バレエの美保子先生、徳島県板東の長屋
昨夜、用事があって東京のAにラインすると、
デザイナーのSちゃんが泊まりに来ていて、zine制作も佳境を迎えていた。
おお、頑張っているなあ・・とSちゃんにも心で手を合わす。
デザイナーのSちゃん、才能にあふれているが本当に謙虚な優しい人。
彼女が大好きだ。
去年の暮れに、Aの東京の家に用事で泊めてもらった時も
Call If You Need Meという別のzine制作の最終的な構成やカラーなどの打ち合わせでSちゃんが来た。
Aの部屋は、16畳くらいの広いワンルームなので、本棚とか家具で、
スペースを区切ってある。
なので、夕食を出した後は
私はもうひたすら気配を隠すために、離れた場所に椅子のバリヤを作って、そこに毛布をかけて、自分も毛布にくるまって、無関係な本を読んだり居眠りしたりしていた。
その間、椅子と毛布の隙間からSちゃんたちをちらっと伺うと
結構疲れているだろうに、二人で独特のペースで仕事をすすめている。
緊迫しているはずだけれど、二人の性格か、全然キンキンはしていない。
お茶を出そうか、おやつタイムを提案しようか・・など・・ちょっとだけ考えながら、ひたすら毛布の中で本を読んだのを思い出した。
すると終電ギリギリになり、翌日も会社があるSちゃんが、「ではまた〜」と
柔らかな可愛い微笑みと共に帰って行った。
その時思ったこと。
ああいい子だなあ。好きだなあ、Sちゃん。
おだやかな人って、癒しだし、宝物だわ。
ああ、それで・・・・
タイトルの、美保子先生のことなんだけど・・・
美保子先生はキーパーソンなのに、Aと作るzineに書かなかったことを
あー!!と、今朝、思い出した。
「もう最終編集だから足したり、変更はない?」と昨夜言われて「ない」と言ったもんね。もう間に合わないわ!
ま、とにかく次回、何かの機会があってまたzine作る時には載せたい。
それと写真とことばのzineも制作したいという想いが実はある。
かなうならば、心象風景をあらわせる写真を撮るあの人にお願いできたら・・と
勝手に思ったりしているんだけど。
それで、そのことをポーっと夢想していると、
その「ことば」を書くのは私ではなく、別の人。
そんな未来の幻みたいなものが、ほわりと見えている。私にはよくある予知夢かもしれない。
さて、その美保子先生とは
私が小学校4年から高校3年まで、へたくそなのに習っていたバレエの先生だった。交流は30代まで続いた。
彼女はバレリーナそのものの雰囲気で、子供はいなくて、生活感がなくて、いつも機嫌が良く、軽やかで、とにかくふんわり自由な人だった。
60歳の朝、ベッドで天国に行ってしまっているのを発見された。
虚弱体質でバレエを始めたといっていたし、
152センチ、38キロだったからな。
人には天寿があると、私は思う。
美保子先生のご主人は、写真家で原田芳広という。
四国八十八箇所巡礼の写真をライフワークとして
たぶん彼が43歳くらいの時に、限定で、”遍路”という写真集を出した。
大きな本で、しっかりとした装丁で、当時1万円。素敵な作品だった。
今、おっちゃんはどうしているのか、消息はわからない。
私は、美保子先生に憧れていて
バレエの年上のお友達と、休みが来れば、先生の家に泊まりにいかせてもらっていた。
先生は、徳島の板東(ばんどう)という、昔、ドイツ兵が捕虜として住んでいた田舎町に住んでいた。
板東は、ほんとうに田舎で、そこを美保子先生とおっちゃん(原田氏のこと)ワイン色のフェアレディZに乗って駅まで迎えに来てくれた。かっこよすぎだった。
住んでいたのは、長屋二棟。
なんていうんだろう、長細い二間の平家を、並びで二件、借りていた。
一件目は、美保子先生とおっちゃんの大きなダブルベッドの横に、ご飯を食べたりコーヒーを飲むテーブルのある小さなスペース、その奥に小さな小さなキッチン・・というか、調理できる半畳くらいのスペース。
そして、そのキッチンの向こうの8畳くらいの部屋で、美保子先生のお母さんが暮らしていた。
このお母さんは、ほんとうに穏やかでおおらかで素敵な人で、地元の大きな障害児施設の園長さんだった。泊まっている間、ほとんど気配がなかったので宿直も多くて、留守だったのだろうか?
離れの、もう一件の長屋は、写真スタジオ仕様で、いつもあの、なんていう液体?だろう、すっぱいような写真を現像するための液体のにおいがしていた。
あとあるのは、撮影用の大きな白いスクリーンが壁に吊るされていて、
大きなJBLのスピーカー、これが最高の音だった。
それと、そうそう、大きな白いアメリカ製の冷蔵庫。この中をそっと開けると、黒と黄色のフィルムが何十個も入っていた。(コニカ?であってるかな?)フィルムは冷やしておかなければいけないんだと、だから13歳くらいで知った。
そのガラーンとしたスタジオの方に、私たちはいつもお布団を敷いてもらって泊まっていた。だいたいほとんど、一つ上のゆかりちゃんと二人だった。
ときどき、夜におっちゃんが
東京弁で(おっちゃんの生まれは関東)、
「ごめんね〜。はいるよ〜。」と言って入ってきて
冷蔵庫からフィルムを持って行ったりしていた。
美保子先生のその長屋は、お風呂場は、ちょっとサンダルで歩いて行ったところに掘立小屋のように建っていた。だけど、そこにあるポーラのシャンプーや石鹸のあの素敵な匂い。そのちぐはぐさが、なんとも、しっくりきた。
今思うと、昭和の長屋で、決して、お洒落とかそういうかんじはないんだけれど・・
でも、なぜあの場所は、あんなに魅力的だったのだろう?
あの小さなベッド脇のスペースには、いつもかっこいい来客があった。
写真のアシスタントもしながら、徳島の藍染をしているはらだくん、とか・・
徳島市内の老舗の大きな大きな呉服屋さんの後継で、東京から元ホステスだった美人の女性を連れて帰って、おじいちゃんとお店を経営しながら、都会的な刺激に飢えている白スーツ、ロン毛の男性とか・・。
彼は、そばにいたら緊張するくらいかっこいい人だったのだけど、満面の笑みを浮かべて気さくな人だった。 あ、そう言えば白いポルシェでその長屋に来ていたなあ。
長屋に集まってきたのは
道を開こうとしている染色家、ポルシェに乗る呉服屋の後継ぎ、
同じくバレエの先生をしながらオサムという小さな印刷屋で働くハンサムな夫と漫画みたいに暮らしていた洋子ちゃん(小柄で25歳くらいかと思っていたら33歳だっていうのでびっくりした)。
そしてモダンダンスを極めようとしていた若い女性とか・・・
そしてあの、長屋には飲み物はコーヒーしかなかった。
小学生でもコーヒー。それと、夜おっちゃんがたまに飲むブランデーかウイスキーの瓶。それしかなかった。しかも、コーヒーはインスタントのネスカフェゴールドブレンド。藍色の手作りのようなカップだけは20個くらいあって、私もその中でお気に入りのを自分用にして、泊まっている間は、朝も昼も夜も、ネスカフェゴールドブレンドを飲んだ。
大人の気分だった。
芸術家のたまり場に自分もいるんだという
別世界が、そこにはあった。
つづきはまた書こう。