(仮)台湾旅行記:やさしさの萌芽を生む
3作目の旅行記は、全編僕が台湾で撮影した写真でお送りする。
ひたすらその写真と、その説明といったかたちになるが、自由に写真を解釈し、そして僕のタイトルが果たして何を意味しているのかについての想像を馳せるのも、面白いかと。
1.『違う』
ある有名なビルを撮影した1枚。台北を訪れたことのある方ならわかるかと思うが、このビルは台北のどこから見ても見えるような大きな大きなビルなのである。
しかし、実際にはっきりと見えることは少ない。というのも台北は、日本ほど空気が綺麗ではないため、霧やらスモッグやらで霞んで見えることが多いのだ。僕からすれば、きっとこのビルが魅力的に映ったのは、この建築物が珍しいからではないことは明白である。
2.『何処』
台北から地下鉄淡水信義線に乗車し、40分ほど電車に揺られると見えてくる観光地、淡水にて撮影された1枚である。
正直なところを述べると、これは淡水という場所で撮影されたのか、日本なのか、はたまたカンボジアなのか、それはこの写真から類推することはできても、特定することはできない。
しかしながら、僕にとっては非常に意義のある写真を撮影することができたと自負している。構図や色、またこの瞬間を撮影したことについてなど、様々な観点からそれを説明することは控えよう。
僕はシャッターを切った。そして感動した。それだけで十分ではあるまいか。
3.『わかる』
前回のnote(下記参照)でも触れたが、僕は台湾らしい瞬間を撮影しなかったという自覚を獲得し、そしてそこからひとつの考察を出したわけであるが、また違った角度から考察ができるともいえよう。
この写真はこの旅行記を連載しているマガジンの表紙にもなっているが、あるカフェにて撮影した1枚である。
この記事によれば、どうやら僕は光を求め、今までの自分を捨て去るように、あるいは新しい環境、新しい機材、そして新しい祈りを込めながら、写真を撮ったようだ。それによって、全くもって台湾らしくないアルバムが醸成されてしまったという考察である。
なんとも他人事のようだが、僕の思考回路の更新頻度は凄まじく、この文章を読み返すことでしか、当時の思考を思い出すことはできない。今もそう思ってるかと言われると、多分違う。
これは非常に特殊性の強い考察ではあるが、もっと根本的な見方をすれば、僕は「断定」を強く嫌う傾向があるということだ。
それが自分の弱みでもあり(いわゆる、優柔不断ってやつだな)、逆に僕の求める理想でもある。
この1枚も上の1枚も、台湾であることを象徴するとは言えまい。完全でもあるまい。だからいいのだ、台湾だって日本だってどこだって、人は人だ、空だって青くなる。僕はそう信じたいのかもしれない。
あ、また断定を避けてしまったな。
4.『水?』
タイトル通りである。これは水である。海でもある。
僕がどうしようもなく好きな写真で、かつそこまで反響の大きくない写真でもある。何が好きかと言われると言語化に苦しむのだが、強いて言うなら、ふと「これは本当に海なのか?」と思うときがある、といったところだろうか。
先ほど、僕が提示した2枚の写真にも重なるが、これを海であると断定することはおそらく難しい。そして同時に、これを水と断定することももしかすると難しい。ただの模様であって、それを撮影したのかもしれないし、もしくはグラフィックデザインの一種なのかもしれないともいえる。
だから僕はこの写真が好きだ。一枚で何度も味わえる、だから好きだなんて言うつもりもないけれど、僕はそうやって頭をねじらせることが好きなのかもしれない。
ところで、あなたにはこれはどのように映っただろうか?