BLMと暴力と
今日の関心事はBLMです。もう大体Twitterに書いてしまったのでそれをはりつけます。
そもそもBLMって「政治」運動なのかね。。。僕の中での「政治」の定義には「対立の調整」という意味が大きなウェイトを占めていて、つまりロンドン五輪に竹島の問題を持ち込んだのはその論理の正当性に関わらず良くないと思っているんだけど、BLMの対立者って誰?(続く)
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
おそらく大半の人は暴力的な略奪者を問題化するのだろうけど、それは問題の本質ではない。僕は以前に暴力の正当化を試みていて、その時には気づかんかったがことの根底にあるのは「不信感」だという気がする。(続く)
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
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「暴力はいけないから、その暴力を手段に用いているBLMはくそみたいな運動だ」というのはすごく簡単。でもそれだと問題の本質を見落とす気がしてならない。その暴力の根底を黒人という集団に帰属させるのか「そうさせている社会」に帰属させるのかで意味合いが変わる。(続く)
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
要は、これは極端な物言いかもしれないけれど黒人に暴力を「使わせてしまっている」アメリカ社会そのものに焦点を当てない限り最終的な解決には結びつかないというのが僕の意見。上のスレッドとの接続を考えれば「不信感」を取り除く作業をしなければならない。(続く)
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
じゃあ、今のBLMが「不信感」を取り除く作業ができているかと言われればそうではない。むしろ一部の暴力行為、過激な発言、そしてそれを「政治問題」化、つまり、対立構造を作る人たちによりむしろ人種間の「不信感」は増大している。その意味においては、今のBLMのままでは問題解決にはつながらない。
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
でもそれが大阪選手の批判に結び付くんかね?確かにスポーツ選手がコート内に政治問題を持ち込むことは良くない、っていう了承はある。けれど、僕の視点からはそもそもBLMは政治問題ではない。何故ならBLMが目指すものそれ自体に対立する人が想定できないから。人種差別の反対の反対って…となる。
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
僕の「政治」の文脈がどれだけ正しいかは知らないけれど、僕は大阪選手の行動を支持するし、そもそも今回の全米OP優勝は素直に祝福したい。https://t.co/0pRO38r18L
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
6月にも一度twitterで書いていてそれを踏まえた話になっているからいくつか話をしておこうと思います。
まず今回のBLMが主張するものは黒人差別の撤廃であって、それ自体に批判される筋合いは全くない。「黒人第一」なんてもってのほか。
ではなぜ今回賛否両論があるかと言われればその残虐性に見出すことができる。言ってしまえば暴力を伴っているからだ。その暴力・残虐性のおかげで特にネトウヨから批判が飛び出すし、そうじゃない人から見ても忌避したいな、という感情が出てしまう。
だからこそ(?)僕は6月に敢えて「暴力の正当化」を試みた。その論理はこう。
①マックス・ウェーバーの暴力装置に着目する。国家が国家であるゆえんは暴力を独占しているからだ、という論理。←これはのちにアーレントによって批判されているみたい。
②ではなぜ暴力の独占が容認されるのか、に注目する。そこまでマックス・ウェーバーに精通しているわけではないので誤りがあると推測されるが、僕の中での回答は「赤の他人に持たれるよりまし」というもの。国家という可視化されたものに預ければ安全だろうし、参政権によってあるべき姿に関する意思決定にも参加できる。
③ただし、黒人は暴力を預けるメリットを享受できない。契約が成り立たない、と言ってしまってもいい。
④その場合、メリットを享受できない側は契約を破棄するだろう。つまり、暴力を自分たちのほうに引き戻すことを選ぶ。その方がメリットが大きいから。そうすると、国家は暴力を独占できなくなって混乱に陥る。
こういうことを抜きに「暴力はいけない」とただ叫ぶだけは理想論だと思う。なぜなら、暴力は「合理的な」行動だから。
なんとなく分かってもらえたかな?
#ANTIFA暴動 #Antifacism
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) June 2, 2020
権力側が催涙ガスや軍隊という暴力を丸腰の市民に使えて、抗議側がフル装備の警察に向かって石の一個も投げ返せないのは不平等なのかな?忘れがちだけどアメリカの市民は最悪銃を持ち出せる。けれど、そもそも政府が政府であるためには暴力の独占が1つの条件(続く)
市民の側も暴力を預けるメリットがあるからここには合意形成がある。なぜならよく知らない赤の他人に暴力を保持されるより国家のほうが可視化されて安全だから。国家からすれば暴力(オブラートに言えば飴と鞭の鞭のこと)のある方が統治はスムーズにいく。ただ今回、いやそれ以前からその前提が成り立
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) June 2, 2020
たない人々がいる。暴力を国家に預けることが、おのれの安全につながらない人々がいる。ANTIFAがどういう組織かは正直様々な人を介する二次情報だけじゃわからない。ただの暴力狂人の集まりかもしれないし、まともな人が大半で一部の過激派が印象を悪くしているだけかも。ちょっと話それるけど
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) June 2, 2020
話を戻すと、「国家という可視化された暴力は安全」っていうのは、今まで差別されてきた側からすれば1つの神話。その人たちからすれば、国家に暴力を預けた覚えはないし、預けていたとしてもそれを自己防衛のために引き戻したいと思うのでは?けれどそれは国家の崩壊を意味するから代償が大きすぎる。
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) June 2, 2020
ただね、やっぱり暴力はいけないと思うんですよ。「正当化」って書き方は反省材料であって、僕は暴力容認派ではない。
なんて言ったらわからないけど、この類の運動に暴力は「不可避」だと思うんですよね。←政治家がしゃべったら炎上案件なんだろうなぁ。。。
だからこそありのままを受け止める必要がある。暴力の称賛はもってのほかだし、容認はできないけれども、ただ単に暴力反対を叫んで、この運動を貶めようとするのは問題の本質が見えなくなってしまう。
そういう価値判断だけにとどまらず「なぜ暴力は起こっているのか」に注目する。「その場の怒り任せ」ではここまで長続きしない。「誰か黒幕がいる」は一部の人には耳障りのいい話だろう。「今まで差別された仕返し」なのか。ではなぜ無関係なものまで巻き込まれるのか。こんなの話していたらきりがないし答えはもっと複雑なもの。
そういうのを1個1個取り除いていかない限り、問題は収束しない。さっき、「暴力反対」と単にいうのは理想論だといった。なぜか? 問題解決のためには原因を探さなきゃいけないから。
暴力を「使わせてしまっている」社会に注目するという視点が必要。黒人という集団に帰属する行為に反対の立場をとる。
僕の意見の理論的背景は障害者の社会参加の障壁を障害者個人にではなく、社会の側、つまり、社会の側に原因があるんだ、とする社会モデルの考えからとってきている。
「個人モデル」とは、障害者が困難に直面するのは「その人に障害があるから」であり、克服するのはその人(と家族)の責任だとする考え方である(6)。それに対して「社会モデル」は、「社会こそが『障害(障壁)』をつくっており、それを取り除くのは社会の責務だ」と主張する。人間社会には身体や脳機能に損傷をもつ多様な人々がいるにもかかわらず、社会は少数者の存在やニーズを無視して成立している。学校や職場、街のつくり、慣習や制度、文化、情報など、どれをとっても健常者を基準にしたものであり、そうした社会のあり方こそが障害者に不利を強いている――と考えるのが「社会モデル」である。「障害があるから不便(差別される)」なのではなく、「障害とともに生きることを拒否する社会であるから不便」なのだ、と発想の転換を促すのである。
黒人だから…ではなく「黒人とともに生きることを拒否する社会」を変えなければいけない。
「暴力はいけないから、その暴力を手段に用いているBLMはくそみたいな運動だ」というのはすごく簡単。でもそれだと問題の本質を見落とす気がしてならない。その暴力の根底を黒人という集団に帰属させるのか「そうさせている社会」に帰属させるのかで意味合いが変わる。(続く)
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
要は、これは極端な物言いかもしれないけれど黒人に暴力を「使わせてしまっている」アメリカ社会そのものに焦点を当てない限り最終的な解決には結びつかないというのが僕の意見。上のスレッドとの接続を考えれば「不信感」を取り除く作業をしなければならない。(続く)
— Mizuki Motohashi🦍🍆 (@mars41790498) September 13, 2020
BLMは政治問題ではない。何故かはツイートに書いたけど政治問題は対立構造を前提にしているけどBLMに対立者が想定できない。だからまずは社会問題としてとらえる。対立構造よりも1つ高次元なもの。その上で「自分事」としてとらえていきたい。自分たちが見知らぬうちに加害者になっていないか、被害者になった時にきちんと声を上げられるか。
追加:似たような記事があったので
↑暴力は仕方がない。と言って許容するのも違うし、ただ反対って叫ぶのは簡単。ただこれは同調圧力というか、「みんなの問題」として考えたい。