私は性表現を理解するにあたっては進化論的解釈を前提にすることが多いです。詳細に言えば、人がある性表現に興奮する/興奮してしまう時、その興奮は人が子孫を残す行為にポジティブな影響をもたらしている/もたらしていた、ということを私は前提にしています。 そうした前提でロリを性表現として捉える際に、どうにもうまく嚙み合わない。性的に未成熟なメスへ興奮することが子孫を残すことにポジティブな影響をもたらす/もたらしていたとは思えません。子を残す機能が十分に備わっていない対象に興奮する
哺乳類のオスは交接可能な新しいメスに相対すると性欲が回復する。これをクーリッジ効果と呼ぶそうです。 このことを性表現の観点から考えた場合、クーリッジ効果を意識した演出をすることで性的興奮作用をより高めることができそうですね。単純に捉えれば、女性を一人登場させるよりも複数人登場させることが好ましい。 ハーレムや乱交と称されるジャンルが性表現としてより魅力的ということです。このことは変に理屈をつけなくとも納得できます。少ない量より多い量の方がお得なのはたいていの物事にお
女性に精子を掛ける行為全般は総称として「ぶっかけ」と呼ばれます。 見る限りぶっかけには動物におけるマーキングと類似性があり、そこから女性への支配欲なり所有欲なりを満たす意図で行われるとされています。 私はこの説明にピンときません。「この女性には私の精子がついている。だからこの女性は私のものだ」という文脈がまるで分からない。マーキングであるなら別に精子でなく糞尿でもいいわけですし、もっと言えば支配を象徴的に表す物品、例えば指輪なり首輪でも良いわけです。精子である必要性
以前『所詮オッパイなどお尻のまがいものに過ぎないのか(2)』にて胸フェチ・尻フェチは本質的に同じ嗜好である可能性を指摘しました。何故なら女性的な胸と尻はガイノイド脂肪によって形成されているからです。 ガイノイド脂肪はエストロゲン、俗に言われるところの女性ホルモンにより蓄積される脂肪のことを指します。この脂肪は妊娠や授乳におけるエネルギーとなるためこれを蓄えている女性は子を残す能力に長ける。男性はそのことを無意識に察しており、それが胸フェチや尻フェチへと結実している。
前回、胸フェチ派は人類の本能を失念している、という意味合いのことを述べました。しかしながらちょっと視点を変えてみまして、どうして尻の代替部位として胸がありえたのかということを考えてみたいと思います。 というのも四足歩行においては尻が目の前にくる。ここは頷ける。しかしそこから二足歩行においては胸が目の前にくると述べることには論理といいますか、視点の飛躍があるように思えるんですね。 四足歩行時に尻を眺めるという状況で想定されている視点はメスを背中側から眺める視点です。その
胸フェチか尻フェチか。そんな議論をしばしば耳にします。少し古いですが2016年のある調査によれば胸フェチが全体の74.1%を占めるそうです。 言われてみれば男性向けアニメやライトノベルにおいて女性の魅力の具体例として焦点があたるのは胸であり、尻にフォーカスすることは物珍しいように思います。こうしたことを踏まえると、多数派ということをもって世間から一定の理解を得ているのは胸フェチというのは納得できます。 となると尻フェチは当然少数派となるわけですが、しかしながら尻フェ