった)を獲ることは望まれないことになる。当然、そうなれば職をひとつもてないことになり、貧窮の機会は増えて生活を苦しくするはずである。
当然だと思っていること。自分たちには当たり前のこと。それこそが差別だ。この著者の言葉は私の記憶に深く差し込まれることになった。
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