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分類好きの人間様

大学で、言語に関してのアンケートをやっていた。あなたは何ヶ国語理解できますか話せますか?という質問項目があった。

若干自分の専門分野と重なるため一言興じたいのだが、彼ら、すなわちアンケートの主催者はどのように言語を分けているのだろうか。例えば日本語と英語は誰の目から見ても違う。フランス語と中国語も。

だが、スペイン語とイタリア語はどうだろう。何かの記事で標準語と名古屋弁程度の差異しかないと読んだことがある。国が異なるから政治的理由で別言語になっているのではなかろうか。

では、東京方言と関西方言は別言語と呼べるだろうか。同じ国に存在しているかつ、それぞれの言葉で話してもコミュニケーションに支障はでないだろう。困ったものだ。明確な線を引くことすらままならないように思える。

砂山のパラドックスを聞いたことがあるだろうか。砂の山から1粒取っても砂山のままだ。同じように1粒、また1粒ととっていくといつしか砂山は最後の1粒になってしまう。一体どこまでが砂山であったのか。といった具合のものである。

これを言語に当てはめてみよう。単語が1つ違う。ただの個人差か。発音が1つ違う。これも個人差の範疇に収まるだろう。そうして少しずつ異なる点を増やしていくと、いつしか別の言語として認識されることとなるだろう。

アンケートをしているサークル(?)のみなさんには申し訳ないが、僕からしたら時間を盛大に浪費なさっているように見える。少し申し訳ないが。

しかし、分類が無意味だとも思えない節がある。ジェンダー、信仰する宗教、仕事内容。適当に例示したが、分け方には際限がない。「分類」を辞書で引くと、事物を共通な性質に基づいて種類に分けること、と記載されている。

つまるところ、属性が同じもの同士でくくることを目標としている。これはまさしく人間にとって必要なことであろう。分類しない世の中など考えたくもないが、例えばアリから見た人間など個体差があるようには思えない。みな等しく巨人の姿をした、アリならざるものである。

ところで、1番伝えたいことは分類の重要性などではない。むしろ、分類は呼吸と同じように無意識下で常日頃行われている自然現象の一部である。本能である。不可避なのである。脳科学に触ったことは無いのでよく分からないが、神様はどうやら分類せざるを得ない生物を作ってしまったらしい。話を拡張すると、生物は大方分類をベースとして生きていると言えるかもしれない。具体例の想像は皆様にお任せするが。

そんな分類をこよなく愛する人間様へのメッセージを書き留めて締めの言葉としたい。

分類は敵では無い。他人の分類方法は自分とは当たり前のように異なる。価値観は分類から派生した概念の一種なのかもしれない。分類の違いを気にするんじゃない。分類に付加価値をつけるのは自分である。

そんなことを考えていたら生きるのが楽になった。

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