【エッセイ】恵まれた側の視点から日本の中にある遺伝的な格差と貧困について考える

深夜に手持ち無沙汰になってしまって思考を形にして残しておきたいと思ってなんとなく文章に起こしてみる。
 この文章を読んでくださっている人の中に一時期話題になった本「ケーキの切れない非行少年」を読んだことがある人はどれくらいいらっしゃるのかはわからないが、あの本は日本人が目を通しておくべき本の一冊だと思う。全然読みやすい本ではないし読んでいて頭が痛くなるような内容も多々あるが人間というのはある程度閉塞的な自分の周りの社会の中で生きることしかできないし、社会全体がその世界をコピーして少し違う色を塗っただけのもののように思っている節がある。私もその一人で私はそこそこ治安がいい地域の公立小学校から一応学力では県1番の、富裕層が集まると考えられている中高一貫校に進学しているわけでなんだかんだ社会というものをそれの延長線上にとらえていたのだ。それは当然間違いであってこの日本という国は上から下まで本当に様々な人間を内包している。そしてこの日本においての一番下の部分(これより下があるのかもしれないが私にはそれを思考できない)をあの本は私たち日本人に示したのである。あの本は自分より明らかに弱い小学生低学年の女の子をレイプしてしまう中高生男子をただ"やばい人”として処理してしまう、現代をなんだかんだ文句を言いながらも生きていける私たちに彼らを私たちが目を向けなければならない社会問題として扱わせる。貧困に陥って明日の食費も怪しいような人に「努力が足りない」と言ってしまう年収600万円の人はケーキを3等分できない人の存在を自分事としてとらえていない。それこそがこの言葉と社会の暴力性であり、資本主義の内包する大きな問題だと思う。
 根本的に、物のとらえ方の根本的な部分で劣った人を0か1かでとらえていてその間のグレーゾーンと呼ばれるような人のことを私たちは根本的に理解できていない。自閉症やダウン症やADHDと診断がついていない人にちょっと忘れっぽいところはあるけど自分と同じぐらい頑張れば自分と同じぐらいの成果が出せると私たちは無意識に思っている。人間は一人ひとり脳が違ってできることが違うのに同じ人間なんだから、と心の底では思っている。彼らが死ぬ気で頑張ってもできないことを自分ができるということに気づいていない、それか気づかないふりをしている。そして平気で彼らに「努力不足だ。」「その貧困は自己責任だろう。社会に何を求めているんだ。」と暴言を吐く。
 難しい問題だけれどまず私たちは人間の遺伝的な違いというものについて正しい理解をすべきだと思う。そして人間という同じ哺乳類の生物でもこの複雑化した現代において個体によってその差は自分が考えているよりも大きいものであるということを認め、そのうえで自分は何をするべきか、社会はどういう風に変化していくべきか、本当に寛容な社会とはなんであるかということを今一度再考すべきだ。
 Twitterで「楽しみは月一回の回転寿司なんです……」とつぶやく母親の普段の母親のツイートを洗ってみるとスーパーの割高のお総菜を買っていたいたり、衝動で服を買っていたりすることを安全圏から引用リツイートでバッシングするツイートが万バズしている今日のTwitterを見ながら思う。


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