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サーカスの少年、心象風景
私にはどうしても消えない風景があって、それは8歳の頃の記憶である。
故郷の小さな町にサーカス団がやってきた。その団長の息子である少年が1ヶ月だけの転校生として私のクラスに来たのだ。
そのことは、去年、記憶と記録をテーマに長女と母と三人で出したZineに書いた。けれど、たぶん、あの個人的な心象風景を理解できる人はとても少ないのではないかな・・と感じている。
あらためて、この日記はyuigon日記、遺言である。だから、私の希望も書いておいてもよいかなと、ふと思った。
できれば、いつか、『サーカスの少年』を写真と文の本にしてみたい。
あの物語は幼き私の故郷そのものだから.....
永井玲衣さんの言葉を借りるなら、あの原風景を、「適切に保存」したい。
いつ死ぬかなんて誰も予想できない。友人の大好きなお父さんは、嬉々としてゴルフに出かけ、車を降りた途端パタンと倒れてそのまま天国にいってしまった。待ちわびた赤ちゃんがわずか数日で天国にいった友人もいた。
人生とは、儚い旅なのだ。
その本の写真は....
あの世界がわかる人でなければならない。
心象風景の深みに足を踏み入れ、そこにある光と影を感じることができる人でなければならない。
その琴線に触れた風景の具現化に、いっさい妥協ができない人でなければならない。
そういうことを思う時に、この人だ、と感じる人はいる。
写真は語る。
遠くにありて想うものである故郷の、あの寂れた町を、その人と歩いてみたい。あのサーカスのテントがはられていたかつての原っぱに行って、変わってしまった風景の中を一緒にタイムスリップしてみたい。
その人には、
きっとわかるだろう。
「わかる」には
ともに過ごした年月や、
共有する情報の量が必要なのではない。
人との邂逅とは、人生の稀有な出来事であり、それは、もしも起きるとすれば、時も、場所も、季節も、すべては自然の摂理にかなう。
人生の、数々のすれ違い、又、人との別れも、そうだ。
それは自然の摂理。
それに逆らうのは、無駄なことだ。
一人でもがき、焦り、画策するとしたら、それはとても虚しい。
人の計画は、必ず壊れる、そこに摂理がないならば…
自然の流れは、今、この瞬間にも止まってはいない。
その流れがどうなるかは誰にも分からない。
でも、どうなろうと、それはそれでいい。
もし、直感が奇跡のように現実化したら、どんなにか嬉しいだろう。
けれども、しなくても、それはそれでよい。
歳を経るのも、いいものなのかもしれない。じたばたしてもなんにもならないことを、ただ静かに、受容できるようになる。