見出し画像

"待つ"ということ

梅の写真を見せて"待つ"をテーマに書かせていただく。
昨日の接客の話。
基本忙しくない時間帯は、私一人での接客時間が長い。そのタイミングでお客様がわりと僅差で入られた。最初のお客様はお弁当2つ頼まれた上に惣菜まで注文されたので時間にしたら8分くらいか?次のお客様を待たすにはちょっと長すぎた。
時間がかかりそうだな、と、待つ側のお客様が判断した場合、帰られる方が多い。それくらい今の人は"待つ"ことを嫌う。
しかし、今日のお客様は違った。イライラしたムードを全く出さずにゆったりと待っていらした。私は大急ぎで注文を用意しながらもあまり焦りを出さずに最初のお客様を接客した。
少し注文が多いことを申し訳なく思ったのか最初のお客様が待たれているご婦人に謝まられた。しかし気にしないで下さい、順番ですからと当たり前のようにと返された。

最初のお客様の接客を終え、そしてご婦人が注文を言い終えたタイミングで私は感嘆し、感謝を述べた。
ご婦人は「私の方も待たせることがあるでしょう。だから私も待ってあげなきゃ。」「たまに怒りだす方がいらっしゃるけど、ねぇ。お互いに気持ちよくいれた方がいいでしょ?」とおっしゃった。

素晴らしいなと思った。待つことは出来ても心安らかとまでは中々いかないものだ。
私もここを目指している。残念ながら一瞬イラついてしまうが、すぐに手放し気持ちをシフトする。イライラほど心に毒なものはないからだ。

とはいえ以前の私は待つのは大嫌いだった。いつも急いでいて、時間はいかに有効に使うかというスピード重視の生き方をしていた。
信号も車がいなければ無視は当たり前。そんなわずかな時間すら惜しかった。

そんな私の生き方に疑問を呈した方がいた。
松田隆智先生。私の直接の師ではないが、八極拳を世界に知らしめた有名なお方。
何度か同じ講習会にご一緒する機会があり、駅から現地までの道のりで共に歩くことがあった。その道で一ヶ所、ここに信号が必要なのかと思われるほど道が狭く、車の通りがほとんど無い横断歩道がある。私は当たり前のように信号無視をしていたが、そんな場所でもちゃんと松田先生は待たれた。その姿に私は驚きを隠せず、こんな場所でもちゃんと待たれるんですね、とお聞きした。
その時の回答が、「子どもが見ていたら真似しちゃうでしょ。だからちゃんと待たないとね。」だった。
母親となった今ではその感覚はわかるが、その時それだけではない、何か人生のあるべき姿を示されたようなようか気がした。それ以来、私は自分の生き方を見直さねばならない、そんな気がしていた。
その時から、私は"待てる"人生を目指した。気持ちに余裕のある生き方をしたかった。しかしこれが出来るようになったのはここ1、2年前からだ。結局15年くらいかかってしまった。


待つという行為はどこか時間を感じさせない、優しさを感じる。
その思いは時間の概念を越えた空間へと導く。そう思うと時間はあるようでないような気がしてならない。時間から自由になる、そんなところの住人でいたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?