菊畑 茂久馬(もくま)「孤独と反骨の画家」日曜美術館から①
感染拡大からせっかくの休みの予定をキャンセルせざるを得なくなり、大人しく過去の日曜美術館を鑑賞。前回の篁牛人に続き、またすごい生きざまな画家だったのでご紹介させて頂きたい。長いので前半後半に分ける。
菊畑茂久馬。長崎の五島生まれその後福岡で暮らす。早くから父母を亡くし戦争も体験し、孤独と戦い続けた画家だ。美術の世界で早くから世界的に評価もありながら敢えてそれを捨て、画家としての表現を模索しながら20年間絵から離れる。その間他者を通して自己の表現を見いだし再び絵を描く。
この画家を語る上でその生い立ちは色濃い。菊畑は3歳で漁師の父を亡くす。母は茂久馬が5歳の時に福岡に出て住み込みの働きを探すが断られる日々。再び長崎の叔父に引き取られる時期があった。
1945年、茂久馬10歳の時に福岡大空襲があった。200基以上の焼夷弾が落ち、死者行方不明者1000人以上。母は防空壕には逃げ込まず、茂久馬の居る壕の上に布団をたくさん掛けて水をひたすら掛けていたという。その母も敗戦から5年後癌で死ぬ。15歳でひとりぼっちとなった。
23歳の時に孤独な自画像を描き、画家として生きることを決める。
その頃時代はひとつの変わり目を迎えていた。
日本の経済発展に貢献し続けていた石炭鉱業。それが石油へと代替わりしていった。1959年から始まる三井三池炭鉱で起こったストライキ。会社が大量の解雇通告をしたために三池争議が始まる。
そのような時代の流れは美術界でも一足先に起こっており、福岡で反体制、反芸術を掲げる「九州派」という前衛美術集団が結成された。ここに菊畑も加わっている。
「反芸術」とは、今までの彫刻、絵画などの既存の芸術の枠組みを逸脱し、それを打ち壊し、もっと自由につくろうという思想や芸術運動のことだ。その時期に作った作品「ルーレットNO.1」はモノに振り回される現代を表現した作品。アメリカでも評価をうけた。
1960年代後半、大阪万博が開かれ、国や企業が芸術に大量の資金を投入する。それを菊畑は芸術が新たな技術や素材によって商品化していくように感じた。
こうした時流に乗ることに違和感を感じ、それから作品制作から離れていく。
1970年に戦争画返還があった。153点もの作品がアメリカが接収していたものが返還されたのだ。菊畑はそれに出会い画家にとって戦争画とは何だったのか?表現とは何なのかを考察した。
特に藤田嗣治の『アッツ島玉砕』について語っている。この作品はアリュー島で日本軍が全滅した最後の突撃を描いている。
「藤田は戦時中の画家のありさまと、全戦争画の批判を一身に受けているのである。多くの画家たちが単に戦争の絵を描いているのに対し、藤田の画面だけは終始して嗜虐的に対象に食らい付き、ここぞとばかりに地獄を這いずり回るのである。これはプロパガンダを越えた名画である。絵を記録に残すんだ、戦争に協力するんだという所を突き抜けている。やはり絵描きなんだよ。」と。
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藤田嗣治という画家は正直私の好みではない。女性の人物画を描いているイメージでフランスに帰化し、その時代のフランス的絵画の影響を受けている。しかし戦争画を戦場で描いていたのは驚いた。またその迫力たるや。これは正に地獄絵図だ。
実は篁牛人も藤田嗣治の影響を受けている。菊畑と篁に共通している孤独感。ふたりは一筋の光明として藤田の絵画の突き抜け方を見習う所があったのではないかと思った。
先人の、時代に抗いつつも自己の表現を追及し続けた姿に。
菊畑 茂久馬(もくま)「孤独と反骨の画家」日曜美術館から②
https://note.com/marry015/n/n8cdab98ca900
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