前回までの話
世の中には、
自分の心が服に表れている人と、
自分の心が服に表れていない人がいる。
自分の心が服に表れている人は、
その人がイメージするその人自身(自己イメージ)と、その人が着ている服がぴったりと一致している人であり、
それは服が似合っている人である。
逆に、自分の心が服に表れていない人は、
その人がイメージするその人自身(自己イメージ)と、その人が着ている服が一致していない人であり、
それは服が似合っていない人である。
「服の似合わなさ」は絶対的なものではなく、
『今現在「服が似合わない」状態にある』という状態像である。
そしてその「服が似合わない」状態は、自己イメージと服の不一致が、違和感を醸し出している状態である。
自己イメージはこうして作られる
では、自己イメージはどのようにして作られるのか。
人は、他者とやりとりをしながら自己イメージを作っていく
他者とのやりとりは、赤ん坊の頃の母親とのやりとりから始まり、少しずつ世界が広がる中で、様々な他者とのやりとりに広がっていく。
やりとりしながら、少しずつ様々な他者を自分の中に取り入れ、また自分の思いを他者に表現する中で、自分はこういう人間だというものが固まっていく。
そして、概ね小学校3〜4年生くらいから、自分で自分を客観的に見ることができるようになる。
自分で自分を客観的に見て、自分で自分を評価できるようになる。
このあたりで、自己イメージというものが一旦確立することになる。
自己イメージが確立して、自分で自分を評価できるようになるのだけれど、そもそもその評価の基準は、他者によって作られている。
そして、多くの場合その基準の大元となるのは、養育者(多くは母親)である。
誰とも会わなくても感じる違和感
服は、人と人との間に表れると書いた。
しかし、誰に会うわけではなくとも、自分が似合わないと思う服を着ていると、なんとなくぴったりしていないと感じられ、違和感を抱く。
そして、気分も落ち込んでしまう。
これは、自分が自分を否定的に評価しているという状態であるが、自分の評価には常に他者のフィルターというものが介在している。
先に書いたように、自分の評価は、これまで出会ってきた他者によって作られているものである。
自分が自分を評価するというのは、自分の中に存在する内的な他者が、自分を評価しているという状態である。
よって、「自分は服が似合わない」と感じている人は、自分の中に存在する内的な他者との間に表されている服に納得ができず、違和感を感じている状態、というわけである。
そしてその違和感は、やはり現実に服が似合わないという状態を作り出す。
養育者の言葉という呪い
たとえば、「あなたは服が似合わない」と幼少期から常に養育者に言われながら育った子がいるとする。
そのような子は、どんな自己イメージを確立することになるのか。
そのあたりのことを次回書いてみたい。
お時間のある方は是非、よろしくお願いします。
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