表現するために許す
自分の頭の中にあるものを、何らかの形で外側に表現する。
自分の頭の中にあったものと、何らかの形で外側に表現したものは、イコールではない。
もし仮に、頭の中にあるものをそのまま表現できたとして、それは単なるごちゃごちゃしたよくわからない、まとまりのない、捉えどころのない、何かでしかないだろう。
自分の頭の中にあるものを何らかの形で外側に表現するということは、多かれ少なかれ変換するという作業を含んでおり、整えて出す、という作業を経ている。
文章にする、絵にする、音楽にする、ダンスにする、暴れる、色々な表現方法があるけれど、いずれにしても、外側に表現するということは、頭の中にあるものを違う形に変えて出すということである。
自分が外側に表現したもの、それは、自分の頭の中にあるものから生まれたものではある。
しかし、基本的には、自分の頭の中にあるものと、自分が外側に表現したものは別物である。
このことを前提として。
自分が外側に何らかの表現をしたときに、その表現が自分の頭の中のものをうまく表すことができたと思うことがある。
あるいは、外側に自分が表現したものが、自分の頭の中のものを全く表せていないと思うこともある。
そこには個人のどのような判断があるのだろう。
自分が外側に、ある表現をするとする。
その時、自分の中の他者が、自分が外側にした表現を眺める。
その自分の中の他者が、「この表現はなかなか良いぞ」と思う場合、その表現は、自分の頭の中のものをうまく表すことができたと思うことになる。
逆に、自分の中の他者が、「この表現は全然ダメだ」と思う場合、その表現は、自分の頭の中のものを表すことができていないと思うことになる。
この自分の中の他者が厳しすぎるとき、あるいは批判的に捉えすぎるとき、人は自分の表現を納得して捉えられなくなる。
自分の表現したいことが表現できないと苦しむ人、これは、自分の中の批判的な部分が優勢になっている人ではないだろうか。
生きることは自分を表現することである。
自分がうまく表現できないと思うこと、つまり自分の中の批判的な部分が優勢になりすぎて自分が表現できないことは、そのまま精神的エネルギーの低下につながる。
自分の中の批判的な部分を抑えるということ、あるいは自分を許せる状態に自分を持っていくということ。
これが、精神的エネルギーを充足させるための一つのアプローチであるように思う。