近道よりも遠回りをするー大学院生の研究

 あえて、いつもと違う道から帰ってみることによって、知らなかったお店など意外な発見が時々起こる。これは、日々の仕事や活動においても当てはまるのではないだろうか。少しだけ大学院や研究の遠回りについて記してみたい。

 大学院や学問、研究において専門性を追求することは間違ってはいない。ある分野のみをとことん追及して、学問界に貢献することは1つの仕事といえよう。他方で、その姿勢を貫けば「~オタク」などの印象を持たれるように、その研究がマニアックなものになり得る。もちろん、オタクになることがダメだなんて言うつもりは全くない。

 ただ、それだとどうしてももったいなく感じてしまうところがある。なぜなら、その専門とする分野だけでなく、ほかの隣接・他分野にまでつながり得る余地を閉ざしてしまっているからだ。他分野にもつながりを持つということは、その他の分野の人にも面白いと思ってもらえることであり、自分の研究が持つ魅力もぐんと高まる。せっかく研究をするなら、多くの人に面白いと思ってもらえるものを作りたいと思うのは僕だけだろうか。

 そのような研究に近づけるために必要なものとして、「近道」ではなくあえて「遠回り」をすることを挙げてみたい。なお、ここでいう「近道」とは、自分の研究に没頭して、直接的に論文執筆や研究を行う上での材料を収集することを指している。「近道」を歩むことによって、成果を早く出すことにはつながるだろう。一方の「遠回り」とは、「現段階では」自分の研究と直接のつながりは見えないものの、隣接領域やあるいはまったく異な分野の本や知見に触れることを指す。「遠回り」をすることで、不思議なことに「あれ?この話は自分のテーマにもつながるな」とか、いろいろとヒントをもらえることがある。回り道しながら得た個々の要素が、不思議とつながってくるのだ。

 こんなことは、学問の歴史を考えれば至極当然のことだろう。現在のように、文学や哲学、歴史学、社会学などなど、学問が専門分化したのは近代以降であり、もともとは「~学」の区別などほとんどなかった。アリストテレスを見ればそれはよく分かる。彼は「哲学」者であるが、現代で言うところの政治学や天文学、論理学などなど様々な様相が含まれている。つまり、現代の「~学」も、もともとは一つの学問体系であったのだから、ほかの分野とつながってくるのは当然のことなのだ。ちょうど今も思想家/劇作家である福田恆存のとある本を読んでいるが、まだ3分の1を読んだだけで、幸福論や人生論にとどまらず、自由の話や近代化論、二元論を克服するトリックスターの要素や主観と客観の哲学的な要素が出てくるなど、まさにてんこ盛りだ(良い本というのは、こんな風にいろんな要素が詰まっているものを指すのだと僕は思う)。我々はそのあたりの要素から、何らかのヒントが得られることもたくさんあるのだ。

 だから、今この時点ではどうつながるのかが全く見えていなくたっていい。とにかく専門とは異なる「回り道」をしてみる。この行為がすごく大事なのだ。そうしているうちに、自ずからつながりが見えてくるのだから。僕も実際に、研究の助成金を獲るための申請書で、自分の専門だけでなく他分野と絡めて書いたら他人からのウケは良かった。

 だが、やはり僕の身の回りにおいても、「回り道」をしているとは到底思えない人たちもいる。僕は自分の大学院内で、先輩方から引き継いだ研究会(勉強会)を運営しているが、例えばある特定の分野の院生は、研究会が彼ら自身のテーマに関係しない限り来た試しはない。おそらく、自分にとっては直接的に関係しない以上、メリットがない(近道ではない)と判断して来ないのであろう(もちろん、その分野以外の院生でも来ない人は来ないが)。

 もったいないなぁとは思うが、他方でその人たちの心情も理解できるし、彼らを批判するつもりはない。彼らから話を聞く限り、その分野・業界では成果をどんどんと早く出すことが、僕の分野よりも特に強く求められているようだ。そのため、何らかの成果を出すということに限れば、自分の専門だけにどっぷりと浸かって研究した方が早いのだろう(その気持ちもよく分かってしまう。僕もすでに論文を2本ほど書いたが、1本の論文を書くのに材料を集めるなど、かなりの時間を割かなければならないのだから)。

 では一体、何が彼ら・彼女らをそうまでして成果算出に駆り立てるのだろうか。それはひとえに、就職状況が厳しいゆえである。国による院生の補助も最近は拡大したとはいえ、まだまだ十分とはいえない。将来が見通せないという不安に掻き立てられ、成果を出さなきゃ出さなきゃと焦ってしまうのである。大学院生の時代からそのような専門に走る習慣がついてしまえば、必然的に職を得た後もなかなか抜け出しがたいだろう。学問界や大学院生がおかれているこの状況を改善しなければ、学問はますます狭くなり、衰退の一途をたどることだろう。

 すこし現状批判に話がそれてしまった。繰り返すが、一つに没頭する研究が悪いなどと言うつもりは毛頭ない。一面のラベンダー畑を想像してほしい。あたり一面、眼下に広がるのは紫一色だ。それはそれで美しいのだから。一つにとことん没頭できるのであれば、それはそれで一つのスキルだし、その点から学問を発展させてあげればよい。
 
 ただ一方で、ほかの分野などとつながりをもてることで、もっとよくなるのではないかと思えてならない。任天堂の「どうぶつの森」という有名ゲームがあるが、そこで最高種の金の花を育てるためには、様々な色の花を交配して植えなければならない。そう、いろんな色(つながり)を持ち、それらを掛け合わせることによって、さらに高みへと研究は到達すると思うのだ。

 この回り道は、すぐに終わるものではない。生涯続けて行っていくものだ。それでも、その先々で生み出されるものは、きっと色鮮やかな美しいものが咲いているだろう。意外と求めているものは、「回り道」に落ちているのかもしれない。もちろん、こんなことを書いた僕だって、まだまだ「遠回り」が足りていない。ただ、この歩みは決して止めてはならないのだろう。

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