未来モデル小説「ブンシニズム・ドット・ネット」
表紙絵(Our Children)の説明 ...
2007年、ピースボートという平和を運ぶ船に乗船させていただく機会を得て、地球を一周してきました。
行く先々の港から、講師として様々な国の方が乗船してこられ、航海中の船の中では、毎日、朝から晩まで、(広い意味での)平和をテーマにした講演が開かれました。そのほとんどに参加させていただきました。
僕は、若いころからどうしたら世界が平和になるのかを考え続けて、46歳の時に「分身主義(bunshinism)」というものに辿り着きました。
船で出会う各方面の方々の平和に対する見解や取り組みを拝聴させていただいて、この分身主義を超越するものがあるのかどうかを確かめてくることがこの旅の一つ目の目的でした。
しかし残念ながら、と言うか予想していた通り、世界を平和にするという観点から見た場合、僕を納得させてくれるものには一つとして出会えませんでした。
二つ目の目的は、地球を一周する中で様々な国の方々と交流してくるというものでした。
一般家庭にお邪魔して郷土料理などをご馳走になったり、その国の風習や遊びを教えてもらってそれに参加したり、一緒にスポーツやダンスをしたり、日本の遊びを教えてあげたり、互いの国の音楽を披露したり‥‥。
そんな中で人間は本来融和的であることを強く感じました。
みんなで楽しく何かをすることで共感し合いたいという気持ちが本能的に備わっているようで、その気持ちに素直になれば、「宗教」や「思想」や「歴史」や「国」などの違いは、障害になんかにはなり得ません。
むしろ互いの差異が敬意に近いものに変わると感じました。
分身主義の見つめている未来に希望が持てるような気がしました。
これが地球一周の旅で確かめたかった二つ目の目的でした。
残念だったことは、人懐っこい笑顔で話しかけて来てこちらが喜んでそれに応じていると、実は物を売りつけようとしていた人だったと気づいた時でした。
彼らは、断ると露骨に不機嫌そうな顔になり喧嘩腰になります。僕たちの間にお金が介在していては、心から仲良くなれないのです。
そんな時、がっかりしてズシーンと落ち込み、周囲の誰もが敵に見えてきて、睨みつけるような目で歩いてしまっていました。そんな僕の心を救ってくれたもの、それは、いつも子どもたちの笑顔でした。
地球一周の旅の目的の三つ目は、子どもたちの写真を撮ってくるというものでした。
カメラを向けると、始めは警戒心を持って見つめ返す子どもも、撮った写真を後ろの液晶モニターで見せると、みんな満面の笑顔になり、僕のデジカメを取り上げて友達を写してくれます。
だから僕のカメラはどの国へ行ってもすぐに子どもたちの笑顔で一杯になりました。
それらの写真をコラージュしてできた作品がこの小説の表紙絵です。
僕たち人類は「言葉」を持ったことにより、錯覚の自我を持つに至りました。
科学的な意味で言えば、僕たちの現実とは錯覚の自我に縛られた脳が見ている幻想のことです。
「現実とは、脳が過去の記憶に基づいて見ている幻覚のことである」とは、インドの脳科学者ラマチャンドラン博士の言葉です。
彼は、「人間は皆、いつも幻覚を見ている。その中で一番現実に合ったものを選んでいるに過ぎない」とも言っています。
人類は、錯覚の自我に縛られた脳が見る現実という夢の中で、その妄想の砂上 に様々な建物を建立してきました。
文化や文明、それに学問などもそうです。
船で出会った講師の方たちは、真剣に自国の平和や自分たちの自由を勝ち取るために並々ならぬ努力をされている方々でしたが、誰もが、妄想の砂の上に建てた建物の増築、あるいは改築をしようとしているだけだとわかりました。
自分たちの権利や自由を獲得するために抗議をしたり、悪政を改革しようと奔走したりすることは必要なことかもしれませんが、たとえそれが叶ったところで、権力などの力関係の上下左右が入れ替わるだけで、世界中の人々の心の中から永遠に不公平感や不満がなくなることはありません。
したがって世界の平和は叶うべくもありません。
錯覚の自我は人間を個人主義的にします。
個人主義的な人間が集まれば、この僕たちが生きている環境全部を個人主義的な色に染め上げます。
この個人主義的な環境の中に置かれた今の僕たちの脳は、「自分」の価値や存在を認められることに快感や優越感を感じ、自分の側に属するものに強い愛着を感じます。
だから「自分の子ども」はことさら可愛く、他人の子どもには負けたくありません。
でも将来、分身主義的な環境にこの脳が置かれることになった場合、世界中の子どもが自分の側であり、「私たちの子どもたち」あるいは「私たちの体の一部」というような感覚で、世界中のみんなで子どもたちを育てることになります。
そんな日が早く来ることを『Our Children』というタイトルの表紙絵に託しました。
この絵の中の奇妙な形の木は、分身主義が生まれるきっかけになった最初の作品、『人類の育てた果実』をイメージしています。
宮沢賢治の言葉
第一部
1.幅10センチほどの細長いプラスチック製の柵で‥‥
幅10センチほどの細長いプラスチック製の柵で、部屋いっぱいに迷路が作られている。
五日前、小学校の入学祝をしてもらった時に、家族からプレゼントされた「Who is moving Ratty?(ラッティーを動かすのは誰?)」という学習用キットを、二日がかりでヨマーノフが一人で作り上げたものだ。
彼がリモコンを操作するたびに、カサッ、コソッと何かが柵の中を動き回る音が聞こえる。
「だめっ、ラッティー。これができなきゃ、食事 はいつまでだっておあずけなんだよ!」
そうつぶやくと急に空腹を覚えた。時刻はもう午後の5時近くになるが、分け合ったおやつのバウムクーヘンに自分も手をつけていない。
昨日も頑張ったのになあ、と彼は思う。
その時、学校から帰ってきた兄のハウマーが部屋のドアを開けた。「どうだい、ラッティーは?」
「だめ、だめ。まだ右とか左とかにまがるのがうまくできないよ。食べものの方にちかみちしようとしちゃうみたい」
「気長にやることだよ、アイ。古いことわざでヘイスト・イズ・ウェイスト(短気は損気)って言葉があるんだよ」
「アイ」というのはヨマーノフの愛称ではない。
現代は世界中の人々の公用語が英語なので、彼らも当然英語で会話をしているが、その英語で自分のことを指す一人称単数のIのことである。しかし特に若者は、他人のこともIと呼ぶ。まるで誰もが自分自身に話しかけているかのように話すのだ。
現代のことを理解してもらうためには、少々、奇異な言葉遣いを我慢してもらわなければならない。
弟のヨマーノフが聞いた。「ねえ、だれがラッティーを動かしてるの? ちっとも僕 のいうことを聞かないんだ」
兄のハウマーは答えた。「当たり前だなそれは。ラッティーを動かしているのはビッグバンの風なんだもの。君 を動かしているのだってビッグバンの風だよ。君の手足には目に見えない細い糸がつながれていて、それを使ってビッグバンの風が君を動かしているんだよ」
それを聞くと、ヨマーノフは自分の全身をキョロキョロ見回した。
「ハ ハ ハ、目に見えない糸って言っただろう。ラッティーが 君の指示通り動くようになるには、ビッグバンの風とラッティーの間に新たに割り込んでしまった、君とのいい関係が成立しなければならない。
幸い今のビッグバンの風は、君 とラッティーの間にいい関係が生まれるように吹き始めている。
君の中にミラード・ウィル(意志) が生まれているだろう。それを大事にするんだね」
ハウマーは一気にしゃべると、笑いながら部屋を出て行った。
ヨマーノフはまだ6歳なのでそんなこと理解できるはずもない。
今から20年前の2043年にこの北アメリカにやっと住み家を構えた旅好きの一組の夫婦の元に、彼が授けられてきたのは6年前ということだ。
生まれはロシアのアルザマスという町。
彼を産んだ両親は、もちろんTB分身登録局の台帳には記載されているが、TB法上、両親にも本人にも一切伝えてはいけないことになっている。
しかし、そのような法律がなかったとしても、誰も自分の産みの親や産んだ子どもを探そうなどとは思いもしないだろう。あまり必要もないことだからだ。
TBとは the True Body の略で、宇宙の平和を唯一の目標に掲げて、常に全世界に思いやりの目を配っている世界最高機関である。
補足すると、現代の人々にとっては《自分》と《宇宙》はほとんど同じ概念であり、true body(自分の本体)とは宇宙を意味している言葉でもあるのだ。
ちなみに現代では、先ほど用いた「宇宙の平和」という言葉よりも、「自分の本体の平和」という言葉の方がよく使われる。
TBは本拠をアメリカに置くが、かつてあった世界中の行政機関や裁判所などはそれまでの業務を撤廃し、現在ではその運営に協力しているので、TBの趣旨は世界の隅々にまで行き渡っている。
‥‥と言うより、TBとは、それまで分断されがちだった末端の神経たちが緊密につながり始めたことで、必要に迫られて生まれた脳のようなものである、と言った方が適切かもしれない。
その前身は the Jigsaw of Myself(自分自身のジグソー)と名づけられていたもので、2012年、アメリカのパーティクル・Mという宇宙物理学者の呼びかけによって生まれた、言わば世界中の科学者たちを集めた勉強会である。
その趣旨は《自分の、本物の姿をしたジグソーパズルを完成させよう》といったところだ。
現代では、どこで生まれた子どももTBによって振り分けられることになっている。
TBの理念の一つに、宇宙万物は世界中のみんなの大切な分身であるというものがある。だから、もちろん子どもたちも世界中のみんなの大切な分身だ。
自分たち夫婦の元に生まれた子どもが世界のどこかですくすくと育てられ、そしてどこかの国で生まれた子どもが自分たちの家族として育つ。その子どもたちがやがて大きくなり、どこかの国で自分の本体の平和のために貢献する。
子どもを世界中のみんなで育てている感覚。
あたかも自分の体内で自分の分身が育っていく感覚。誰もが、こんなに素晴らしいことはないと感じているのだ。
現代では、この「フォア・ザ・ピース・オブ・ザ・ティービー(自分の本体の平和のため )」という言葉は日常の挨拶にも使われるくらいなのだが、過去の人々に感覚的に理解してもらうのは難しいかもしれない。なるべく近い言葉に置き換えるとしたら、「自分の体の健康に気を配ろう」とでも言ったらいいのだろうか。
そもそも、平和や自分、そして健康に対する観念が現代と昔とは大きく違うので、何とも翻訳しにくい言葉だ。
昔は、地球の環境問題などに対しても自国の利害などを持ち出していつまでも決着が付かない幼稚な時代があった。
しかし、誰もが《自分の本体の平和》だけを大切にする気持ちさえ持てば、地球の環境問題などはすぐに結論が出ることだったのだ。
地球もまた、科学的な意味において、まさに自分たちの大切な「本体」の一部なのだから。
ハウマーはモンゴルから17年前にこの家に授けられてきた。その2年前にはもうマリがいたので、ハウマーとヨマーノフには19歳のお姉さんがいることになる。
旅好きの一組の夫婦が、やっとこの北アメリカに居を構える気になった理由は、その頃、マリを身ごもったからである。
マリは、産んでくれたその両親の元で育てられているわけだが、そのようなことはとても異例なことだ。それには特別な理由があった。
普通の人間が太陽の紫外線を100吸収するとしたら、彼女の体は、30くらいしか吸収しないという珍しい体質があった。
TBの所轄機関であるEPA(the Environmental Protection Agency)が環境保全に力を入れているので、その割合は遅くなってきているとはいえ、年々オゾンホールが大きくなっていく中、紫外線が生物や生態系に及ぼす様々な影響を研究することに関心が高まってきたため、彼女のような体質の人は注目されるのだ。
遺伝子などを調べるにはその両親も必要なので、彼女は例外的に自分を産んだ両親と一緒に住み、そして学者たちの研究活動に貢献させられている。
それは彼女が10歳になった時からずっとこの10年近く休むことなく続けられていた。10歳になるまで保留された理由は、ある程度の実験に耐えうる体ができるまで待つということだった。
今では、世界中から様々な分野の学者がマリのもとを訪れる。
紫外線を大量に浴びると、人体では皮膚癌や白内障やしわやシミなどの適応症状が現れたり、その逆に紫外線を浴びないでいると、骨軟化症などの適応症状が現れたりすることなどはよく知られている。
ちなみに現代では、病気という言葉は一切使われない。それを何と呼ぶかというと、今言ったように《適応症状》である。
科学的に言えば、この宇宙の中で適応していないふるまいをするものなど一つもないわけだ。どんなふるまいもそれが環境に適応している状態である。
例えばマンモスは環境に適応できなかったから絶滅したという言い方は間違いである。彼らが絶滅したのも環境に適応した結果である。
繁栄を可とし、絶滅を否とするのは人間中心の評価に過ぎない。
擬態なども、動・植物たちが身を守るために行っているなどと、昔は擬人的に説明されていたが、とんでもない。
自然界という無限の可能性の荒波の中で、たまたまそれらの形態や反応を獲得したものが捕食や天災などを免れて、そのDNAを引き継ぐものが現在の環境で繁栄しているというだけの話である。
科学を扱う場面で、人間の感情をまじえた評価をしていると自然界の本質は見えてこない。
過去、大いに使われていた《病気》という誰からも忌まわしがられ疎まれる言葉も科学的な言葉ではなく、人間中心の評価が多分に入り込んでしまった言葉だ。
医療という科学を扱う現場で《病気》などという非科学的な言葉が用いられるのは、本当の科学を行っているとは言えないし、それでは生命の本質も一向に見えてこないのだ。
昔の免疫学者などは、「免疫系は、自己と非自己を区別して《わたし》の体を、危険な外界の攻撃から守るために存在している」などということを平気で言っていたものだ。
それがいかに非科学的な、つまり人間中心的な評価、いわゆる物語に過ぎないかということに気づいている科学者もまだいなかった。
だからそのような科学者たちが一般向けに書いた本などを読むと、まるで戦争でもしているかのような表現がたくさん飛び出してきた。
例えば‥‥、
などだ。
もっと過激になると、
まったく、ここまで行くと悪ノリにも程があると言いたくなる。
科学的な意味では、この宇宙の中に敵などどこにも存在しない。
まして自己と非自己を区別しているのは免疫系ではなく人間の感情である。
生物が自然界で適応していく過程で生まれる単なる生化学反応に対して、人間が感情移入してしまい、そのような物語を作ってしまっているに過ぎない。
病気などという忌避すべきイメージを持つ非科学的な言葉が排除され、それが《適応症状》と名前を変えたことによって、クリヤーに見えてきたものがたくさんある。
それは言葉の言い回しを変えただけではない。言葉が変わるということは、人間の脳に作用するものが変わるということだ。
つまり病気は事実上この世から消滅したのだ。
ハウマーもヨマーノフもあまりマリの顔を見ることはない。と言うのも、彼女は自分がラボ・ディケイダント(=研究対象者)に選出されていたことを、母親から告げられた10歳の日から、もう自分の部屋からあまり出なくなってしまったのだ。
だから、食事の時にたまたま同じ時間になった時だけ顔を合わせるくらいでしかない。
ハウマーは、10年前のその日のことを克明に覚えている。
しっかり者だったマリは母のようにハウマーの面倒をよく見てくれ、学校にも手をつないで一緒に行ってくれたし、学校では活発で明るい子だったが、その日を境に部屋に閉じこもってしまったのだ。
心配して学校の友だち(現代では互いに分身と呼び合っているのだが)が来てくれても、部屋から出てこなくなってしまった。
外出してはいけないわけではない。
ただ、紫外線照射の時間を正確に記録する必要があるために、家の外に出る時には、紫外線を浴びないようにサングラスをかけ、マスクをし、手袋をはめ、長袖に長ズボンを着用して、厳重な装備で出るように要求されているだけのことである。
しかし、マリはそれらを着用することを一切拒否して、外出はしなくなってしまったのだ。
ハウマーはマリの部屋をノックした。中から、ぼんやりとした返事が聞こえた。
ドアを開けると、ソファーに座って何かの雑誌を見ていたマリが、垂れ下がっていた髪を左手で掻き上げながら、ドアの方を見上げた。まだ夢の中にいるかのような放心した表情である。
実験でかなりの量の紫外線を浴びるので顔は真黒に日焼けしている。まさに、日焼けサロンを住み家にしているようなものなのだ。
部屋はハウマーやヨマーノフの部屋の4倍ほどあり、右側の壁には、世界中の学者が持ち込んだ計測機器や紫外線照射器などの実験器具類がぎっしりと並んでいて、その反対側にはトレーニングマシーンなどが置かれている。
風呂もトイレも寝室も完備されている。それこそ一日部屋から出なくても暮らせるようにはなっているのだ。
「明日は僕 のクラスの分身さんたちを連れてこようと思うんだけど、どうかな?」
「それでもいいわよ」
「2063年4月21日。明日で君もついに二十歳。やっとこのたくさんの機械たちから解放されるんだね」
ハウマーは、マリの部屋を見回しながらため息まじりに言った。
彼の用いた初めの《アイ》は自分のことで、次の《アイ》はマリのことだ。
どちらも一人称単数のIだから不便のようだが、現代の若者たちの間では慣れてしまっているのでニュアンスで何となくわかるのだ。
紛らわしいから個人名を呼び合おうと主張する大人たちもいるにはいるが、その言葉にあまり説得力はない。
個人名を呼ばなければどうしても困るといった場合以外、若い人たちは互いを《アイ》と呼び合っていて、別に問題もないようだし、むしろその言葉を発した時の境界のあいまいさや一体感のようなものを楽しんでいる。
彼女の研究・実験期間は20歳までである。
ラボ・ディケイダントという人たちは現代では世界に数万人いて、それぞれ長くても10年までとTB法で決められている。
20歳からラボ・ディケイダントに選ばれる人もいれば、50歳になって突然選ばれる人もいる。
選ばれたらよほどの理由がない限り断る人はいない。
彼らは、他の分身たちの代わりに誰にもできないことをやってあげている分身であるから、そのことに誇りを感じている。
誰かの犠牲なのではなく、自分の本体のために貢献しているという喜びの気持ちが強い。
「今でもよく覚えてるよ。あの10年前のこと。あの日以来、君は怒って自分の部屋から出てこなくなっちゃったし、クラスの分身さんたちが来ても会わなくなっちゃったんだよね」
「怒ったんじゃないわ! 私 は自分を変えなくちゃって思っただけよ。選ばれてしまった以上、今までの私を捨てなくちゃダメだって。学校も好きだったよ。すごく楽しかったし。
分身さんたちもみんなみんな好きだったよ。でも、それまでの生活を捨てなくちゃいけないって決心したの。中途半端な気持ちでこんな重大な貢献を汚したくなかったの‥‥」
マリが10歳になった時、学会の研究機関からの要請で、彼女の一家はそれまで住んでいた集合住宅から一軒家に移り住まなければならなくなった。
現在、一軒家はどんどん大きな集合住宅に建て替えられているというのが世界の実情だが、たまたま近くに一軒家があり、そこに住んでいた人がマリたちの事情を知って、住まいを代わってくれたのである。
現代では、誰一人として住んでいる家にお金を出しているわけではないので、《自分の家》などという感覚はない。だから、実験や研究のためと言えば、喜んで代わってくれるのである。その一軒家を実験室と住まいを兼ねるために内装を作り替えたのだ。
住まいや交通機関は無料で、空いてさえいれば誰でも自由に利用できる。
住居というものは世界のみんなのものだという感覚があるので、どこの国の人が住んでもいいものだし、建てる時もみんなで自分たちの家を建てるという感覚があり、マリの家の内装を作り替える時も、学会の研究機関が一般に募集をかけたところ、すぐにいろいろな所から人が集まってくれた。
ちなみに、労働や仕事という言葉も現代では使われなくて、《セルフ・アシスト》と呼び慣らわしている。
彼らにとってのセルフとは、境界線を持った体の内側だけでなく、その外側も全部意味していることは言うまでもない。
先ほど、住まいや交通機関は無料と言ったが、医療や教育などにもお金はかからない。
そもそも世界中にお金というものが存在しないのだ。
ただし、家具、電化製品、洋服などの生活用品や食べ物などをそろえる時には、《セルフ・アシスト・カード》というものが必要になってくる。
略してSAカードと呼ばれている。
高校に入学か、もしくはそれと同等の年齢になった時にTBから交付されるもので、セルフ・アシスト活動をした時間に合わせてポイントが加算され、生活用品や食べ物などを手に入れる時にマイナスされる。
世界共通なのでこのカードさえ持って家を出れば、離陸直前の飛行機に飛び乗ってどこかの国に行き、エキゾチックな洋服を手に入れて帰ってくることもできる。もちろんパスポートもビザもいらない。
「もしかしたら、私はこのままずっとラボ・ディケイダントでいようと思うんだ」マリが言った。
「どうしてさ。二十歳にもなって本物の自分を全然見ないなんてかわいそうな気がするけどな。君が見たこともないような楽しいこともいっぱいあるんだよ」
「楽しいことなら知ってるもん」マリは含み笑いをしながら言った。「それに、私は今のままで不満はないし‥‥」
ハウマーはため息をついた。
「わからないなあ、その気持ち。だけど法律では10年間と決められているし、それにいろいろな世界を見た方がいいよ。それは自分自身の本物の体の中を見ることなんだから。僕 は今年卒業だから地球一周研修があるけど、君はまだどこの世界も見てないじゃない」
地球一周研修というのは、高校を卒業する時に履修しなければならない単位の一つで、これもTB法で決められているものの一つである。
それによって世界中に散らばっている自分の分身と出会い、本物の自分をより身近に感じてくることが勉強の目的だが、それと同時に、今後、自分が進学する大学を探してきたり、あるいは、セルフ・アシストをする場所を見つけてきたりするという目的もある。
ほとんどの若者が、自分が育った国の大学に行ったりしないし、違う国でセルフ・アシストをしたがる。
TBでは、世界の公用語を英語にしようと決めたので、どこへ行ってもコミュニケーションで不自由することは全くないから、若者たちはどんどん世界に出て行ってしまうのだ。
そのせいで国ごとの個性のようなものは薄まりつつある。
このまま行けば、やがて国名も母国語もなくなり、あるのは共通語を話す地球という国だけになってしまうだろう。
そのことに憂慮する人々は、「古い文化を保存しよう」と呼びかけている。文化とは、人類の微笑ましき時代の思い出であり、それを大切にする気持ちだけは失ってはならない。どんなに社会が変化しても、人類がある限り、その思いまではなくさないでほしいものだ。
「世界ならここにたくさんあるよ」マリは今読んでいた雑誌を掲げた。
女の子向けの情報雑誌か何かのようである。「本の中にはぎっしりと世界がつまっているのよ」
そして次にパソコンを指さした。「それにこの中ではリアルタイムでコミュニケーションも取れる現実の世界が。互いに分身の体に触れ合うことはできないけど、こう見えても私はたくさんの分身さんと知り合いなのよ‥‥。
この前、モウリ博士分身さんに聞いてみたけど、私がラボ・ディケイダントでいたいと望むなら、おそらく法律では許されるだろうって。何しろ法律っていうのは、本体の平和だけを掲げているから、私の行為が本体の平和に貢献すると認められれば、それを何より優先してくれるだろう、というのが彼の見解なの」
「本体の平和のための犠牲‥‥か」
ハウマーはポツリとつぶやいた。犠牲という言葉を使うことが若者たちの間で流行っていた。
それはある意味、若者特有の軽口であり、かつて使われていた犠牲の意味はない。
もっとも、犠牲にするための自分という感覚が昔とはかけ離れている。だから、この言葉の裏には、その場の決まり悪さを取り繕ったり、人類讃美の入り混じった複雑な感情が隠れていたりもする。
「でも、私だけじゃなくて、誰もが自分という分身の人生を自分で選んで生きているわけじゃないのよ」
「ビッグバンの風、のことを言ってるんだね」
「そう。‥‥でも、それだけじゃないよ。いつのころからか、私は、他の分身さんみんながそうであるように、他の分身さんができない人生をその人たちに代わって生きてあげてる分身なんだって思ったら、なんだか今の生き方が好きになったの。
だって一人の分身に一つの人生しかないし、それは他の分身さんには絶対にできない人生だし‥‥」マリは、自分が言いたいことがうまく言えずに口ごもった。
しばらくはもどかしそうにハウマーを見上げていたが、やがて顔を赤くして、手にしていた本に視線を落とした。
彼女はそれ以上何も話し出しそうもなかった。
ハウマーは、「とにかく、明日は楽しくやろうよ」と言い残して、マリの部屋を出た。
「ハウマー、見てよー!」遠くからヨマーノフの声がした。「ねえ、ハウマー。早くきてー。ラッティーができるようになったよ」
ハウマーが、声のする方に行ってみると、ヨマーノフが作り上げた迷路の中で、ネズミは鼻先だけを神経質に動かしてじっと縮こまっていた。
「いい? ラッティーが僕のめいれいどおり動くようになったんだ」
ヨマーノフは右手でネズミをつまみあげると迷路の入口に置いた。「よしラッティー前だ!」彼はリモコンのスイッチの《フォワード(前進)》を押した。
ネズミの脳には電極が埋め込まれているので、その電極に無線で指令が送りこまれる。
ネズミはすごい勢いで走り始めた。
命令に従った場合は、すかさず《リワード(報酬)》のボタンを押す。リモコンに赤いランプがついて、快楽中枢を刺激する信号が送られたことがわかる。
そのようにして訓練していくと、右へ曲がったり左へ曲がったりを指示通り行うようになる。
迷路の真ん中あたりには30センチほどの高さのタワーが設置されているが、高い所を嫌うという習性をもつネズミも、訓練によっては嫌がらずに登れるようになる。
ネズミはヨマーノフの操作に合わせて右へ左へと進路を変えて、あっという間に迷路の出口に設けてある餌場 に到達してしまった。
「あしたはもっとむずかしいめいろにするんだ。タワーにもちょうせんするよ」
元々はアメリカが軍事目的で研究・開発してきた技術だ。
神経細胞というのは、外部からの刺激を受けた時、細胞膜の内側と外側をナトリウムイオンやカリウムイオンが瞬時に行き来する。その時、電気が発生する仕組みになっていることがわかった。
その電気が筋肉にまで伝わり体は動いていたのだ。つまり動物とは、外部からの刺激が作り出す電気で動かされているロボットのようなものだったのだ。
科学が導いたこの結論が間違っていなかったことは、生身のネズミでもロボットのように操れることで証明された。
この仕組みを利用して指示通りに動くネズミを作れば、ネズミの体に小型カメラを取り付けて敵の偵察に使ったり、あるいは小型爆弾を体に取り付けて、人の入っていけないような隙間から侵入させて敵を殺傷させることができる。
しかし、もはや武器が不要の時代になり、この研究も立ち消えるかのように思われたが、依然として我々の脳の研究に必要だと考える学者たちに引き継がれ、やがて子どもの学習用おもちゃメーカーに引き継がれていた。
「Who is moving Ratty?」という商標名のねらいは、リモコンで動かされているラッティーを見て、同じように外部からの力に動かされている自分を感じてほしいというものである。
6歳という年齢の子どもにとって、その外部の力であるビッグバンの風を理解させることは難しいが、その風を感じさせることは柔らかい脳を持った子どもには受け入れやすい感覚である。その感覚は自分の本体を平和にするために必要な感覚でもある。
ビッグバンという言葉は、この宇宙が超高温高密度の小さな玉から生まれたというのがまだ仮説であった1949年ごろに、それを支持していたジョージ・ガモフらに対立する側の学者が、一種の揶揄で付けた名前である。
しかしその後、このビッグバンを証明する観測結果が次々に報告され、今ではこの説を疑う学者はほとんどいない。
科学の最大の功績は、《全ての現象には原因がある》ということを教えてくれたことだ。
ある現象が起こるには、それ以前に必ずその原因となる現象がある。そしてその現象にはその原因となる現象がある。
そしてその現象にも‥‥と、どこまでもどこまでもたどっていくと、少なくとも約140億年前の小さな「宇宙の種」に行き着くことまで科学は解明している、ということだ。
そのようにして全ての現象の原因がビッグバンに行き着くということは、逆に言えば、ビッグバンが全ての現象を引き起こしていると言えるわけである。
我々に様々な現象、つまり言動という現象を取らせているものの原因は、我々を取り巻く環境であるが、それはビッグバンの瞬間に生まれたある方向性を持った力を引き継いでいるもののことである。
だから、我々を取り巻き我々にいろいろな言動を取らせている力を、現代では「ビッグバンの風」と形容するのである。
三人の子どもの両親、ミチカ(愛称ミミ)とヒデル(愛称ヒデ)についても書いておこう。
彼らは二人とも日本で生まれ、生まれるとすぐにミチカはドイツ、ヒデルは韓国の家族に授けられた。
大きくなってからそれぞれが日本を旅している時に偶然知り合って結婚し、それから二人で世界中を旅しながら生活をしていたが、アメリカとメキシコの国境辺りを旅している時に、ちょうどマリが生まれ、そのままその地に定住することにしたのだ。
現代は、住居、交通機関、医療など、あらゆるものにお金などかからないので、SAカードのポイントを稼ぐために多くの時間を割かれることはない。その分、自由な時間がたっぷりあるので世界を旅している人の数は結構多い。
旅をしていろいろな分身たちと交流をすることは、ある意味、自分の本体の平和に貢献していることなのである。
また、遠い所から自分たちの分身が会いに来てくれたということで、旅行者はどこへ行っても歓迎される。
彼らにはマリが生まれた2年後、一人の男の子が生まれたが、その子はすぐに取り上げられ、その子と入れ替えにモンゴルから可愛い赤ん坊がやってきた。そしてまた12年後に男の子が生まれたが、その子と入れ替えに丸々と太った青い目の赤ん坊がやってきたのだ。
ハウマーとヨマーノフという名前は、赤ん坊を見た瞬間にミチカの脳に浮かんだ名前である。
彼らは、世界中を旅していた頃、毎朝更新されるインターネットの募集で探してセルフ・アシスト活動をしていた。
インターネットで地区や内容を検索すれば無数に見つかる。
駅前のごみ拾いとか、街路樹の水洗い、ビルの清掃など、町を美しくするセルフ・アシストは人気のある種目だ。
お店(と言っても、現代では品物を売買するわけではないので単なる配布所に過ぎないが)の店員(=配布員)や、工場などの作業員、農家や牧場や水産関係の緊急な手伝いなど、彼らは何でも経験した。
いろいろ選べるので楽しい。
ヒデルは車の免許もあるのでタクシーの運転手も何度もやった。ナビを見ながら初めての町をうろつくのも楽しい。
どんな種目も面接などはなく、早い者順である。
そのアシストに適した能力かどうかはあまり問題視されない。たとえ身体的に何らかの障害を持っていようと、周りの人間で補い合えばいい。
タイム・イズ・マネーなどと言ってせかせかと生きる必要などないから、作業の遅れがそれほど問われることはない。
セルフ・アシストとは、その場の時間と空間を共有した者が、交流を楽しむために行うものだとでも彼らは考えているようだ。そこにはもてなす側も客もない。
実際、共に楽しむ時間を犠牲にしてまでもやらなければならないことなんて、この人間社会には、あるはずもなかったのだ。
定住した今では、ミチカは、いろいろなカルチャーセンターに参加している。主催する側だけでなく、参加する側もSAカードのポイントは加算される。学ぶことは世界(=自分の本体)に何らかの役に立つことだからである。
ヒデルは、今は役所のプロジェクト・セクション(計画事業課) にいる。
それは、セルフ・アシスト活動を計画し実行してくれる人を応援するような係りだ。
先日は、家の近くの川を綺麗にしたいという人が綿密な5年計画書を手にして現れたので、早速、ヒデルは人材を募集した。向こう5年間、大勢で楽しめる環境を確保できたわけだ。
昔の職種の中で、現代はセルフ・アシスト種目からなくなってしまったものはたくさんある。
例えば、銀行やサラ金や保険業界、証券業界、それに財務省の仕事や経済学者の仕事など、お金があるために必要とされた業種である。
お金がなくなると同時に犯罪や戦争もなくなり、それによって警官や刑事や職業軍人なども消えた。
警官や刑事は犯罪をなくすために働いていたわけなのに、いざ犯罪がなくなった社会になって一番困ったのは当の警官や刑事だった、という皮肉めいた笑い話が流行った時期があったが、実は彼らも大して困ったわけではなかった。
その理由は、今まで説明してきたことで大体わかっていただけるだろうと思う。
現代では、昔のように朝から晩まで躍起になって働く必要もなく、一日、3時間くらいポイントが付くセルフ・アシスト活動をすれば生活する上では十分なので、彼らの割り当てはいくらでも回ってくる。
それに、新たに拡大されたセルフ・アシスト種目もたくさんあるし、募集する側も賃金を払う必要もないので、少しくらい応募者がオーバーしてもまったく問題はない。
新たに拡大された種目は、農業、牧畜業、水産業などや、製造業、建設業など生産的なものが多いが、人手が増えたので、元々の農家なども昔のように長時間拘束されることはなくなった。
資格が必要な弁護士とか、医師とか、教師とか、交通機関の運転手とか、長年の訓練や勘を必要とする職人的なものとかは引き継がれているが、弁護士にしても、昔のように忙しくはない。
その理由は、お金が介在しなくなったからという以前に、責任を追及したり損害賠償を請求したりするための他人や、権利を主張するための自分というものの認識が変化したからだ。
自然界には目的や理由など存在しない、とするのが科学の立場である。
それなのに、かつての科学者は科学の立場を忘れて、自然界の物事におびただしい数の《目的》や《理由》を張り付けた。
動物の行動にしても本来は目的や理由などあるわけではない。目的や理由というのは、それを必要とする人間の脳だけが、後から考えて相応しいと思える言葉を当てはめることなのだ。
同じように、自分の行動にもきちんとした目的や理由を当てはめなければ居心地が悪くなる。しかしそれらはみな、後づけなのだ。「人は主義・主張で動くのではなく、自分の行動を正当化するために主義・主張を必要とする偽善的動物である」とうまいことを言った人がいる。
人間の脳の数だけ後づけの目的や理由が存在する。
目的や理由を登ろうとしている山の頂にたとえるとすると、過去の人たちがやっていた話し合いとは、違う山の頂上に登ろうとしている人たちが集まって最善のルートを探し合うようなもので、永遠にゴールすることのない無益な話し合いだったのだ。
そこで、科学だけに根拠を置くTBは、自然界には目的や理由など存在しないと理解した上で、唯一、《自分の本体の平和のため》という目的だけを想定しよう、と取り決めたのである。
世界にたった一つの目的しかないのだから、裁判の裁定基準はより明確になり、戦わせるための対立する意見を探し出す方が難しい。誰もが一つの山の頂を目指すために助け合うしかないのだから。
医師の仕事も、病気という概念がなくなると同時に昔とは一変した。
現代の人々は、不快に思う「適応症状」を訴える人はあまりいない。どんな適応症状も甘んじて受け入れ、むしろ他の分身にできないことを代わりにやってあげているなどと思って楽しんでしまったりするからだ。
日常作業が身体的に不自由になっても、その場にいる誰もが助けてくれる。
まれに不快で仕方ないと言って自分の適応症状を訴えてきた人がいても、昔の言葉で言えば患者と呼ばれて差別化された一個人に医師の眼差しが向けられることはない。
まして、自分の生活レベルを向上させることと、たくさんの薬を処方することとが医師の脳内でイコールで結びつくことなどあり得なくなった。
現代の人々の身体感覚を理解してもらうにはいい例なので、その時、現代の医師はどうするかをご紹介しようと思う。
まず彼の眼差しは、当然、その適応症状を引き起こす原因に向けられるのだが、原因は第一次原因、第二次原因‥‥と、どこまでも考えられる。一般にその原因の数は次数の2乗に値すると言われている。
つまり第五次原因の数は25個、第十次原因は100個‥‥という具合である。これは別に誰かが正確に計算したわけではなく、原因とは、人間の認識の域をはるかに超えて複雑に絡み合っているものだと言いたいためのたとえである。
例えば、天然痘に罹かった原因はウイルスである、というのが第一次原因だとすると、何故そのウイルスが体内に侵入したかが第二次原因、そのようにしてどこまでも原因をたどっていくと、第1000次原因になると100万個も原因が絡み合っているということで、そこまでいくと、不快な適応症状を訴えられた医師の存在や、人間が言葉を使用するようになったことも原因の一つに含まれることになる。
もっと進むと、この宇宙に地球が生まれたことなども原因の一つにみなされ、最終的にはビッグバンに行き着く。現代の医師の眼差しの向けられる先は、その全てである。
そしてそれらの原因の一つ一つに程度の差はなく、同じ大きさ、同じ重さであると見るのが科学の視点である。
過去の医師は、第一次原因にしか目を向けなかった。それで、1980年に天然痘の原因であるウイルスを根絶させることに成功し、人類はついに苦悩から解放されたかというとそんなことはなかった。
過去の治療と言われるものは、みんな第一次原因だけに対する対症療法のことだったのだ。
現代の医師の目的も、唯一、《自分の本体の平和》である。それ以外の目的は何もない。
彼の脳内には、医師としての知識、つまり第一次原因の知識や薬の知識などが詰め込まれているわけだが、その知識と、唯一の目的とが彼の脳内で攪拌されて出てきた答えを彼は実行するのだ。
つまり、現代の医師は一人の分身の訴えを聞くことで全身(=自分の本体)の歪みを知り、そして全身の歪みに目を向けるという彼の行為が、不快な適応症状を訴える分身を取り巻く環境に微妙な変化を与え、気がつけば不快は根本から消失しているのである。
常に全体を見ると言っても、裁判官も医師も別に難しいことをしているわけではない。それが現代の人々の身体感覚とも言うべきものであり、その視点が彼らの習慣になっているからだ。
むしろ現代の人たちから見れば、狭い視野でやりくりしていた過去の人たちは、ずいぶん難しく煩雑なことをしていたなと感じるに違いない。
現代の人々の生活を知っていただくために、もう少しだけ聞いてほしいことがある。
時間に追われることのない彼らは、並んで待つことを少しも厭わない。人気のあるテーマパークやコンサートや映画などは前もって券が配布される。その券を手に入れるために並ぶのだが2時間でも3時間でも平気で並んでいる。
その間、初めて会う分身同士、ずっと話ができるのでむしろ並ぶことが楽しみなのだ。
彼らは譲り合うことも好きだし、そしてまたルールを実によく守る。ルールを守ると心地良さを感じる脳になっているからだ。
ごくたまにだが、勢い余って度が過ぎた悪戯をしたり、ルールを破ったりする者が出てこないこともないが、そんな人は当然、昔で言うところの警察官に当たるピース・オフィサーに連れて行かれる。
と言っても昔の警察官とは意味合いが違う。悪戯やルール違反をした者は、環境の被害者であると見なされるので、ピース・オフィサーから叱られるのではなく、むしろ憐れまれ、慰められる。
社会の人々の目も同じで、悪戯やルール違反をした本人にではなく、彼にそのような行動を取らせてしまった環境に向けられ、その環境を作っている一人としての自分の責任を感じる。
そんな中で悪戯やルール違反をしてしまった人は、二度と悪戯やルール違反はできなくなるものだ。
現代のピース・オフィサーや裁判官などは、犯罪の責任を押し付ける誰か一人を探し出して罰則を与えるためにあるのではなく、自分の本体の心身をいたわり、本体の心身の調子を整えるために必要とされている、と言える。
昔は、常軌を逸した凶悪犯罪者に対しては精神鑑定というものが行われていた。それをするのは科学者であったが、しかし今考えれば、ずいぶん非科学的な考えの下に行われていたものだ。
精神鑑定とは、加害者の脳に責任能力があるかどうかを問うわけだが、現代では、脳は個人の持ち物ではないと理解されている。どんな行為も一人の意志や責任でなされることはあり得ない。それを彼らは科学的な意味で知っている。
どんな犯罪も責任は地球上の全ての人類にあり、それによる被害者も地球上の全ての人類なのだ。とは言っても、そのように理解し合っている現代では、大それた犯罪自体が起こり得ないわけだが。
彼らは、あらゆる生活用品に対して自分の所有物という感覚がない。昔で言えばレンタルのような感覚である。
次に使う人たちのために物を大切にし、リサイクルしたり使い回したりしている。
世界中の物が無料で思うように手に入るというのに、彼らにはむしろ物を大切にする気持ちが生まれているのだ。当然、資源の無駄遣いなどしない。食事に関しても、SAポイントの許す限り何でも好きなだけ食べていいはずなのに、分け合う気持ちが優先し、あまり過食することはない。
個人主義的な環境の中で生きていた頃の人々から見れば、現代の人々の感覚はかなり奇妙に映る部分が多いだろう。
他人を疑うことを知らない無防備で利他的とも言える感覚。それがどこから来るのか理解に苦しむかもしれない。
しかし、科学の視点で丹念に自然界を眺めていくと、そこにはそもそも利己的なふるまいなど存在しなかったことがわかるはずである。
もし利己的なふるまいは存在すると主張する科学者がいるとすれば、それは人間特有の「錯覚の自我」から見て評価してしまった結果である。
そしてまさに現代の人々の感覚や行動に大きな変化をもたらした最大のきっかけは、その科学が明らかにした事実だった。
人類は実に長いこと誤解していた。《自分》とは、この境界線を持った体の内側のことであると長いこと信じてきたのである。
しかし、2012年以来、世界中の科学者らが垣根を取り払って話し合った結果、錯覚ではない本当の自分とは、この宇宙であると結論づけられたのだ。
この宇宙では、くっきりとした境界線を持って何からも独立して存在しているものなど何一つなく、万物が融け合っていると言ってもいいくらいに、どんなに離れていようと影響し合い常に変化している。
しかし、我々の神経系が錯覚を起こすことで、ここに、環境とは画然 と切り離された個人の体の境界線を見てしまっていただけなのだ。
そもそも、自意識という錯覚は、ヒトの脳が長い年月の環境の変化によって肥大し、記憶容量も増え、記憶したものを言葉という音刺激に置き換えるようになる中で生まれたものである。
それは、簡単に言えば、脳内に自分を映す鏡ができたようなものだ。
神経系の錯覚とは言っても、錯覚とは気づかなかった過去の人々にとっては確信と同じである。
それにより自意識はますます増大し、我々は個人に分断されることになり、個人にはそれぞれ、目的を実現しようとする精神の強さのようなものが秘められていると思い上がることになった。
それは意志(will)と名づけられていた。
過去の人々にとって意志とは、困難を切り開いたり病魔に打ち勝ったりする偉大なものだった。だから、人生における様々な困難を、強い意志で乗り切るような状況を歌や劇などに描き、錯覚している脳にそれを見せてうっとりさせて楽しむ傾向があった。
しかし、この錯覚もまた、科学によって打ち砕かれた。彼らが信じていたこの境界線を持った体の内側が自分ではないのと同じように、意志というものも内側に属するものではなく、神経系を取り巻く周囲の環境に属するものだったのだ。
意志(will)というものは、環境によって脳に浮かび上がらせられていたものに過ぎないと科学が解明したことで、それまで will と呼ばれていたものはmirrored will(ミラード・ウィル:脳内の鏡に映し出された意志)と呼ばれることとなった。
つまり、脳内に自分を映す鏡のようなものができて自我意識が生まれたわけだが、その錯覚の自我意識が、脳内に浮かび上がった意志(will)を見て《自分の意志》と勘違いしたのだ。
しかし現代では世界中の人々が、自分の行動は自分の意志にではなく、環境が自分の脳内に浮かび上がらせる意志、つまりこの脳を取り巻く環境に自分は動かされている、という事実を知っている。
知っているというからには哲学の思想や宗教の教義などではなく、科学の指し示す事実を受け入れているということだ。
そして科学だけを全ての土台と決めて始めたTBだから、全世界の人が一つになれたのである。
それまでの錯覚した脳が作っていた環境を個人主義的な環境と呼ぶとすれば、科学が導いた真実を上書きした脳たちが作る環境は、分身主義的な環境と呼んでいいだろう。
2.「パレスチナもこんなに寒いのかなあ?」
「パレスチナもこんなに寒いのかなあ?」 大塚は乾杯のビールを飲み干した後、近くにいた店員に熱燗を注文してから言った。
暮れも押し迫った2001年の11月、彼が《平和の振り子》というNGO(=国際協力に携わる非政府組織)で働くようになってから、5年の歳月が経っている。いつもはその仲間たちと来る居酒屋に、この日は、相原と二人だけで来ていた。
瀟洒なログハウス風の店で、広い店内にもかかわらずいつ来ても若い客で満杯である。良心的な料金設定のせいなのだろう。
ボックス席はまだいくつか空いていたが遠慮してカウンターに座った。
「まったくなあ、まだ11月だというのに何だろうな、この寒さは。地球温暖化なんて言ってるけど、これじゃまるで氷河期がやってきそうだよ」
相原は、カウンターの中で忙しく働く料理人にゲソの唐揚げとチューハイを追加した。
相原も大塚と同じNGOで働いている。
二人は大学時代に被災地のボランティア活動をしていた時に知り合い、卒業後、それぞれ別の会社に就職したが、それから数年して大塚が今のNGOに入ったのを知って、相原もそれまでの会社を辞めてついてきたのである。
NGO「平和の振り子」の掲げている目標は、世界から不満と不平等をなくすことだ。戦争や紛争などを含め世界の様々な問題は、結局はそこから生まれるものだからだ。
今の世の中、自分一人だけの幸福などあり得ない。全ての人間が満たされない限り、世界は成り立たなくなっている。
そのためにも多くの人に世界の現状を知ってもらい、互いに助け合えるよりよい世界を作ることを目指して、勉強会や講演活動や演劇やフォーラムなどを開催したり、被災地で救援活動をしたり、援助物資を送ったり、発展途上国に学校を建てたりなどの様々な活動を行っている。
収入源としては、会費、個人や企業などからの寄付、講演および公演活動、機関紙や本などの売り上げ、政府からのNGO事業補助金などである。
大塚たちは、少ないとはいえ何とか生活するくらいの給料ももらえている。
その中で二人は初めの頃、いろいろな平和活動に携わってきた。
アフガニスタンやカンボジアの地雷廃絶のために街頭で声をからして募金を呼びかけたり、《戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認》を謳った日本の憲法九条を平和のためには変えるべきでないと訴えて日本各地や世界を回って署名を集めたり、被災地に救援物資を届けに行ったり、飢餓救済、環境保護などの問題にも積極的に関わってきた。
二人は会社勤めの時とは違ってそれなりに生き甲斐を感じて働いた。
今では、それぞれ違う部署に分かれて重要なポストにつき活動をしている。大塚は講演活動やフォーラムなどを開催して人々に世界の現状を知ってもらうような仕事、相原は貧困地や紛争地に救援物資を送るような仕事を担当している。
「もう一ヵ月しかないんだな。準備は進んでるのか?」大塚が聞いた。
「正直な話、浅野さんに全てをゆだねるといった心境だよ。無事に帰ってこれるかどうかもわからないんだからな」
浅野というのはパレスチナ情勢に詳しいジャーナリストのことだ。
パレスチナとは地中海東岸に面するレバノン・シリア・ヨルダン・エジプトに囲まれた地域のことで、ユーラシア大陸とアフリカ大陸を結ぶ《文明の十字路》とも呼ばれ、太古の昔から、さまざまな文化を持った人間集団の出会いの場だった。
異なる人々の交易、協同、紛争が織りなす独特の歴史の中から、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大宗教も生まれた場所である。
紀元前からそこに暮らして盛衰を繰り返していたユダヤ人社会は、紀元一世紀にローマ軍に滅ぼされ世界各地に散っていった。その後は、このパレスチナにはアラブ系のイスラム教徒やキリスト教徒の人々が多く住んでいた。
この人たちのことをパレスチナ人と呼んでいる。
世界に離散していたユダヤ人は、19世紀末以降、特にヨーロッパにおける反ユダヤ主義(=ユダヤ人およびユダヤ教に対する差別思想)の高まりの中、自分たちの国の建国を目指して(=シオニズム運動)、パレスチナへの移住を開始する。
1930年代以後のナチスによるユダヤ人の迫害がこの移住に拍車をかける。そしてついに、1948年、ユダヤ人はそのパレスチナの地にイスラエルの建国を宣言した。
それと引き換えにパレスチナ人は住む場所を追われ、その多くが周囲の国へ逃れて難民となったのである。
イスラエルに残ったパレスチナ人は、陸の孤島のような自治区に閉じ込められ、その外側を武器を手にしたイスラエル軍が取り囲み《巨大な牢獄》にいるかのような状況に置かれ、権利が制限され不自由で貧しい生活を強いられている。
武器と言えば道端に転がっている石ころくらいしか持たない弱者である彼らに、相原たちは何らかの援助の手を差し伸べようと考えていた。
そのためにはまず彼らに接触することから始めなければならないのだが、直前に起こったインティファーダ(=パレスチナ人のイスラエルに対する民衆蜂起)を脅威に感じたイスラエルは、それをテロとみなし規制を強め、両者の軋轢は強まり、現在も予断を許さない緊迫した状況にあった。
しかも、イスラエル政府は、パレスチナ人のテロを防止するという名目で分離壁なるものを建設し始めていて、パレスチナ人への接触はより困難になっていた。
そんな中、浅野というジャーナリストの力を借りることができることになったのだ。
「こんな時に、こんなことを言うのはなんだけどさ、俺、振り子をやめることにするよ」大塚は真っ直ぐ前を見つめたまま言った。その横で相原は視線をテーブルに落とした。
「前から、なんとなくそんな気がしていたよ。反対なんだろう。振り子がパレスチナ人に加勢しようとしていることに」
大塚はしばらく黙っていたが、言いにくそうに切り出した。
「そうじゃないさ。現実に彼らはひもじい思いをしているんだから助けなければならないのは当たり前だ。ただ、振り子のやろうとしていることでは世界を平和にできないと言いたいだけだ。
元々、振り子で働こうと思った理由は、振り子のモットーでもある《世界から不満と不平等をなくしたい》という言葉にひかれたからだ。
俺はいつも言うけど、平和とは、戦争を回避したり抑止したりしている状態ではなく、世界中の人の心の中から不公平感や不満や恨みなどがなくなり、世界中の武器が不要になり、みんなが仲良く生きて、安心感に包まれて死んでいける社会、だと考えている。
振り子はそれを叶えようとしているところだと思ったんだ。だけど、振り子では世界を平和にできないと気づいた」
「また、その話か!?」
相原には彼の言葉が理解できないわけではなかった。だからと言って何ができるというのだ、と考えてしまうのだ。自分に今できることから少しずつ社会を変えていくしかないではないか。世界の現状を知らない人々に、少しでも伝える努力をするしかないのではないか。
「いや、何度でもこの話はさせてもらうさ。確かに地雷の撤去は必要だ。だけどそのために街頭で募金をしても、地雷がなくなるだけで世界が平和になるわけじゃない。憲法九条は確かにいい法律で、それを保持したら戦争を回避できるかもしれないけど、世界が平和になるわけじゃない。そんな上っ面なもの平和でもなんでもない。そう思わないのか!?」大塚は詰問口調になっていた。
相原とは今でも一番の親友だ。寝食を惜しまず精力的に働く彼を一面では尊敬してもいる。しかしこれだけは譲れない、と思った。
大塚の強い口調をかわすかのように、相原は飲んでいたチューハイをゆっくりとテーブルに置くと、難しい顔のまま言った。「なんだか今の社会って、何もかもが個人主義的なものになってきているって感じがするよな‥‥」
「そ、そうなんだよ。その個人主義的なもの‥‥‥ってのが変わらない限り、何をやったって世界は絶対に平和になりゃしない」
「でも、それってどうしようもないよな? 個人主義をやめましょうとでも言って回るのかい?」
「そんなことは無理なのは百も承知さ。でも方法がないわけでもないんだよ」
大塚はその方法を話すかどうか少々ためらっているようだった。「でも、もし本当にこの社会、というか世界のすう勢が個人主義的なものだとしたら、いくら地雷の撤去をしたって、いくら憲法九条の良さを訴えたって、不公平感や不満や恨みなどが世界からなくなるわけじゃないだろ。
むしろ俺たちが世界の現状や過去の歴史の過ちを知ってもらおうと講演活動などをすることで、そんなこと少しも知らなかった人たちに憤りや憎しみを植え付けてもいるわけだ。だから、身近なできることからと言ったって、何一つ改善されるわけじゃなく、同じことの繰り返しだと思うんだ」
相原は大塚の話を聞きながら、自分のデイパックから手帳を取り出すと、何やら眺めながら言った。
「それは俺もさんざ考えたさ。結局考えてもどうしようもないことだと思った。考えてもどうしようもない時、俺たちはどうすべきだと思う?
できることから一つずつ片づけていくことさ。
とにかく今、やるべき任務をまっとうしてみようよ。その後、また考え直したらもっといい考えが浮かぶかもしれないし、何か突破口が見つかるかもしれないしな。
俺だって世界を平和にしたいっていう意味に関しちゃ、お前とまったく同感なんだから」
「なあ、相原。実は俺は3年前に講演活動の方を任されるようになって、いろいろな学者先生や、世界を股にかけて活躍しているジャーナリスト先生や、世界を変革しようと頑張っている人たちの話をたくさん聞く機会を持った。
戦争や紛争の話もたくさん聞いたし、今でも戦争の後遺症に苦しんでいる人たちの話や、その人たちが何の補償も受けられないでいる話。
聞けば聞くほど、この社会の不平等や、人々の利己主義的な発想や、欲に根差した行動に腹が立ってしょうがなくなる自分がいた。
俺は、人間を利己主義的な行動に駆り立てているものの本質を知りたかった。そういったものがどこから来るのかわかれば、解決策も見つかり世界中の人が幸福になれるかもしれないと。
だから、そういった先生連中が外にばかり目を向けて調査するのに対して、俺は科学の視点で、人間そのものに目を向けて調べ始めた。つまり本当の自分探しを始めたというわけさ。
世間で言う自分探しなどというのは、自分らしさ探しに過ぎない。ほんの少しだけ海面から姿を見せている『氷山の一角としての自分』だけを対象にしているんだ。要するに、自分の性格や適性を知って恋人探しや進路決定や職業選択や自己実現などの拠り所にするための自分探しであり、あるいは『僕が僕である証』、『自分が生きた証』を欲しいための自分探しだ。多分に個人主義的な自分探しなわけだ。
だけど、本当の自分探しとは、海面下に広大に広がる氷の姿を探ったり、その氷と海水との関係を研究したり、その氷がどこで生まれ、どのように運ばれてきたかを調査したり、海水と大気との関係、宇宙との関係、とどこまでも科学的方法論によって探っていくことでしか見つけることはできないはずだ。
その全部を調べて初めて自分探しをしたと言えるんだと俺は思う。
お前には黙っていたけど、自分の時間を利用してそれこそ図書館にも通ったりしてたくさん勉強したさ。
そうしたら、いろいろなことがわかってきて、今度はそれに関連することが知りたくなって、それを調べる。そしてそれをもっと深く知りたくなって、とやっていたら、ついには電磁気や宇宙論や量子論まで勉強することになっていた。
本当の自分探しとは、そこまでやるということだったんだ。そしてついにわかったんだよ。お前がさっき言ったことだけど、どうして人間は個人主義的な方向に進むのかってことが」
大塚は隣に座っている相原の目を覗き見た。話には付いてきてくれているようだ。
「それで、どうして個人主義になるんだよ」
「相原、お前は自分って何だと思う?」
「何って? 人間だろ?」
相原は、バカな質問に驚いたかのように目を見開いて言った。「脊椎動物門、哺乳綱、霊長目、ヒト科、ヒト属‥‥」
「いや、そうじゃない。聞き方が間違ってた。どこからどこまでが自分か? ってことだ」
相原は相変わらず疑い深そうに目を見開いて大塚の目を凝視しながら、右手の人差し指を内側に向けて、自分の体をグルリと一周させてみせた。
「そうだろう。誰だってこの境界線を持った体が自分だと思っている。だけどそれは錯覚だったんだ」
それを聞くと、相原は一瞬声を失い、にわかに顔を緩め噴き出した。
大塚は続けた。
「いや、笑うところじゃない。科学的に言えば、それは神経系の作っていた単なる錯覚に過ぎなかったんだ。
神経系というのは、脳や脊髄 の中枢神経系と、この体を取り巻いている運動神経・知覚神経・分泌神経・自律神経などの末梢神経系との総称のことだけど、それらと記憶を司っている「言葉」などが連動して自分という錯覚の意識が生まれていただけなんだ。
別の言い方をすれば、神経系とは錯覚を起こすことだけが仕事のようなものだとも言える。人間のあらゆる認識は錯覚なんだ。
科学が示している本当の自分とは、境界線などどこにもなく、どこまでも自然界と一体のもので、言い換えれば自分とはこの宇宙そのもののことなんだよ。
でも我々の意識は、錯覚であるこの境界線を持った自分にがんじがらめに縛られているため、自分を他者から守ろうとしたり他者より優位に立とうとしたりする。例えば戦争を起こすのも自・他の意識があるからだし‥‥」
「ハッハッハッ、要するに、お前の言いたいことはこういうことか? 俺たちは今まで脳に騙されていた。自分というものを間違えて認識していた。それが俺たちを個人主義的なものにしてしまっていた‥‥と」
それを聞いて大塚はにこやかに言った。
「相原、俺はお前のような聡明な人間を友人にもって本当に誇りに思うよ。まさにそのことを言いたいんだ」
そう言うと、自分のポケットの中から用意してきたメモを取り出して渡した。そこにはホームページのアドレスとそのタイトルが書かれていた。
http://www.bunshinism.net/『世界平和への扉(分身主義への誘い)』
「我々が錯覚でない本当の自分を知ると、この環境は個人主義的なものから分身主義的なものに移行する。そこでは世界が平和になるしかないんだ。何故なら、実は科学が解明していることはまだあって、俺たちは自分の意志で動いていたんじゃなく、この環境に動かされていた人形だった。この体の中は絶えず微弱な電気が流れていて、筋肉はその力で動いているんだから、まさに自然界に動かされているロボットだったんだ」
相原は大塚に差し出されたメモを読み上げた。「分身主義‥‥? ホームページを作っていたのか。まあいいや、その前にお前の言うその錯覚の話、どこまで信じていいんだ?」
「全部だ!」大塚はムッとして言った。「いや、信じるとか信じないの問題じゃなくて、これは科学が俺たちに示している事実なんだ。科学が証明している以上、信じるとか‥‥」
「ちょっと待て!」相原は大塚の話を手でさえぎった。しばらくその手を上げたまま考え込んでから、頭の中を整理するかのようにゆっくりと言った。
「さっき、神経系とは錯覚することだけが仕事のようなもんだ、とか言ったよな。あらゆる認識も錯覚なんだろ。科学をやるのって人間だよな。だったら、その科学が導き出した結論を人間が認識した場合、それだって錯覚じゃないのか?
それに、科学って言ったって、しょせんは人間が自然界を認識するための一つの方法論に過ぎないんじゃないか?」
「さすが相原だ!」食いついてきたな、と大塚は思った。「俺もそのことは考えたよ。自然界を説明するための方法論はたくさんある。宗教だって、おとぎ話だって、東洋思想だってそうだ。科学はそれらの一つに過ぎないね。だけど、それらとは決定的に違うところが一つだけある。自然界を説明するのに、科学以外の物は全てが人間中心なんだ。
だけど科学だけは自然界中心だ。
人間の錯覚を何度も何度も自然界に戻してみて、つまり実験や観察を何度も何度も繰り返して、それで結論を導き出す。
俺たちは電気なんてモノこの目で見たことはないけど、今では誰一人としてその存在を疑う人はいないだろう? これだけ電気を利用して動く物に囲まれていて、それでも信じないとは言えないじゃないか?
万人を納得させる力を持つ。これが科学のすごいところだ。
人間中心に自然界を説明しようとする宗教やおとぎ話や東洋医学などは、実験や観察を繰り返して何度も訂正したりしない。自分たちの結論は絶対だと決めつけたがるが、結局は万人を納得させることはできない。
だけど科学はどうだ。どんな宗教の人でも、どんな民族でも、どんな思想を持っている人でも、電気が供給されているところであれば、人差し指でポンとスイッチを押しさえすれば、電気炊飯器で必ずおいしいご飯が炊ける。
ヒンズー教の人がスイッチを入れれば中からパンが飛び出してきたり、菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が出てくるなんてことは、万に一つも起こり得ない。必ず同じ一つの結論に至るじゃないか。
それとさっき言いかけたけど、その科学が俺たちに示していることはもう一つある。
俺たちは誰もが、自分の意思で考え自分の意思で行動していると思っているよな?」
「まあ、そうだな。まれに嫌々ながらやらされることもあるけど」
「だけど、それも錯覚にすぎなかったんだ。俺たちに自由意思などなかったんだ。環境が俺たちの脳に浮かび上がらせたものを受け取って、脳はそれを自分の意思だと思い込んでいたんだ。
だから、はっきり言えば、俺たちはみんな環境に動かされている人形に過ぎないんだ」
「おい、おい、またすごいことを言いだすな。ちょっと声を小さくしろよ。そんなこと誰かに聞かれてみろ。勘違いされるぞ」相原は声をひそめて言った。
「いや、これも科学が発見した事実なんだよ」
一向に声のトーンを抑えようとしない大塚に、相原はどうしても納得ができないという風に首を振った。
「たとえ事実だって、考えてもみろ。それが本当だったら世の中転覆しちゃうぞ。今までの価値観がまったくひっくり返されちゃうんだからな。
権威も何もあったもんじゃない。今の世の中で成功していると言われている人は、誰だって自分がものすごく努力して今の地位を獲得したと思っているじゃないか!?
それをお前、『あんたは環境に操られて医者や学者や政治家や大臣や社長になったんですよ』なんて言ってみろ。面目丸つぶれだ。
テレビや講演会で偉そうにしゃべっている人たちに向かって、『あんたは環境に操られて今しゃべらされているんですよ』とか、本などに何らかの信念を持って自分の意見を書いている人たちに対して、『あんたは環境に操られて考えさせられ、そして書かされたんですよ』なんて言ってみろ。とんだからかいだよ。とんだこき下ろしだよ」
「それはお前、プライドが高い高慢な人が面目丸つぶれになったりこき下ろされたと感じるだけだろう!? もし謙虚だったら、科学が示した事実をきちんと受け止めるはずだ。それに、お前の言う「操られる」という言葉は適切じゃない。別に、自然界は目的を持って俺たちを操っているわけではないんだからな。
それで俺は単に動かされていると言ったつもりだが、それだってあまり正確じゃない。
動かすという言葉を使うと、そこに主体となるものが生まれてしまう。いずれにしても、この自然界に目的も主体も想定しないのが科学の視点なんだ。しかし目的も主体も存在しないはずの自然界の中に、目的や主体という幻想を抱く人間の脳というものが生まれてしまった。
今では人類は、錯覚の自我を手にし、その自分が主体となり目的を持って生きていると信じ込んでいる。
その錯覚はどんどん大きくなり妄想化し、家族や国家という概念を作ったり、複雑な物流や経済システムを作り上げたりしてしまった。
今では頭のいい学者さんですら、それらが妄想の産物であることを疑いもせず、そこを基点として考えを進めているが、それがどんなに危ういことかはわかるだろう!?
妄想という名の砂の上に建物を建ててしまっていたのに、彼らはさらにその上に増築しているんだからな」
「だけど、この人間社会がたとえ脳の作るバーチャルの世界で成り立っていようと、今まで問題なくずっとやってきたんだからいいじゃないか? そんなことをわざわざ掘り返すことはないだろう?」
「本当にそう思うのか?」大塚は大袈裟に驚いたような顔をしてみせた。「相原、お前、本当に今まで少しも問題なくやってこれたと思っているのか? 錯覚である以上、この自然界と人間の間には必ず食い違いが生じる。
それを修正してくれるのは科学の視点だけだ。
さっき話したように戦争だって俺たちの間違った自分意識があったから起こっていたんだ。本当は、戦争というのは自分で自分の体を傷つけていたようなものだったんだぞ。
痴呆症老人やその家族の苦悩、家庭内の様々な問題、精神的な様々な問題、イジメ、天下り、貧富格差、税金や年金の問題、それに増え続ける犯罪‥‥、みんなみんな俺たちの間違った自分意識、つまり錯覚の代償だぞ。
環境問題だってそうだ。この地球は自分の体なんだ。そんなことにも気づかないから他人事のように無関心だ。社会がお金なんかを必要としたのも、俺たちの間違った自分意識のせいだったんだ。
考えてもみろ。世の中には『お金が解決する』っていう言葉があるよな。場合によっちゃ、愛さえもお金で買えるとか豪語する奴もいるくらいだ。
だけど、実は、お金があったからこそ様々な害悪が発生していたわけで、その尻拭いをまたお金でしていただけなんだ。
人類はまだ未熟だから、お金に頼っていると言った方がいいかもしれない」
「おい、何を言い出すんだ。お金がなければ世の中動かないぞ。扇風機一台回すのだって、その裏でどれだけのお金が動いていると思ってるんだ。大勢の人でダムを作り、水力発電を作り、送電線を引くのに一体どれだけの人が動き、どれだけのお金がかかっていると思ってるんだ。
それだけじゃない。扇風機を作る会社、それを運ぶ運送会社、車が通れるように道路を整備する会社、信号を作る会社、どれもこれも莫大な金が動いている。そして現に、お前はお金を出して扇風機を買い、夏を快適に過ごしているんじゃないのか!?」
「違う違う。そういった論理も、さっき言った妄想の砂上に建てた建物の増築作業と一緒だ! いつまでもお金などという砂の上に建物を建てていたら、人類はいつか足元をすくわれるぞ!」
「いや、お前の言うのは机上の空論だよ」
「どこが机上の空論だよ。お前の方こそ、机上の空論じゃないか。いくら声を張り上げて平和を訴えたって、人間を取り巻いている環境が変わらなきゃ、永遠に同じことを繰り返すだけだ」
「悪いけど、そんな空想論に付き合っている暇はない。今こうしている間にも、何千万という人がひもじい思いをしているんだ。それをほっとくわけにはいかない」
「ああ、それは確かだ。もうこの話やめるか? まさかお前とケンカするとは思わなかったな」
大塚は冷静さを取り戻すかのように一息ついてから笑い顔を作った。
相原も笑ってみせた。「そうだな。やめよう」
大塚はその時、こいつとはもう二度と会うことはないだろうな、と感じていた。平和の振り子のメンバーにももう二度と会わないだろう、と思った。
会えば説得しようとしてしまうに違いない。それは反発を招くだけだ。
そんなことに時間を費やしている場合ではない。先に踏み出さなければ。
やらなければいけないことは、科学の指し示している事実をより多くの人に知ってもらうことだけだ。本当の自分に気づいてもらうことだけだ。
3.ハウマーは学校に向かって歩いていた。
ハウマーは学校に向かって歩いていた。
向こうから来るちょっと年老いた女性との距離がだんだん縮まり目が合った瞬間、元気よく声をかけた。
「ハロー!」
彼女も即座にその声に「ハロー!」と返してくるが、お互いに全くの初対面だ。学校までの7~8分ほどの距離の中で、数十人という人とすれ違うわけだが、その間、誰とでもどちらともなく挨拶を交わす。
現代ではそれが万国共通の慣習のようなものだ。どこの国へ行ってもすれ違う人とは親しみをこめて「Hello!」、「Hi!」と挨拶を交わす。
今度は、後ろから「ハイ! 分身さん!」と声をかけてきた男性が、ハウマーの右に並び握手を求めてくる。
ハウマーも「ハイ!」と応え、握手を返しながら彼の方を見やる。
二十歳くらいの男性で黒い肌をしている。
「君 はどこで育ったの?」
ハウマーが聞くと、綺麗な眼をした男は、「中国」と答える。好青年だ。美しい人を見るのは頼もしく、そして誇らしい気持ちになる。
なにしろ自分たちの分身なのだから。
「僕 は、午前中はほとんど、この先の設計事務所でセルフ・アシストしているんだ。午後はラムゼスのスポーツ広場で汗を流しているよ。
君は学生かい?
明日の15時から17時はサッカーの使用許可が取れたから、もしよかったらクラスの分身さんたちを連れておいでよ。女の分身さんも大歓迎だよ」
そう言うと、彼はハウマーに名刺を渡し、片手を上げて爽やかな笑顔を残して足早に去って行った。
「ハイ!」今度は大きなサングラスをかけたスリムな女性が、すれ違いざま声をかけてきた。
「ハイ!、分身さん」挨拶を返すと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。初対面の彼女の心に、分身という言葉が快く響いたようだった。それだけで気持ちが通じ合える気がする言葉なのだ。
そのようにして学校に着くまでの短い間にも多くの人が挨拶を交わし、至る所で抱き合ったりしている。学校に着くと、彼はクラスの分身たちに今日の誕生パーティーへの誘いをかけてみた。
結局、男子が3名、女子が2名来ることになった。
学校が終わるとハウマーを含む6名は、花屋(=花の配布所)に向かった。外に出ることのないマリには花は一番の贈り物だ。
みんなで花を選びSAカードを渡すと、配布所の女性は、「人数分で割るわね」と言って、それぞれのカード情報を書き替えた。
SAポイントは、お金に代わるものだと考えたら、彼らの生活の本質を見誤るだろう。
それを理解するためには、科学の視点で始めた現代の人々の《物》に対する考え方を知る必要がある。
例えば、一人の家具職人が作った家具はその人個人の功績であると昔なら考えたが、現代の人々は、全世界の人の、いやこの宇宙万物の総力の結集で一つの家具が生まれたと考える。一人の家具職人はその「総力」と「家具」とを取り持つ媒体なのである。
同じように、お店(=配布所)に並べられるどんな品物もみんなで作ったみんなの物なのだ。その恵みを、より多くの人が享受するためには、その時の一人当たりの取り分を制限する必要がある。
それでSAポイントが考案されたわけだ。
しかし、既に科学的覚醒を果たしていた彼らには、そんな制限など必要ないくらいに、常に全体の配分に気を配って消費する感覚が身についていた。
それでもまだSAカードを廃止しない理由は、もっと大切な意味があったからだ。
実は、彼らがSAポイントでやり取りしていたものは、自分たちの貢献を称え合う賞賛だったのだ。
高校や大学はみんなのために行くのであって、大いに世界に貢献しているから、学校に行くだけでSAカードにポイントが付く。もちろん小学生や中学生も世界に貢献しているわけだが、「世界」や「セルフ・アシスト」の本当の意味が理解できるようになってからカードを与えようという趣旨のようだ。
もっとも、セルフ・アシストという言葉を広く解釈すれば、赤ん坊だって大いに貢献している。彼らの笑顔や愛らしさは世界(=自分の本体)に喜びや希望を与えてくれる。
もっと言えば、我々が生きていること自体、そして死ぬことも含めて、自然界で行われている全ての所為がセルフ・アシストである。
そのことを彼らはよくわかっている。
だから自分の行為が、単に、ポイントが付くセルフ・アシストか、ポイントが付かないセルフ・アシストかの違いだけでしかない。
そして、自分の必要以上のポイントは誰もが返上してしまい、後は、ポイントのつかないセルフ・アシストをする。
つまり、みんなで楽しめるスポーツをしたり、あるいは絵を描いたり手芸をしたりして、できたものをみんなで観賞して楽しんだり、手の込んだ料理を作って多くの人と味わったり‥‥。
それだって立派なセルフ・アシストである。
みんなでハウマーの家に向かって歩いている最中に、大声を上げたのはジャナである。「あっ、先に行っててくれない!? 渡したいものを思い出したの!」
彼女はブルガリアで生まれた分身だ。彼女を産んだ両親は、彼女と交換に、同じ頃生まれた違う国の子どもを授かっているはずだ。
「何を取りに行くんだよー」
後ろ姿に向かって叫んだのは、インドからの分身、クリシュナ。
ジャナはそれには答えずに通りがかったタクシーを捕まえて、みんなに手を振りながら乗り込んでしまった。
現代では自家用車を持っている人は一人もいない。その代わり、町には太陽光を利用して走るタクシーやバスが常に流れている。その他には宅配便や様々な輸送に使われるトラック類くらいしか見当たらない。
交通機関に関しても、自分たちの乗り物を自分たちで動かしているだけなので、誰がいつ乗ってもいいものという考え方は同じだ。乗り物にSAポイントが必要ない理由は、制限を加えなくても乗り物がなくなる心配はないからだ。
家に着く前に、みんなでコンビニやスーパーに寄って、誕生パーティー用のケーキや果物を調達することにした。その他に、ひもを引けば大きな音とともに紙テープなどが飛び出すクラッカー、様々な飾り付け、プレゼント用の雑貨などを手に入れる。
彼らが家に着いた時には、先ほど別れたジャナの到着と同時だった。ジャナの姿を見たとたん、クリシュナがずっと疑問に思っていたことを聞いた。「何を取ってきたのさ?」
「これこれ。かわいい分身くんでしょ!?」
紙袋の中から取り出したのは、綿をフランネル地でくるんで作った自作の犬の人形だった。それをマリにあげたくなったらしい。
その可愛らしさに感嘆の声を上げたのは、もう一人の女生徒、ミネナだった。彼女はエジプトからの分身だ。
みんなでワイワイ言いながら玄関の扉を開けると、幼いヨマーノフがふくれっ面をして立っていた。何度か会ったことのあるクリシュナが声をかけた。
「ハーイ、ダンディー分身君、元気かい?」
「ハイ、分身」ヨマーノフはおざなりに挨拶を済ますと言った。「にもつをぜんぶ、ひとりではこんだんだ!」
マリへのプレゼントが大きなトラック一台分届いて、それを全部一人で居間に運んだということらしい。見ると世界中から送られてきた小さな箱が20個近く積んであった。
ヨマーノフはみんなに褒められると気を良くし、クリシュナを捕まえて小声で言った。「ねえ、ラッティーを見せてあげようか」
飾りつけの準備が完了するとハウマーがマリを呼びに行った。他のみんなはクラッカーを手にすると、ケーキの上のロウソクに火をつけて、部屋を暗くした。
4月21日、マリ、二十歳の誕生日。
誰かの誕生日というのは本人だけでなく、分身みんなにとっても特別な意味を持っているものなのだ。みんなの心は、始めて見る自分たちの分身が登場する一瞬に向けて高揚していた。
その時、暗闇の中で、ヨマーノフが隣にいたクリシュナに囁いた。「後でラッティーを見せてあげるから、部屋においで」
4.大塚が平和の振り子を辞めて‥‥
大塚が平和の振り子を辞めて半年ほどが経った。
その間に、入れ替わり立ち替わり何人かのメンバーが電話をかけてきて、一度会って話をしようと言ってくれたが、自分の考えは変わらないからと言って誰とも会わなかった。
電話のついでに相原の近況をそれとなく聞いてみたが、彼がパレスチナに行く話は立ち消えになったらしい。
ジャーナリストがその後の電話で、イスラエルへの入国は可能だが、今の情勢ではパレスチナ自治区にはどうしても入れないと言ってきたらしい。
平和の振り子を辞めてから大塚が始めたことは、夜の就職口を見つけてきて、昼には渋谷の駅前で自分の作ったチラシを配ることだ。
チラシの内容は、「現代科学では、我々の自我は錯覚であり、また今まで言われていたような意味の意思(意志)も存在しないことを突き止めている。
錯覚から目を覚まそう。科学を通して我々が本当の自分を知ることでしか、世界を平和にはできない」というようなことを淡々と訴えたもので、最後に自分のホームページのアドレスを入れてある。
ひたすら分身主義のホームページを更新し、ひたすら渋谷の駅前に立ちチラシを配った。
彼が考えつくことはそれ以外になかったからそれをしたのだ。
そんなある日のこと、相原から電話がきた。平和の振り子からは誰から誘いの電話がきても、もうその気はないからと言ってすぐに電話を切ろうと決めていた大塚だったが、彼の言葉は意外なものだった。
「一ヶ月前に振り子はやめたよ」
彼はそう切り出したのだ。そしてちょっと込み入った話なので、大塚の休みの日に酒でも飲んで話したいと言ってきた。
もう大塚が夜の仕事を始めたことは知っていた。お互いに休める日に会う約束をして電話を切った。
久しぶりに飲み屋で会った相原の顔は輝いていた。彼はいつものようにチューハイを注文すると、テーブルの上に一枚のチラシを置いた。
「頑張ってるんだな」
見ると、大塚が渋谷の駅前で配っているものだった。
「あれから俺もいろいろ考えさせられたよ。お前が科学をジャンルを超えて広範囲に勉強してきた過程は、ホームページを読ませてもらったことでよくわかったし、どうして科学で人間をとらえようとしたのかもよくわかったよ。
だけど、ちょっと分身主義というものを確認しておきたいんだ。
この宇宙に存在する万物はビッグバンから分かれた身、つまり分身同士だという意味はわかる。
ただ、分身主義の言葉の由来は個人主義から来ているらしいけど、何かの主義・主張ではなく、科学時代を生きる世界中の全ての人々が持たなければならない新しい《視点》のことだとある。
じゃあなんで、わざわざ何々主義なんて言葉にしたんだ? もっとふさわしい言葉はなかったのか?」
大塚は首をひねりながら答えた。
「お前は以前、今の社会は何もかもが個人主義的なものになってきている感じがする、って言ってたよな。だからって人々が個人主義を確たる理論を持って主張しているわけじゃないよな。
個人主義というのは、ただ単に、錯覚の自我に囚われている我々が、自分が一番大事だと思う気持ちから取ってしまう行動全般に対して使っている軽い言葉だと理解していい。
その意味から言えば、共産主義の国であろうと全体主義の国であろうと民主主義の国であろうと、一人一人はみんな個人主義的だと思う。
要するに、我々の神経系が自分とはこの境界線の内側であると錯覚している限り、誰もが個人主義的な言動を取ってしまうと言うことだ。
よく個人主義とは自分勝手とは違い、個人の自由や権利を尊重する思想だ、などと言う人がいるが、そんなのは詭弁だよ。自分の自由や権利が侵害されたくないために、個人を尊重しましょうと互いに言い合っているだけに過ぎない。
他人という個人を本当に尊重することなんて、錯覚の自我に囚われてい我々には絶対できない。
分身主義という命名にしたゆえんは、その個人主義というものを科学の視点で見据えて、それを乗り越えたものということを強調したかったからなんだ。
だから個人主義と同じように、主義・主張じゃなく、自分が一番大事だと思う気持ちから取ってしまう行動全般に対して使っている言葉なんだ。
ただ違うのは、その自分とはこの境界線を持った体の内側だけを指しているのではない、という点だ。
錯覚の自分ではなく、科学が教えてくれている真実の自分とでも言ったらいいのかな。それはこの体の内側だけではなく、外側も全部なんだ。わかるだろう!?
本当に他人を尊重することは分身主義にしかできないんだ。いや、もうそこでは他人ですらない」
「なるほど。もう一つ聞きたいことがある。パレスチナでイスラエルをのさばらせている原因は、実はアメリカが作っているという見方があるが、お前はそれをどう思う?」
「アメリカに住んでいるたった数パーセントにすぎないユダヤ人が財力を持っていることで、政治に強力な発言力を持っていて、それでアメリカはイスラエルに武器などの支援をせざるを得ないという話だな。
だけどそれは表面的で大雑把な見方に過ぎない。
パレスチナで起こっている紛争は、どこかで誰かが転んだり、どこかで誰かと誰かが幸せになると信じて結婚をしたり、あるいはお前がどこかでくしゃみをしたりとか、そういった人類全ての行為や、この宇宙で起こった全てのことが関係しているんだ。ただ俺たち人間にはその関係性が見えないだけなんだ」
「お前にはその関係性が見えているのか!?」
「もちろんそんなもの見えるはずないじゃないか。だって考えてもみろよ。人間の感覚なんてものすごく鈍感なんだぞ。
科学的方法で観測したり推測したりできるだけだ。それだから科学が必要なんだ。
科学なら、140億年前のビッグバンが、現在でも我々の生活に与えている影響までわかる。
例えばそれは、宇宙のあらゆる方向から24時間休むことなく送られ続けてくる不快な雑音という人間にわかりやすい関係性に置き換えてね。
いいか。俺たち人間にわかる原因なんて身の回りのほんのちょっとした出来事だけだ。
例えば、ある人が酒を飲んで車を運転し、青信号で交差点を横断している歩行者を撥ねてしまったとする。
それを聞いて俺たちは、その原因は運転手が酒を飲んだこととか、前方不注意とかに求めるだろう。それはものすごく表面的な原因究明でしかないのだけど、俺たち人間にはそのくらいの関係性しか見えないんだ。
それで加害者が誰で被害者が誰と結論づけてしまうことで、第三者と言われる俺たちはその事件から完全に放免され、偉そうに加害者を責めたり、被害者や遺族を憐れんだりする。
しかも酒酔い運転の罰則を強化しようとか、業務上過失致死罪の処罰を重くしようとか、そのくらいの解決策しか思い浮かばない。だからいつまでたっても同じことが繰り返されるんだ。
そして俺たちはいつまでたっても同じ悲しみに責め続けられるんだ。
それと言うのも、俺たちには表面的な原因しかわからないからなんだ。
実際に事故が起こってしまった以上、結果から見れば、それは起こらざるを得ない必然だったわけで、その必然的結果をもたらした原因は何かと緻密に根気強くたどっていくと、この宇宙の全てのことが関係していることがわかる。
だって相原、ビッグバンからずっと続く関係性の中に俺たちはいるだけなんだぜ。
実は、その事故が起きた原因には、まったく違う場所にいたお前のくしゃみも関係しているんだが、そのあたりの精度になると何もわからない。
だから関係性はゼロとみなしてしまうが、それは死傷事故というものを重大視する人間の価値観が、それによって原因のランク付けをしてしまっているだけで、本当はこの宇宙の中で起こったどんなことでも、その原因は全ての物に、同じ重さで同じ大きさで潜んでいたはずなんだ。
だからたった数パーセントに責任を押し付けてわかった気になっていることなんていかにも乱暴で、緻密そうに見えて実はとても大雑把なことだったということがわかるだろう!?
それに引き換え、全てが原因だと考えることこそ大雑把に見えて実はとても緻密な科学的究明なんだ」
「やたらと俺のくしゃみを問題視するが、俺は風邪を引かないことで有名な男なんだぜ。ハハハ、まあいいや、もう一つ聞くが、それは誰が証明しているんだ?」
「えっ?」
「お前が主張することは科学的究明だと言うが、いったい誰が実験して、誰がどのように証明したのか知りたいんだよ」
「それは残念ながらまだ誰もいない。しいて言えば、証明したのはこの俺の思考実験ってやつだ。ガリレオの、あの有名な落体の法則や、ニュートンの万有引力の法則、それにアインシュタインの特殊相対性理論などが導き出された証明方法と同じだ」
「それって、ノーベル賞ものの発見ってことか!?」相原は目玉がこぼれ落ちそうなくらいに大袈裟に目を見開いた。
「まあ、茶化さないで聞いてくれ。いいか。例えば、そうだな‥‥、今、畳の真ん中に浴槽が置かれていて、その表面ギリギリまでお湯が注がれていたとする。お前が裸になってその浴槽に肩まで浸かる。
すると間違いなくお前の首から下の体積分のお湯が溢れて、畳を台無しにし、大家さんに叱られる。
ところが、うーん、例えば地球ほどの広大な畳の上にアメリカ合衆国くらいの大きさの浴槽が置かれていて、その中のお湯は風とかの自然現象の影響を全く受けないと仮定する。
そこにお前が、西の端のサンフランシスコ辺りで浸かったとしても畳に被害を及ぼすことはないし、東のニューヨーク辺りにいた人は、お前が浸かったことなど気づきもしない。
だけどもし精密な計測機器があったとしたら、お前が浸かったことはニューヨーク辺りでも観測されるはずだ。
いいか? まったく同じ体積でも、人間には、それが被害として経験されなければゼロと同じだ。まずこれが大雑把な人間の感覚というもんだ。
次にもう一つ例を挙げさせて貰えば、囲碁というゲームがあるよな。
あれは簡単に言えば陣地取りで、より多くの陣地を取った方が勝ちというものだが、効率良く、だいたい四隅から打っていくんだ。
初心者の頃は、今自分が打っている場所の石を取られないようにすることや、相手の石を取ることで精一杯で、とても盤面全体を眺める余裕などない。
しかし上級者になると、盤面の右下隅の一手を打つ時、まだやりかけになっている左上隅や、将来的に埋められていく真ん中に与える影響や、それこそ盤面全ての影響を考えて一手を決定する。
どんな一手も、その後の模様に必ず影響が出てくるからだ。
何故なら、一つの盤上では全部がつながっているからだ。
同じように、この宇宙という一つの盤面上で打たれたどんな一手も、実は必ず全てのものに影響を与えているんだけど、人間にはそれが実感できないだけなんだ。それで、自分たちの自己中心的な感覚や価値観によって事故や戦争の原因もランク付けしてしまう。
だけどそれは目先の原因でしかないから、本当の解決策は見つからず、それでいつまでも繰り返される。
本当は事故にしても戦争にしても被害者も加害者もない。しいて言えば、この宇宙の万物が加害者となって一つの事故や戦争を引き起こし、同時にこの宇宙の万物がその事故や戦争に関しての被害者なんだ」
「なるほど。俺が聞きたかったことはそのことなんだ。実は、分身主義というものに興味を持ち始めてから、俺もそのような考え方をするようになってきているんだが、どうもいまいち確信が持てなかったんだ。
確かに、最近は若者たちの間で自分探しが流行っているけど、お前の言うように、それらは自分探しと呼ぶよりも、『自分らしさ探し』と言った方が適切かもしれないよな。
本当の自分探しをしたら、自分とはこの宇宙であるという結論に行きつかざるを得ない気がする。だって、この宇宙の中では全ての物がつながっているわけだからな」
その言葉を聞いて大塚は大きく頷いた。
「興味を持ってくれたお前に、覚えておいてほしいことがある。分身主義とは科学が導いてくれたものだ。今のところ約140億年前にビッグバンが起こったことは、数々の観測の結果から確実だと考えられているので、その立場に立っているが、だからと言って、もしビッグバンがこの先否定されるようなことが起こったとしても、分身主義は少しも揺らぐものではない。
むしろ、ますますその正当性を深めるものなんだ。なぜなら、ビッグバンが否定されたとしたら、それをしたのは、我々を分身主義に導いてくれた科学の方法論なんだからな。
科学の方法論を用いれば、さっきから言っているように、最終的には、人間には見えない宇宙万物の関係性をどこまでも明らかにしていくことになる。
関係性と言っても、悪いことをしたからバチが当たったなどという、人間の感情に由来する非科学的な因果関係のことを言っているんじゃなくて、科学的な意味での因果関係の話をしているので勘違いしないでほしいんだけど、分身主義というのは、その科学を先回りして全ての関係性が明らかにされた場所に立っているんだ。
だから、もし分身主義が否定されるようなことがあるとすれば、科学の方法論自体が否定された時しかあり得ない。
でも科学の方法論で科学を否定することなどできないから、それができるのは科学以外のものだよな。
今ではもう人類は科学と縁を切ることはできないから、それはまずあり得ない話だ」
相原も大きく頷いた。
「俺も思うんだ。俺はパレスチナ行きがダメになってからよく考えたら、救わなければいけないのはパレスチナ人だけじゃないと気づいたんだ。
彼らも被害者であると同時に加害者であり、ユダヤ人も俺たちみんなも加害者であり被害者だった。
人類みんなの加害や被害がぶつかり合ってあの狭い土地で噴火したんだなって。みんなが時代の加害者でありみんなが時代の被害者であり、みんなで反省し、みんなで自分たちを救おうという気持ちを持たなければいつまでたっても何も解決しない、という気持ちにさせられた。
それで俺も「振り子」をやめて、お前について行こうと決めたんだ。振り子がやっているように、加害者が誰で被害者が誰と歴史の重箱の隅を突っついている間は、人類はこの怨恨の連鎖から抜け出せない。
歴史の事実なんて、ある意味、未来のビジョンに作られる作り話のことだし、正義なんてそれを信じるこちら側の思い込みでしかない。
ところで、お前は、俺たちは自分の意志で行動しているんではなく、俺たちの脳の錯覚が作り上げた自我によって個人主義的な環境を作ってしまっていて、その環境に浮かび上がらされた意志によって演じさせられている‥‥と言っているよな。
俺たちが振り子のメンバーだった頃、誰かを批判していた言動も、そのような言動を取るようなビッグバンの風が俺たちに吹いていてそれを実行させられていただけだったということが理解できれば、俺たちが批判する側が何故そのような言動を取るのかも理解できる。
たまたま違う海流に流されただけの大海の魚同士に過ぎないってことだ。
そのことに気づく人間が増えれば、つまり、海面から顔を出して、自分たちが海流に流されていただけだったことに気づく人間が少しずつ増えれば、それは自ずとビッグバンの風の吹き方を変えることになり、お前の言う分身主義的な環境になり、やがて、俺たちは分身主義的な環境から浮かび上がる意志に動かされるようになり、戦争も犯罪もなくなり、武器もお金も不要な世界になる‥‥ということだよな。
だとしたら、これほど結構なことはないんだけど、それでずっと考えていて、それが本当かどうか試してみるいい方法を考えついたというわけだ。いいか、ここからはグッドヌースだ、よく聞けよ」
相原は、もったいぶったような様子でニヤリと笑って目の前のチューハイをごくごくと飲んだ。彼はニュースとは言わずヌースと発音した。それがアメリカ英語だと、以前偉そうに話していたのを大塚は思い出す。
「アメリカのある企業が作った、インターネットの仮想現実シミュレーションネットワークなんだけど、現在ではこれが全世界で1000万人以上も参加者がいるらしい。それは、言うなれば、ネット上に作られた《もう一つの現実》だ。
そこでは、買い物からデート、自宅建築、ビジネスまでリアル世界そのままに生活することができる。もし、同じような分身主義のシミュレーションネットワークを作れば、いずれこの俺たちを取り巻く環境は、分身主義的な環境になるかもしれないと考えたんだ。試してみる価値はあるだろう?」
「うーん、分身主義の仮想現実シミュレーションネットワーク‥‥? どうも、いまいちイメージがわかないなあ」
「参加者は、まずは、その仮想現実の中で生活するキャラクターを作るために、140億年の歴史のトンネルをくぐり抜けてもらうという条件を設けようと思うんだ。
ビックバンの時に存在していた素粒子がくっついてヘリウムや水素といった単純な原子を作り、それらが重力によって寄り集まって銀河や天体を作り、やがて天体内部の核融合反応や爆発によってこの宇宙に存在するすべての原子が作られ、それらがまた寄り集まって我々の銀河系が生まれ、地球が生まれ、地球の海の中に溶けていた分子からRNAやDNAが作られ、地球に生物が生まれ、やがて人類が生まれた。
その140億年の歴史のトンネルをくぐり抜けてもらって、そうして生まれた人間のキャラクターを分身と呼ぼうと思うんだ」
「しばらく会わない間にずいぶん勉強したんだな。お前の口からヘリウムや水素や核融合なんて言葉、飛び出すとは意外だな。ハハハ」
「ハハハ。お前の書いたものをちょっと読ませてもらっただけだよ。
ところで、アメリカの企業が作ったシミュレーションネットワークでは、その仮想現実の中で生活するキャラクターをアバターと呼んでいる。
それは偶然なことに分身という意味だそうだが、単純に自分の分身となるキャラクターの意味で個人主義的な発想なわけだ。
だけど、こちらの分身とはそれとは違って、ビッグバンの時に存在していた素粒子から分かれた身、という科学的な意味の分身だ。そして、その分身であるキャラクターたちが、インターネットの仮想現実の中で生活をするんだ。家を建てたり、穀物を栽培したりね」
「なるほど、それはおもしろい。世界中の人が参加できるように、そのキャラクターの公用語は英語にしたらどうだい。それに、その中で話される会話(チャット)は全ての主語が《環境》に変換されるようにしたらどうだろう?
例えば、『私は家を建てようと思います』と入力しても、『今、私を取り巻く環境は、私に家を建てさせようとしています』となる。
もし『自分』を主語にしても出てくる文章は受動態に変換される。『私は‥‥と考えました』ではなくて『私はこの環境に‥‥と考えさせられました』と変換されてしまうわけだ。
「うーん。日常でそれをやってたらイライラするけど、インターネット上なら案外すんなりいけるかもな」
「それと、互いの名前を分身をつけて呼び合うというようにしたらいいと思う。Hello, Aihara bunshin! とね」
「ハハハ、まあ、企画会議には当然お前にも参加してもらうから、その時アイデアを出せばいい。なあ、大塚‥‥分身君」
「‥‥そうかあ、分身主義のシミュレーションネットワークかあ。なかなか面白いこと考えついたな。そう言えば、俺は、めったにやらないテレビゲームを、昔、暇つぶしにやったことがあったんだ。
でも、下手くそだから主人公のキャラクターをあっちこっちぶつけながら歩かせていて、そのゲームを2時間ほどやってから車を運転したら、どこかにぶつかってもぜんぜん問題ないやみたいな感覚になっていて、ああ、ゲームって怖いなあ、って思ったことあったけど、それと同じで、ゲームが俺たちの感覚を変えちまうってことは十分に考えられる。
元より俺たちは自分の意志で動いているわけじゃなく、周りの環境に動かされているだけだったわけだものな」
「そう、お前の言うことが本当なら、それと同じことが起こるかもしれないわけだ。
実は、俺の知り合いにコンピューターゲームの会社を始めた人がいて、その人にこの話を持ちかけてみたんだけど、結構、乗り気なんだ」
すごい奴だなと大塚は感心した。どこでそんな説得力と交渉術を身につけたんだろう。こいつと力を合わせれば、世界を変えられるかもしれない。
相原の話を聞いているうちに大塚も思い出したことがあった。
「実は俺も面白いことを考えていたんだ。例えば、宇宙がこの自分の体だとするよな。その細胞の一つ一つは宇宙の中の様々な物質だ。全てがつながって一つの宇宙を成している。
ある日、その細胞の中のいくつかに脳というものが作られ、脳が特に発達してしまった細胞は自我を持つことになる。そして『俺が、俺が‥‥』と主張を始める。それが我々人間だ。
人間は自分の意思で思考し動いている、と勘違いを始める。やがて、富を独り占めしようと周囲の細胞を攻撃したりし始める。だけどそれをすることで、実は自分の本当の体を傷つけていたことにも気づかずにね。
まあ、それはともかくとして、俺の中にある《自分イコール宇宙》のイメージを視覚化するためのジグソーパズルを作りたいと思っていたんだ。
ジグソーパズルの一つ一つのピースが今言った細胞だ。
細胞といっても人間の形をしているものもある。つまり先ほどの発達した脳を持った細胞のことだ。
それらを隙間なく組み合わせていくと本当の自分の形が浮かび上がってくる、というようなものを作りたいんだ。
体を使って行為することで、科学の解明している事実、つまり分身主義が、俺たちの潜在意識の中に感覚的に叩きこまれて行くんじゃないかと思うんだ」
「それも面白い。インターネットを通して、全世界の人で巨大なジグソーを作るってのはどうだい? みんなが心を一つにした時、本当の自分の姿が現れるなんて感動的だ。それも知り合いに相談してみるよ」
大塚は4杯目のレモンハイを飲み干した。飲み終えた後の顔は満面の笑顔になっていた。
「すごいことが起こりそうだな!」
5.二十歳になってもマリはラボ・ディケイダントを‥‥
二十歳になってもマリはラボ・ディケイダントを続けることになった。
その後、10年間の継続が認められたのである。
母親のミチカからその話を聞かされたハウマーはマリの部屋に駆け込んだ。彼女はランニングマシンで汗を流している最中だった。
「さっきミミに聞いたよ。わからないな。はっきり言わせてもらえば、君 は人体実験みたいなものなんだよ」
マリはマシンのスピードを落とし、歩行速度に切り替えながら振り向いた。その顔は輝いていた。そして息を弾ませながら言った。
「でも、それが私のできる貢献の仕方だもの。今、私のDNAから紫外線のフィルターとして働く塩基配列が見つかって、この前、学会で発表されたの。そこから作られるアミノ酸をうまく培養できれば、世界中の分身たちの役に立てるのよ。こんなに嬉しいことないわ」
ハウマーはマリという分身の置かれた環境のことを考えてみた。誰もがマリと同じ環境に身を置くことはできないから、それをみんなの分身として、みんなの代わりにやってあげている、と彼女は言う。それがマリという分身の貢献の仕方なのだ‥‥と。
「みんな同じなのよ。私は外に出ることはできなくて、こうしてテレビを見たりパソコンを見たり本を読んだりして、自分なりの錯覚の仕方で外の世界のことを認識するだけだけど、でも、外に出れる分身さんたちだってその人の錯覚の仕方で認識をしているだけ。
一人として同じものを見ていないのだから、その意味でみんな平等、みんな同じなのよ」
「でも、僕は、外を歩いていてタクシーに乗ったり他の分身さんと握手をしたりできるけど、テレビの中のタクシーは乗れないし、分身さんも握手を返してくれないよ」
振り向いたマリの目が、一瞬きらりと光った。
「だから、あなたが私の代わりにやってくれてるじゃないの。あなたに握手をしてくれた分身さんと私が握手をしたって、それはあなたと同じ経験の仕方で握手ができるわけじゃないでしょう。あなたは他のみんなの分身でもあるわけだから、あなたにしかできないことをみんなの代わりにやってくれてるの」
マリの口から発せられる《あなた》という言葉には、すぐそこにあるのに手を伸ばしても掴めないようなもどかしさを、ハウマーはいつも感じるのだ。
マリはランニングマシンの上で歩きながらしばらく宙を見据えていた。
「本当はね。私はもうそんなに長くないんじゃないかなって、ふと思ったりするの」
「えっ、元素に還る‥‥ってこと?」
「そう」
現代では、《死ぬ》という言葉は使わない。その言葉の代わりに《元素に還る》という言葉を使う。
人々が科学的覚醒を果たした現代では、死はもはや恐れの対象ではない。人類が長いこと忌避していた病のイメージは一新したし、イジメや生活苦で自殺をしたり、暴力で人を殺めたりするようなことが全くなくなり、死にまつわる暗く悪いイメージもなくなった。
だから現代の医学では手に負えない、あまりに苦しい「適応症状」が一生続くようなことが予想される場合は、薬などで元素に還らせてくれることが法律でも許されている。
そして、葬式が何かのお祭りかお祝いでもするかのように明るく楽しい。死とは、一時的に元素に還って新しく何かに生まれ変わることだということを、誰もが科学的な意味で知っているからだ。
「こう見えても体力的に結構しんどいのよ。ちゃんと説明はしてくれるんだけど、変な液体を飲まされることもあるし。結構、肉体的に負担かけてるなあって落ち込むこともあるんだよ‥‥。
この前、全身が末期がんになった夢を見たの。夢の中で必死に頼んだよ。
私の臓器は誰にも提供することができなくなっちゃったけど、元素に還ることでみんなに貢献したいの。だからはやく元素に還してって‥‥。そしたら、ミミもヒデもみんなも『いいよ』って賛成してくれて‥‥。
その時は嬉しかったな‥‥」
そこまで話すとマリはランニングマシンを止めて、マシンに掛けてあったタオルで汗を拭ってからハウマーの方に近づいてきた。そして顔を輝かせて言った。
「ねえ、私の体が火葬にされてモクモクと煙になると、例えばCO₂になってこの地球上にばらまかれるじゃない」
話しながらマリは両手で湧き上がる煙の形を作って上まで手を上げて、次にその手をパラパラと振りながら開いた。
「もしそれが地球上に平均にばらまかれたとして、地球上のどこかで1リットルの空気を採取したら、その中に、私の体から作られたCO₂がいくつくらいあるか知ってる?」
彼女は両手で1リットルくらいの大きさを作って見せた。
「あっ、知ってる。学校で習ったけど、いくつだったっけなあ」
「8万個以上もあるんだよ! 私のCO₂は、お花や野菜や穀物や雑草などの光合成に利用されて、それを食べた牛さんや豚さんやヤギさんなどの細胞となって、そして人間の体の一部となるんだよ。
たった1リットルに8万個もあれば、少なくとも1個くらいは世界中の分身さんみんなの中に入れるはずでしょ。それを考えるとすごい素敵じゃない!」
マリは両手を胸の前で祈るような形で合わせたまま、まるでハウマーの向こうにある遠くのお花畑でも想像しているかのような、うっとりとした表情をしている。
「きれいな話だね!」
ハウマーがそう言うと、マリは我に返ったかのようにハウマーを見て顔を赤らめた。
「地球一周研修、もうすぐだね。きっと行く先々で、遠くから来た分身さんだと言って、みんな抱きついてくるんだろうね」
「うーん、そうらしいよね」
「この前、インターネットを見てたら、卒業研修から帰ってきた人の感想が書いてあって、握手を求められたり抱きつかれたり大変だったって。いいなあー」
そう言ったかと思うと、マリはいきなりハウマーの体に抱きついてきた。両腕が縛られる形になって身動きが取れなくなったハウマーはむせながら言った。
「ゴホッ、ゴホッ。な、なに?」
「ねえ、私の代わりにたくさんたくさん世界中の分身さんたちを抱きしめてきて」
ハウマーの胸の辺りに顔を横向きに押し付けて、どんどん締め付けてくる。
「ゴホッ、ゴホッ。それはいいけど。い、痛いよ」
「いいの、1000人分のハグなんだから」
「いてて、ほんとに痛いって。ちょ、ちょっと強すぎるよ。君 は体鍛えてるんだから。それに、アツッ、熱いったらー、汗かいてるし」
その言葉を聞いてマリはフフッと笑い、少し力を緩め、そして巻きつけていた腕を離して後ろを向いた。
「行く前に、あなたにあげたいものがあるんだ」
6.相原がゲーム会社に持ちかけたシミュレーションネットワークは‥‥
相原がゲーム会社に持ちかけたシミュレーションネットワークは大ブームとなった。今までの世界観がガラリと変わる面白さが受けたのだろう。
ゲーム会社の触れ込みが《あなたは、いつまでその脳に騙され続けるつもりですか!?》といった挑発的なものだったことも功を奏したのかもしれない。
まずは日本よりもアメリカで流行った。アメリカで評判になったことで、テレビでもその反響はニュースで放映され、その後はまるで坂道を転がり落ちるように日本でも参加者は激増した。
人々の脳に分身主義が上書きされ始めたおかげで、人々の心が変わり始め、それがビッグバンの風の吹き方を変化させ、人類は、少しずつではあるが行動を変化させられていった。
分身主義的なドラマ、映画、歌、絵画、小説などが次々と発表され、インターネット内は分身主義一色に染まりつつあった。元々、常に世界とつながっているインターネットと分身主義とは相性が良かったのだ。
ブログなどは、今まで個人的な日記としての色彩が強かったが、言葉遣いなどの微妙な変化に、人々の視野が拡大しているのが感じられるようになった。科学に導かれた分身主義だったが、それを阻む最後の砦が皮肉なことに科学者たちだった。
個人主義的な環境に浸かっていたかつての人々の脳には、権威という幻想はとても美味な御馳走だったのだ。
2012年、アメリカのパーティクル・Mという宇宙物理学者が、世界中の科学者に呼びかけた。「今まで科学はそれぞれの分野で成功を収めてきたが、今こそ、その垣根を取り外して、錯覚ではない本当の自分のジグソーパズルを完成させよう」。
そのようにして、the Jigsaw of Myself が誕生した。科学者たちが発表し始めたことは、分身主義が見つめている世界観そのものだった。
パーティクル・Mの呼びかけから数年経ったある日、大塚がそろそろ寝ようかと思っていた矢先、電話が鳴った。相原からだった。
「お前、以前言っていたよな。分身主義が行き渡れば武器もお金もない社会になるかもしれないって。その時はまだ半信半疑だったけど、最近、もしかしたら‥‥って思うんだ」
二人はもう40歳をとっくに過ぎていたが、平和活動の妨げにならない程度の仕事で生計を立てていたので貧乏生活は続いていて、そのせいか二人ともまだ独身だった。
「この前、同僚がいろいろぼやいていたので、そのうちお金のない世の中が来るよって慰めてやったら、『ない、ない』とか言って一笑に付しやがって‥‥。なんとかそいつの鼻を明かしてやりたいよ」
「どうしたんだよ、誰かに聞こえると勘違いされるぜ。夜も遅いし小さい声で話せよ」大塚は笑いながらその先を促した。
「今の俺は、近いうちにお金のない世界が本当に来るような気がしている。俺たちは、お金が幸福をもたらしてくれると信じて朝から晩まで働いているが、それで幸福になっただろうか。お金のせいで俺たちの心の中には、妬みや恨みや怒りが渦巻いている。
お金のせいで犯罪や戦争も増え、俺たちの心の中は恐怖や不安や猜疑心 で一杯だ。それで、防衛費やセキュリティなど、本来不要のものに多くのお金が必要とされ、そのためにまた働かされる。世界全体がお金に支配され、お金に振り回されているじゃないか。
そんな中で企業も人類の本当の幸福とは正反対の商売を開発し続け、不要な労働をどんどん増やす。
我々がそこで一生懸命働いてきたのは、実は、自分たちの首を締めるため、自分たちが不幸になるため、世界を混乱に陥れるためだったなんてお笑いじゃないか。
だけどもうそんな悪循環ともおさらばする時が来たんだ。人類が今、長い悪夢から覚めたんだ。
まさか、パーティクル・Mの呼びかけにまで発展するとは思わなかったよ」
相原の話には熱がこもっていた。
「ハハハ。動き出したんだよ。実のところ、そろそろ俺の出番は終わりかなとも思ってるんだ。分身主義は確かにお金のない世界を予測しているけど、それは分身主義のやることじゃない。
分身主義というのは、あくまでも自分とは何かを科学的に知っただけのものだ。
それに俺も以前、お金を目の敵にしているようなことを口走ったけど、最近は少々違う考え方をするようになっているんだ。
もしお金がなくてもやっていける社会ができたとしたら、その基礎には、むしろお金が築き上げたこの相補的な現代のシステムがあったからこそだ、とな。
いずれにしても、今俺たちがやらなければいけないことは、自分とは何かを科学的に知ることだけだ。そして分身主義的な環境に移行した段階で、そこから俺たちの脳に浮かび上がってくる意志をじっと待ち、その意志に行動を取らされることだ。
《ミラード・ウィル》って言葉、知ってるかい。それが俺たちの意志の正体だったんだ。今、the Jigsaw of Myselfに提出されているたくさんの論文の中にあった言葉だ」
大塚はそこまで言うと口調を変えて言った。「なあ、相原、明日の夜、俺のアパートに来ないか? ある儀式をやりたいんだ」
7.地球を一周しさえすれば‥‥
卒業研修の地球一周は、一人だろうと何人だろうとどのような航路を取ろうと、交通手段は何であろうと一切構わない。
世界中の乗り物は無料で乗り放題だし、高校生の卒業研修のパスさえ見せれば、食事などもSAポイントは不要だし、宿は空いてさえいればどこでも泊めてくれるから何の問題もない。一般家庭でも喜んで宿泊させてくれる。
地球一周は、世界中のみんなの分身である高校生の履修しなければならない必修科目なので誰もが応援してくれるのだ。
ハウマーは一ヵ月かけて自分の旅の計画を綿密に立てた。もっとも、計画通りに行く人など誰もいないのだが。
荷物はなるべく少なくしたかった。できればデイパック一個ですませるくらいに。
持ち物の選択に迷っている時、マリがノックをしてドアを開けた。
「いよいよ行くのね。あげたいものがあるから、部屋に来て」彼女は、こわばった顔をしたままそう言った。
「じゃあ、これが終わったら行くよ。まだ後、2時間くらいかかりそう‥‥」
「今じゃなきゃ、だめなの!」
マリは強い口調でハウマーに言った。
気迫に押され、ハウマーはマリの後に着いて彼女の部屋に向かった。マリは、ハウマーを部屋に通すと中から鍵を閉めた。
「ねえ、今日は、何も質問しないで私の言うことだけ聞いて。シャワーを浴びてきて」
ハウマーはその理由を聞きそうになったが、うつむいてしまったマリを見て察した。マリはその体を自分に差し出そうとしている。
ハウマーはいつもより念入りにシャワーを浴びて脱衣所に出ると、そこには先ほど脱いだ洋服の代わりにバスタオルが置いてあった。
体を拭いて腰のあたりにバスタオルを巻きつけて脱衣所の外に出ると、奥の寝室の扉が開いていて、薄暗い中でマリはベッドに横になっていた。
裸だ。
始めて見る彼女の裸身は、顔と同じで真っ黒に日焼けしているようだ。下着の跡もほとんどない。
ハウマーが近づくとマリは両足を少し開くようにして曲げた。
「好きにしていいよ」と、マリが言う。
「どうしたらいいの? よくわかんないんだ」
男子は10歳になると、学校の身体検査で、血中の男性ホルモンの一つであるテストステロンの値を測り、一定の値を超えた場合は坑アンドロジェン剤の注射が打たれることになっているので、思春期といっても性欲が極端に強くなることはない。
それで、異性との体験者もあまり多くないのだ。
「よく見ていいよ。私のからだは分身みんなのものだし、あなたのものでもあるんだから、大事にしないといけないのよ」
ハウマーはマリの両足の膝のあたりを両手で軽くつかんだ。マリは少し震えているようだった。
それをゆっくり開き、隠されている彼女の部分を指で押し広げてみた。赤い。黒い肉体と対照的に灼熱に赤く色づいている。
見ているうちに、ハウマーの下半身は大きくなっていた。
「そこ、なめてもいいのよ」
「えっ、汚くないの?」
「だいじょうぶ、ちゃんと洗ったから」
口を近づけて舌を出して優しく舐めてみた。
マリの体がビクッと動く。
もう一度舐める。それに合わせてもう一度、ビクッと体が震える。何度も何度も舐めると何度も何度も反応する。
すごいな。ハウマーは思った。
こんな面白いの初めてだ。女の分身って敏感なんだな。
ハウマーがいつまでも舐めているので、マリは言った。
「来て!」
ハウマーにはその意味はわかった。自分の大きくなった部分をマリの中にゆっくりと入れていった。彼女は小さなうめき声を上げながら聞いた。
「ねえ、どんな感じなの?」
「うん、あったかい。あっ、今動いた」
手で握られているようにギューッと締めたり緩めたりしてくる。
ハウマーはマリの乳房の弾力を全身に感じながら覆いかぶさっていった。
すると、彼女の耳のあたりから火照ったような香気が立ち上った。
あっ、土の匂いがする。
土の匂いなど生まれてから一度もちゃんと嗅いだことはないのに、ハウマーには何故かそう感じられた。
幼い頃、大きくなったらどこか土の匂いのする土地で暮らしたいなと思っていたことを、ふと思い出す。
「ねえ、他にはどんな感じなの?」マリがまた聞いた。
「変な言い方だけど、何だか、土の中に沈んでいくみたい」
「フフフ、きっと二人は土になったのよ。ビッグバンの風をさかのぼって、今、生まれた場所に帰ったのよ」
ほんとだな。
ハウマーは素直にそう思った。
目を閉じると、自分が男でも女でもなく、動物でも植物でもなく、この宇宙の生まれたままの無機質に戻ったような気がした。全ての分身と一つになっているような気がした。
「今、あなたは私で、私はあなたなのね」マリが言った。
なんで《あなた》って言うんだろう、とハウマーは思った。
でも何だかその言葉が心地よい。ほんのり湿り気を帯びて、目の前で陽炎 のように優しく揺れている。
ハウマーは目を閉じてその言葉の尻尾に捕まるようにマリにしがみついた。
8.「今日は飲もうぜ!」
「今日は飲もうぜ!」
チャイムが鳴ったのでドアを開けると相原の大声が響いた。
ワインと焼酎を持った両手を掲げている。
「俺も今日は酒を用意してある。明日は二人とも休みだから、死ぬまで飲むぞー!」
大塚はそう言いながら相原を招き入れると、台所に向かった。
四畳半一間に小さな台所がついたアパートだ。相原はこのアパートに来ると我が家に帰ってきたようにいつもホッとさせられる。
部屋の隅には小さなガスストーブが燃えていた。
しばらくすると大塚は鍋を手にして戻ってきた。
「これが、お前に出す最初で最後の手料理だ」
「ハハッ、なんだよ。さびしいこと言うなよ。まるで死んじゃうみたいじゃないか」
大塚はその言葉には取り合わずに言った。
「‥‥と言っても、ほとんど手を加えてないけどな。ハハハ」
そう言いながら、今用意した鍋をカセットコンロの上に置いて火をつけた。「とりあえず、煮えるまでじゃんじゃん飲もうぜ。どれから行くか? 日本酒でいいか?」
「いいねえ、冷やでそのままやっちゃおう」
かなりのハイピッチで飲んでいたので鍋がグツグツ音を立てて来た頃には、もう二人共かなりできあがっていた。
「そろそろ鍋を食うか?」と大塚が言って蓋を取り、お玉で混ぜるのを見て相原は驚いた。
厚揚げ、豆腐、シャケ、白菜、鶏肉、そこまではいい。ピーマン、ミカン、オクラ、プチトマト、リンゴ、カボチャ、それに、崩れて得体のわからなくなったもの‥‥。
「今日は冷蔵庫のものを空にするつもりなんだ」
「ええっ、それにしてもこれはないだろ。こんなもん食えんのかよ」
「どうしたって食ってもらうぞ。今日は分身主義の葬式なんだ」
相原は返す言葉に詰まった。大塚がすかさず続けた。
「もう、分身主義は俺たちの手から離れて一人歩きを始めた。分身主義などという言葉もそろそろ不要になった。そう思うだろう。だから、今日は俺のホームページをこの世から抹殺しようと思うんだ。
お前はその最後を一緒に見届けてくれ。何しろ、分身主義はお前が広めてくれたようなもんだからな」
「‥‥そうか。なんかそんな気がしていたんだ。わかった。うん、わかってるよ。うん。わかった。よし‥‥」相原はうつむいたまま、何度も同じ言葉を繰り返した。
酔いのためか、繰り返すたびに体が大袈裟に揺れた。
大塚は鍋の具を二人の器に分け入れると、パソコンのスイッチを入れた。
起動するまでの間にもう一度乾杯をして鍋物を食べた。思ったよりうまいなと大塚は思った。相原も「酸味が実にほどよい」と絶賛した。
パソコンが起動したのを見計らうと、大塚は、相原に背を向けてFTP画面を立ち上げ、キーボードを叩いて操作した。
「さあ、やるぞ。後はこれをクリックしたら全てが削除される」
そう言ったかと思うと、しばらくして声を詰まらせながら言った。
「相原‥‥、お前が押してくれ」
相原は大塚の力の抜けた背中を見つめた。
「どうしても、やらなきゃいけないことなのか?」
「ああ。分身主義というのは、科学という肥料に育てられた森に過ぎない。もう人類はその森の外に出たんだ」
「じゃあ、大塚、一緒にスイッチを押そうじゃないか。もう一度乾杯してからさ」
二人はマウスの上に手を重ね、そしてお酒を手に持って3度目の乾杯をした。
第二部
1.ガフスとメイリーンの夫婦が‥‥
ガフスとメイリーンの夫婦が、眼のパッチリした、とろけるような笑顔の可愛い分身を授かったのは2065年の冬だった。今は2088年なので、もう23年も前のことだ。
科学の技術革新は日々加速の度を増し、そのことによって引き起こされる目に見える急激な変化ばかりでなく、個人主義的な環境からの脱却を果たしたことで、人々の脳に浮かび上がる感情や価値観などの内面の変化も劇的に起こっていた。
それにより人々の行動も変化し、古い制度も次々と新しいものに塗り替えられつつあった。そのような時代に23年前と言えば、はるか昔のことのように感じる。
この夫婦が住んでいる所はミドルズブラというイギリスの町。
ここはその昔、犯罪発生率が高く、麻薬の害などによる健康問題が深刻化し、教育レベルは標準以下、年間給与も平均以下ということで、イギリスで最も住みにくい町に選ばれてしまったこともある不名誉な町である。
しかし、個人主義的な環境からの脱却を果たしたことにより、犯罪はなくなり、酒を飲んで周りの分身さんたちに迷惑をかけるくらいにバカ騒ぎをする人たちもいなくなり、年間給与も平均を下回ることもなくなった。
もっとも、お金が消えたので平均値を出せるはずもないのだが。
昔は、世界全体が、錯覚の自我の産物であるお金に振り回されていた。
振り回すものだから振り落とされないようにと闇雲にしがみつく。振り落とされるということは死を意味していたので常に不安がつきまとった。
しかし人々が科学的覚醒を果たしたことにより、お金というタコ糸がプツリと切れ、その途端、彼らの心の中は不安になるどころか、自由で爽やかな風が吹き渡った。
人々は互いにもっとしっかりとした糸でつながれていたことを実感していた。
そして、世界のみんな(=自分の本体)のために貢献したくてうずうずし始めた人たちは居ても立っても居られなくなり、たくさんの人が良い環境で暮らせるようにと、良質で洗練された集合住宅を至る所に建設し、緑もたくさん植えた。
そんなわけで、不名誉な町もあっという間にとても住みよい町に変えてしまった。人間にはお金など必要なかったことが実証されたわけだ。
この夫婦には子供ができなかったが、子供を育てることで世界に貢献したいと願っていた彼らは、TBに申請していた。
3年待ってTBから許可が下りた翌日から、二人は世界中を回って赤ん坊用のベッドや洋服やおもちゃをそろえた。
世界中の乗り物はみんなが利用するために無償で動いているし、二人のSAポイントはたくさんたまっていた。
行く先々では誰もが自分たちの分身として歓迎してくれる。我らが人生は、みんなで仲良く楽しむためだけにある。それ以外に何があると言うのだろうか?
苦しみたいため、悲しみたいため、争いたいために人生はあるなどと言う人は一人もいないはずだ。
いずれにしても仲良く楽しむためだけの人生は夢物語なんかではなかった。それなのに、苦しみや悲しみや争いがない世の中をイメージすることすらできない世界で生きていた人たちが、過去には実際にいたのだ。
その頃の人々は、錯覚の自我に囚われていたので、この自然界とより良い付き合い方ができずにいたからだ。
現代の人たちは、病気という不快からも死という恐怖からも解放されている。彼らにとっては、病気も死もやはり人生の楽しみの一つなのだ。
赤ちゃん配達人がドアをノックした日のことを、ガフスとメイリーンは回想していた。
その日は朝から二人ともそわそわして、ガフスは何度もコーヒーを沸かし、18階の部屋の窓から外を見下ろした。つまり、コーヒーを手に持ってキッチンと自分の部屋を行ったり来たりしたのだ。
メイリーンの方は、口の中でぶつぶつ言いながら育児の本を片手にイメージトレーニングをしていた。つまり、キッチンで立ったり座ったり、眼をつぶって手を振り回したりしていたのだ。
「少しじっとしててくれないかしら。集中できないわ」行ったり来たりするガフスにメイリーンが言った。
「ごめん、ごめん。えっ、今何て言ったんだい。何をしてくれって?」
「何もしないでってお願いしたのよ」
「ああそうだった。えっ、ここには君 だっているじゃないか!」
ガフスにはメイリーンの言葉がよく理解できないようだった。
彼女はあきらめて目を閉じた。目を閉じると前頭葉のちょっと先あたりの空間に、柔らかい毛布にくるまれた愛らしい赤ん坊の笑顔が浮かんでしまう。
ガフスが19回目の往復をやり遂げてキッチンに戻ってきた時、ドアのベルが鳴った。先にドアに行き着いたのはメイリーンの方だった。ドアを開けると若い男性の分身さんがニコニコして立っていて、彼の肩から下げたベッド型スリングの中にいたのがルビーだった。
「ハロー、トゥルーボディー(TB) から分身ちゃんをお届けに上がりました」
ガフスが出遅れたのは手に持っていたコーヒーを落としてしまったからだ。散乱したカップとコーヒーを尻目に走ってきた時には、もうメイリーンに赤ん坊を独占されていた。
「ああ、なんてかわいい分身ちゃん。ああ、なんてかわいい分身ちゃん」
彼女はスリングの中からルビーを奪い取ると、それ以外の言葉が思いつかないみたいに何度も繰り返して頬ずりしていた。
ガフスは、書類を持って戸口に立っている若い男性に強く抱きついて、冷静さを装って低い声でゆっくりと言った。
「ありがとう、誇るべき分身さん。遠いところをようこそ」
ところが彼の持っている書類に気づいていなかったので、それはクシャクシャになってしまった。
その書類のしわを伸ばしながらガフスがサインをすると、若い男性は一枚を手渡して、「私たちの本体のために大切にお育てください」と言って爽やかな笑顔で去って行った。
書類にはルビーの出生地や誕生日時、それに健康状態などが書かれていた。生まれたのはモンゴルで、誕生日は半年ほど前の2064年の8月3日だった。
彼らはその書類を読み終えると用意していた花柄の封筒にきちんと入れて、食器棚の引き出しの奥に大切にしまいこんだ。
23年たった今、たっぷり23年分年取った二人はキッチンに座り、食器棚の引き出しの奥に大切にしまいこんだ、花柄の封筒にきちんと入れた書類を引っ張り出してきて、その時のことを懐かしく思い返していた。
先ほどルビーからメールが届いたのだ。
世界中のホテルは、予約が取れれば誰でもすぐに泊まることができるが連泊は最大3日までと決めているところがほとんどだ。
より多くの人に楽しんでほしいからだ。
宿泊者は客ではない。現代では、客などどこにもいない。昔のように、客に対してペコペコしたり、客だからといって偉そうにしたりクレームをつけたりする人などもいない。
一方的に相手にいい気分になってもらうためにする接待などという習慣も当然ない。誰もが、その場所を共有した人々と、楽しい時間と空間を作り上げる仲間だ。
ホテルとは、最高の共有空間を創出するために、宿泊する人たちが思い思いのセルフ・アシストに精を出し合う場所といってもいい。
彼らは、ルビーからのメールを読み終えて、昔を懐かしく語り合っていた。
「あの日のあなたの脳ったら、キーボードの文字配列が変わっちゃったパソコンみたいで、ほんと、出てくる文字がバラバラだったわ」
「ハハハ、そう言われてもよく覚えてもいないんだけどね。でも、コーヒーをこぼしてしまったのは失態だった」
メイリーンも吹き出した。「こぼさなければ、ずっとコーヒーを持っていたことにも気づかなかったでしょうね」
「だけど、あんなに可愛い赤ちゃんは世界中探してもめったにいないよね。君 はルビーをなかなか離さなくて、いつまでも抱かせてくれなかった」
「そうだったかしら。フフフ、ごめんなさい。‥‥そう言えば、最近よく思い出すことがあるの。アトリエの後ろに座って粘土をいじっていた小さいころのあの子の姿。
あんまりおとなしいから、時々、いることさえ忘れていて、振り向くと夢中で何かを作っていたわ。楽しくてしょうがないって顔をしてたわ」
「赤ちゃんの時から、自分でハイハイして行って、あの場所にちょこんと座って何かを作っていたんだものね」
「フフフ、きっとビッグバンの風は、あの子に音の代わりに形を授けてくださったのよ」
ルビーは生まれつき耳が聞こえなかった。
赤ちゃんの頃は、二人が話しかけると反応してよく笑ったので少しも気づかなかったが、後になってそれは音に反応していたのではないことがわかったのだ。
「音のない世界って、本当はたくさんの音があふれているのよ」メイリーンが遠くを見るような目つきでそう言った。
「えっ、なんでそう思うの?」
「ほら、あの子がいつも大切にしているもの知ってるでしょう。ガラスでできた小さな動物たち。時々あれを、あの子が手のひらで転がしていたじゃない。あれって、音を聴いていたんだと思うのよ。あんなに目を輝かして嬉しそうにしていたのを見るとやっぱりそう思わざるを得ないわ」
「思わざるを得ない‥‥か」ガフスはメイリーンの文語調の言葉を復唱して笑った。「そうかもしれないな。普通の人は耳で音を聞くけど、彼女の場合はどこか違う場所で、普通の人が聞き取れない音を聴いているのかもしれないね」
「聴覚がダメな分、他に集中するってことがあるのかしら。ねえ、たとえば視覚とか触覚とかの感度がすごく高くなったりとか。
あの子ったら、まるで地球上の見るもの触れるもの全てに恋しているみたいに、いつだってニコニコしていたものね」
二人は、ルビーの耳が示す、この環境における適応の仕方を知った日はさすがに驚いたが、それ以上に驚かされたことがあった。それは彼女の顔が示す、この環境における適応の仕方、つまり顔の表情だった。
それをガフスはかつて、「ルビーって子は、まるでタンポポのように笑う子だね」と表現したことがあった。
その時、メイリーンは言った。「あらっ、タンポポってどのように笑ったかしら?」
「こうパーッと開いて、フワフワフワって感じ」彼は両手でタンポポの形を作りながら説明した。
「フフフ、すごい表現ね。でもあの子の笑顔には、確かに人を魅了する何かがあるわ。笑うと目の下にクシュクシュッとした、はにかんだようなえくぼができるじゃない。それを見たらつられて、誰だって子どものような笑顔になっちゃうのよね」
大きくなってもそれは変わっていない。
今では、ルビーはレンゲという奇術師と世界中を回っているのだが、観衆は、手品をする時の彼女の可愛い笑顔に見とれてしまうので、彼女の手元を見ることを忘れてしまうくらいだった。
メイリーンは彫刻家である。
素焼きの粘土に彩色を施す、テラコッタ彫刻と言われるものを作っている。素朴で温かい質感が彼女を虜にしているのだ。
ルビーはまだ歩けない頃から、メイリーンのアトリエで粘土をいじることが好きだった。
小学生の頃には天才少女としてテレビに何度か引っ張り出されたこともある。いろいろな動物の形を、まるで手品のように、手の中であっという間に作ってしまうので、大人たちはびっくりさせられた。
しかしテレビを見る人たちを何よりも感動させたのは、粘土をいじっている時の彼女の楽しくてたまらないといった無邪気な笑顔だった。
彼女の笑顔は、耳が聞こえないという彼女のハンデとあいまって、それを見た人の眼がしらを思わず熱くさせるような魔力があった。
それも持って生まれた一つの才能である。そんな彼女を見ていると、誰もが持てるわけではないハンデと才能を、自分たちの代わりにルビーという分身が持ってくださっているという思いが浮かび、ルビーという自分たちの分身に対して誇りの念が湧いてくる。
ハンデさえも現代ではマイナスではなくプラスの要因なのだ。
テレビを見た人は誰もが、彼女に負けないくらいの笑顔になり、心の中で「プラウド(誇りに思います) !」と叫ぶ。
中学の時は、母親と一緒に展覧会に作品を出品するまでにもなっていたが、彼女は作品を作ることよりも粘土をいじっていることが好きで、あまり展覧会には興味がないようだった。
その頃、日本から巡業に来ていたレンゲという奇術師の手品を見た瞬間、彼女はひらめいた。
レンゲが何も入っていない箱の中から、赤、青、黄、緑、黒などの色をつけたひよこを次から次へと取り出すのを見て、これなら自分にもできるかもしれないと思ったのだ。
手品が終わった後、楽屋に行き、「私の手品を見て」と書いた紙を渡し、レンゲの前で早技で粘土のひよこを作って見せたところ、彼女は興奮して言った。「まあ、本当の手品だわ!」
ルビーには、一度見たものの形の細部を正確に記憶する特殊な能力があったのだ。
レンゲはテレビにも何度も出演していて少しは世界に顔の知れた奇術師だった。年齢は140億歳などと公言していたが、この宇宙がビッグバンから生まれてそれからずっと続いていることを考えると、決して間違いではないので誰もが笑いながらも納得するわけだが、一般的な年齢で言えば43歳。可愛らしいコスチュームで手品をするので20歳代後半くらいに見えないこともないが。
しばらくして、日本に帰ったレンゲからルビーにメールが来た。「もしよかったら、中学を卒業したら一緒に手品をやらないかしら? 世界中を二人で旅して回ろうよ」
もちろん、ルビーは大喜びだった。
手品ならしゃべらなくてもいいし、自分が一番好きなことで世界中の分身さんたちに貢献できる、そう思ったからだ。
中学を卒業すると早速、世界中をレンゲについて回った。
最初のうちは手品のアシスタントやひよこたちの世話をしながら、二人で手品の構想を練って練習を繰り返した。
その構想というのは、こうだ。
まず、二人がシルクハットをかぶった紳士風のおそろいのコスチュームで現れる。ルビーの目の前のテーブルには大きな粘土の塊が用意されている。そこからルビーが適当な大きさをくり抜いて、あっという間に例えば小鳥などを作ってみせる。
まずその早技に観衆は驚く。そのようにして観衆の興味を引きつけておいて、そこからが手品だ。
次に、レンゲが自分のかぶっていたシルクハットのふちを持ってクルリと回し、中に何もないことを観衆に確認してもらい、その中にルビーが自分の作ったもの、例えば小鳥を放り投げる。
するとそこから本物の小鳥が現れるというものだ。
そのようにして、カメ、ひよこ、小さなヘビ、カエルなどを作り、同じように、本物のカメ、ひよこ、小さなヘビ、カエルなどを取り出すのだ。
ただ無造作に作るのではなく、作る時の表情や身のこなし、それに粘土を放り投げると見せかけて、粘土と同じ色をした容器に入れた本物の生き物とすばやくすり替えるテクニックや、二人の息を合わせることが要求される手品だった。
「2年はかかるよ」と、レンゲはルビーの目の前に指を2本突き立てて笑った。
ルビーは力こぶを作る素振りをして笑って見せた。
彼女の手先の器用さは誰もまねできない。その頃には、右手と左手で同時に違うものを作ってみせることもできたのだ。
だから、実際には、その演目で二人が舞台やテレビに立てるようになるまでには1年もかからなかった。
普段の日は、駅前広場や公園などで披露して、世界中の分身たちを楽しませ、そして自分たちも楽しんだ。
広場や公園でやる手品には、舞台やテレビでの公演と違って、ルビーが大好きな瞬間がある。演技が終わった後、そこに居合わせた人たちが抱きついてくれることだった。
ルビーには彼らの口の動きでわかっていた。彼らはルビーやレンゲに抱きつき「プラウド!(あなたという分身を誇りに思います)」と叫んでいることを。
だからすかさずルピーもきれいな発音で言い返す。「プラウド!(こちらこそ、あなたという分身を誇りに思います)」と。
この瞬間、ルビーは自分の体が宇宙に溶けていくほどの喜びを感じる。
誰もが自分たちの分身であり、自分が置かれた環境の中ではできないことを違う環境の中で代わりにやってくださっている分身であることに、お互いに誇りに思い合う。
それが個人主義的な環境からの脱却を果たした彼らの脳に、自然に浮かび上がってくる《誇り》の感覚なのだ。
2.メイリーンは彫刻家であるが芸術家ではない
メイリーンは彫刻家であるが芸術家ではない。
強いて形容するならば装飾家である。芸術家という言葉は現代では使われることもなくなった。
それは、まだ人類が個に分断されていた時代に生まれた、ある特徴的な精神傾向を持って行為する人たちを指す言葉だった。
人間は自我を持ったことで動物からはっきり分化したが、さらに自我を強く意識することで、人間を取り巻く環境は次第に個人主義的なものになった。言ってみれば、皮を剥かれた夏ミカンが一房一房バラバラにされ、干涸びてしまったようなものだ。
そのような個人主義的な状況下で、漠然とした喪失感や不全感を抱き、その空虚さを埋め合わせるために、何らかの行為にすがらずにはいられない感受性の強い人たちが生まれていた。
その彼らの叫びが「芸術行為」だったのである。
だから芸術とは行為に与えられた名称であり、悪く言えば、自分探しの悪あがきのことだったのだ。
そのような精神傾向を持って行為する人たちが芸術家と呼ばれる人たちであって、芸術家とは職業の名前ではない。
しかし個人主義的な環境の中にいても、「ひからび」などを全く自覚しない人たちはたくさんいたし、そういう人たちが優れた作品を作る場合もあったが、彼らも一様に芸術家と呼ばれることもあった。
ちゃんとした言葉の定義や区別があったわけではないから、それを間違いと言い切るわけにはいかないが、本当の芸術家の内面を知ったなら、彼らは芸術家ではなく装飾家などと呼んで、芸術家とは区別すべきであった。
芸術家と装飾家の一番大きな違いは、芸術家と呼ぶべき人たちはお金のためではなくその行為なしでは生きられないからそれをしたのに対して、装飾家と呼ぶべき人たちはその作品によって収入を得ることを目的としていた。芸術はむしろお金とは相容れないものなのだ。
芸術はあくまでも個人的悪あがきであり、本来は他人の理解を拒絶している。その拒絶された中に踏み入ることが許されるとしたら、それは理解ではなく、まさに作者への個人的で偏狭なる愛だけである。
芸術作品とは芸術行為の時に産み落とされた副産物、あるいは吐しゃ物に過ぎない。
だから、かつてそれらが高いお金で取引されたのはおかしな習慣だったのだ。
芸術にお金を介在させた人々は、その行為に共感すると言うよりも、吐しゃ物に何らかの装飾的な付加価値を見出して金儲けに利用しようとしていたに過ぎない。
それに対して装飾は、他人の理解を拒絶するどころか、他人の理解を前提としているので、共通の言語を必要とし、多くの才能の合作によって作られたりもする。
現代の、個人主義的な環境から脱却して生きる人々を形容すると、まだ剥かれたばかりの、みずみずしい一房一房である。しかも、その一房一房は、いつでも宇宙という一つの皮で包まれることができる一房一房だ。
彼らは共感のために作品を作る。干涸びてしまった自分を自覚して潤いを渇望して叫んだりするためなどではない。現代はそんなことをする必要はなくなったのだ。
共感のために作品を作る人々は装飾家と呼ばれるべきである。だから現代では、本当の意味で芸術家と呼ぶべき人たちは姿を消してしまったのである。
現代では作者たちの扱いも変わった。
昔は著作者には敬意を表して印税なるものを支払う風習があった。現代の人たちは、科学的な意味で、この世界にたった一人の独創で生まれるものなんかどこにもないことをよく理解している。
作者の脳を作ったのは作者自身ではなくこの環境だし、彼が作るものはこの自然界に存在する何らかの材料を用いた、何らかの模倣や組み替えに過ぎない。
しかも、作者とは、彼を取り巻く環境に作品を作らされた媒体のことである。
宇宙万物の総力がその作者の肩に降り注いで一つの作品が生まれていたに過ぎないのだ。
現代では、その作らされた人のことを我々の誇るべき分身として、著作者としての名を残すことをするだけで、印税などが支払われることはない。
同じように、特許権などもなくなった。発明も宇宙万物の総力の結集で生まれていて、全人類の共有財産であり、争わずにみんなで享受すればいいだけの話である。
もっとも、お金がなくなった今、そんなことにこだわる必要なんて全くないわけだが。実に自然の理にかなった話である。
こうして現代に立って眺めてみると、個人主義的な環境の中に生きていた人々の風習は、ずいぶんと窮屈なものに見えてくる。
人々は視野の狭いゴーグルのような眼鏡をかけて世の中を見ていたようなものだ。レンズも思い思いに歪んでいた。
しかし誰もがそんなもんだと思っていたので、見えにくさに気づく人がいなかったのだ。
メイリーンの作る作品には、人間の様々な仕草が素朴にユーモラスに表現されている。
彼女は年に1回ほどのペースで個展をしている。作品を気に入ってくれた人には作品を譲ってあげる。それが楽しみで作っているようなものだ。
その時貰えなかった人たちも、ガッカリしたり悔しがったりすることはない。来年まで楽しみを引き延ばしてもらった人たちは笑顔で、貰えた人に対して「良かったね」と言ってあげる。
彼らは、メイリーンの作品が部屋の中に飾られたことを考えると夢のようだと思う。
何度も言うが、彼女の作品は個人的で病的な、芸術などではないからだ。
それは一つの作品がそこに置かれることによって、世界中の人と共感できる空間を作ってくれる、、、世界中の人の息が吹きこまれた、、、装飾品なのだ。
3.その頃、43歳になっていたハウマーは‥‥
その頃、43歳になっていたハウマーは、高校の教師をしながら世界を転々としていた。
最初は日本という国に8年ほどいたが、それからいろいろな国を渡り歩き、今では南太平洋の東部にある全周60キロ程の小さな島で暮らしている。島の周囲を巨大石像が取り囲んでいることで有名な島だ。
長期に滞在する旅行者たちを含めれば、島の人口は常に1万人を超していて、TBによって、緊急な対策が必要な人口過密地域に指定されている程だ。
しかし、世界遺産条約に基づいて遺跡や景観そして自然などが保護されているので、道路はほとんど舗装されず赤土のまま残されている。
彼がこの島の高校で教師を勤めて7年が経つ。
ちょうど新しい年度が始まり、これから3年間顔を合わせることになる生徒たちに自己紹介をし、SAカードを配り終えたところだ。
「今、君たちに配ったカードは何のためのものか知ってるね。そこにある番号は分身ナンバーといって、世界に二つとない君たちだけの番号だ。
明日から登校したら校舎に入った所に置いてある機械にタッチすればポイントが付く。そのポイント分で好きな物が手に入るというものだね。
世界中のすべての物は君たちのために用意されている。
そのことがどういう意味なのか、もう君たちには十分わかっていると思うけど、自分を知る勉強の一環だと思ってよく考えて使ってほしい。
ちょっと今、このカードを手にしていないものたちのことを考えてみてくれるかな。例えば人間の赤ん坊や人間以外の動植物。それに宇宙に漂流するたくさんの無生物たち。みんなみんな我々の分身だね。彼らはカードを持つ資格がないわけじゃない。むしろこんなカードなど必要ないくらい自然界と一体なんだ。それを《自然界と地続き》と表現するんだったね」
昔はずいぶん非科学的な物語で動物たちの営みが説明されていた。
例えば、自我を持った人間の目から見ると動物たちが生死をかけて戦っているかのように見えるが、自我のない、自然界と地続きである動物たちは戦っていたのではない。
食う行為も逃げる行為も自然界の中で作られる反応の一つに過ぎないのだ。
「実は、言葉を持ってしまった人間だけが、この宇宙という親元からはぐれてしまったんだ。SAカードなどと呼ばれているが、先生は、これは迷子札だと思っている。このカードさえ持っていれば、君たちはしっかりとこの宇宙の万物とつながって迷子になることはない。
つまり分身ナンバーは、一人一人を他と区別化して切り離すためにあるのではなく、つながるためのものなんだ。
いいかい。このようにイメージしてみてくれるかな。ジグソーパズルって知ってるね。あの一つ一つのピースは同じ形の物は一つとして存在しない。違うからこそそれらを間違いなくつなぎ合わせて元の完全な形を再現させることができる。
それと同じようなものだとね」
そこまで話すと、ハウマーは一呼吸置いて生徒たちを見回した。
そして彼は、今まさにこの狭い空間で授業というものが行われている不思議を思う。人間という配役を与えられた役者たちが、その舞台となる宇宙の片隅で、自然法則というシナリオに基づいて演じさせられている営みのことを思う。
教師が授業をするのではない。教師も生徒もここにいない人たちも含めて、宇宙の万物が一体となって授業空間を作っているだけなのだ。教師とは宇宙万物に支えられて授業空間に放り込まれた媒体の一つに過ぎない。
彼が大学で学んできた教育指導法とは、まさにその理解の上に立つものだった。それを自覚すると、そこに生徒との一体感が生まれ、授業はスムーズに流れる。彼はそのことを最近ますます実感するようになっていた。
ハウマーが教えている科目は自分史というものである。自分史とは、ビッグバンから始まる宇宙の歴史のことでもある。
「さあ、これからの3年間、自分史という君たち自身の歴史を駆け足で勉強していくことになるんだけど、最初にこれはどういう学問かということを説明しておこうと思う。
知っての通り、この宇宙は約140億年前のビッグバンによって大膨張し、その力は現在も進行中だね。我々には過去・現在・未来という時間の感覚があるけど、その時間というものはビッグバンによって生まれたと言っていい。そして、この宇宙の中で起こっているどんな事件も、ビッグバンに始まったその現在進行中の力が引き起こしているんだ。
その力のことを「ビッグバンの風」と言うんだったね。これは小学校で習ったはずだから、そこまではいいかな。
ビッグバンの時に存在していた素粒子が天体を作り、地球を作り、DNAを作り、我々は今ここにいるわけだから、自分史とはこの宇宙の歴史を勉強することだと言える。
その140億年の歴史を素粒子のつながりで見ていく学問だ。
つまり、マクロの世界とミクロの世界を同時に見据える学問ということだ。当然のことだが、この二つの視点をスムーズに行き来できるようにしておくことは、我々の本体の平和を維持するためにもとても重要なんだよ」
今、ハウマーの初めての授業を前にして、生徒たちの目は輝いていた。
彼らの目つきから、140億年の歴史を背負った自分に対する誇りのようなものが感じられてくる。
するとハウマーには、生徒たちの輝く目が、宇宙の中で輝いている星々に見えてきて、まるで宇宙を前にして立っているかのような気にさえなってくるのだった。
現代の小学校では、全ての教科が、神経系の錯覚してしまう《自分》が、いかにその外の世界と関わっているかということを学ぶように編纂されている。
そのことによって、《自分》とは目に見える境界線を持った体ではない、ということを感覚的に理解させるのだ。
小学生がまず始めに、校長先生や担任の教師から必ず耳にする話がある。
「入学おめでとう、我らが分身さんたち。初めに質問しよう。君たちには電気は見えるかな? 空気は見えるかい? どちらも目には見えないけどこの宇宙には確実に存在しているね。
もし電気がないとすれば、タクシーに乗ってどこかに行くこともできないし、朝おいしいトーストも食べられない。
もし空気がなかったとすれば飛行機は空も飛べないし、みんなは1秒たりとも生きてはいけない。目に見えるものだけが全てではないということを知ってほしいんだ。
では、自分とは何だろう? 今、目に見えるものだけが全てではないと言ったね。君たちに見えているその体、それが《自分》ではない。そのことをこれから6年かけて一緒に勉強していこう」
生まれたばかりの自己と非自己の区別のない状態から、五感からの情報と脳との連携が始まり、やがて言葉を用いるようになると、人間は自我に目覚める。
いや、目覚めるという言い方は正確ではない。むしろ自我という眠りに落ちると言った方が正確だ。目を閉じて、自然界から引きこもりをしてしまったような状態なのだ。
TBの示す小学校の学習指導要領の目的は、人間の脳を自我という眠りから覚醒させ、自然界に開いた自我意識を持てるようにすることなのだ。
ハウマーは続けた。
「これから話すことをぜひ覚えておいてほしい。君たちが生まれるちょっと前まで、人類は個人主義的な環境の中で生きていた。個人主義的な環境とは、自分とはこの境界線を持った体である、と錯覚をしていた脳たちが作り上げていた環境のことだ。
もう君たちは、この体が自分であると感じているのは脳の錯覚であることを知っているね。だけど、過去の人々はまだそのことを知らなかった。その環境の中に置かれた脳は、ますますその錯覚に過ぎない自分という意識を強めていった。
錯覚の脳を持った体としては、脳が快く感じる感覚に導かれるままにどこまでも利己的な行動に突き進むしかなかった。
今、個人主義的な環境からの脱却を果たした我々の脳が感じる快感とは、宇宙との一体感や全人類との共感で、利己的な行動はむしろ不快感をもたらす。
自分史を勉強することで、この感覚に科学的な裏づけが取れる。どうだい、早く勉強したくてみんなの脳はうずうずしてきただろう」
「ハウマー先生分身さん!」
一人の生徒が手を上げて質問した。「個人主義的な環境から脱却するまでに、どのくらい長い年月がかかったの?」
「面白い質問だね。実際、たった数年しかかからなかったんだ。先生はここに来る前に長いこと日本という国に住んでいたんだけど、その国は、昔、アメリカという国と戦争をしていて、彼らを鬼畜などと呼んで激しく憎んでいたにもかかわらず、戦争が終わった途端、手のひらを返したように彼らを尊敬し彼らの文化を取り入れていくようになった。
我々は環境に操られているだけだから、戦争という環境がなくなれば、考え方や行動もすぐに変化するという例だ。
それに、例えば今君たちの誰もが持っている携帯電話。それが出回る前は、町のいたるところに電話ボックスというのがあって、外で電話をする時はそこまで走って行ったらしい。でも携帯電話が作られると、あっという間に世界中に普及し、あっという間に電話ボックスは町から姿を消した。
それと同じように、個人主義的な環境から脱却するまでには、ほんの数年しかかからなかったんだ。
脳の記憶に科学的事実を上書きしただけで、人々の心は手のひらを返すように変わり、それまで憎み合っていた人たちも抱き合って挨拶を始めたし、あっという間に武器や貨幣が姿を消した。
そして次の日には、世界中の人が武器や貨幣の代わりに、今君たちも手にしているSAカードを手にして立っていたんだ。
君たちはまだ見たことないかもしれないが、桜の花というのは、あっちこっちの桜の木にほんの二つか三つほころび始めたと思ったら、その数日後には満開になっているような咲き方をする。
そうなったら、日本という国では、どこからともなく桜の木の下に大勢の人が集まってきて、酒を飲み歌を歌って楽しむ風習がある。
桜のことを知らない人が、まだ花が二つか三つしか咲いていない一週間前にその場所を通りかかり、その一週間後にまたその場所を通ることになったら、あまりの変化に目を白黒させるだろうね。
それと同じような驚くべき急激な変化が、人類の過去に実際に起こったんだ。
そのためには、桜の花が咲くための桜の木が自然界に存在することが大前提だが、それに当たるものは既に存在していたんだね。わかるかい? それは我々人類のことだ」
ハウマーは、宇宙の中で輝いている星たちを見回して微笑んだ。
4.マリはと言えば、同じ頃‥‥
マリはと言えば、同じ頃、世界を旅していた。
10歳からの10年間、一切外出せずに生きてきた彼女だったが、その後は堰を切ったかのように世界を飛び回ってたくさんの分身たちと出会ってきたのだ。自分の本当の姿を実感して生きるために‥‥。
家を出てからの25年間、一度も家には帰らず、結婚も定住もせずに、世界を旅して歩いている。
それも現代の人たちが世界に貢献する一つの形なのだ。現代では世界中の人たちが待っている。まだ見ぬ自分たちの分身と再会し、語り合い触れ合うことのできるひとときの楽しみを。
そう、現代の人々は、初めて会う人でも「再会」と表現するのだ。その楽しみを自分の本体に運ぶ人たちの行為を、セルフ・アシストと呼ばずに何と呼んだらいいのだろう。
彼女には家族の誰一人にも打ち明けていない秘密があった。それは、ハウマーが地球一周研修中の出来事だった。
マリの遺伝子研究の総責任者であり、家庭教師役でもあるモウリ博士が、彼女の体の異変を発見した。
マリは「家族には内緒にして」と言った。ハウマーとの間に子どもができたことを知られたくなかったからだ。
モウリ博士は、自分から家族に言うことだけはしないと約束してくれた。
「とりあえず、今後、ラボ・ディケイダントを続けてもらうかどうか、学会で議論してみるよ。君の方もこれから先のことを考えておいてくれないか」
マリは一日考えた末、両親の前で吹っ切れたように明るく言った。
「やっぱり、ラボ・ディケイダントは辞退することにしたわ。本当の自分を実感するには外に出てみなければいけないと思ったの」
ミチカもヒデルも「その方がいいと思う」と賛成した。
ところが、学会で議論してきたモウリ博士は、彼女の決断にちょっとうろたえた。
「学会での結論はこうだ。君の研究を続行したい。科学者たちは君の遺伝子を引き継ぐ子どもにも興味を持ったようだよ」
それを聞くと、マリは「ああ」と一言つぶやいて、深く目を閉じた。
そして、しばらくして言った。
「弁護士を呼んでくれるかしら?」
モウリ博士は笑いだした。
「ハハハ、その必要はないよ。科学者である我々は、いつも一番良い導きに従うことにしている。それは本体の平和だ。つまり我々の本体を混乱のない健康な状態に保つということだよ。科学はそのためにこそあるんだしね。
自分たちの分身である誰かの心を不安にさせる原因をたった一つでも作るということは、我々の本体を混乱に陥れることと同じだ。
だから研究はおしまいにしよう。
我々は本体を平和にしない研究などしない。できないんだ。なぜかというと、我々に研究をさせるように吹くビッグバンの風は、今では、この宇宙を平和にするようにしか吹いていないからだ」
現代では、《ビッグバンの風に行動させられている》という言葉が事あるごとに使われるが、個人主義的な環境で生きていた頃の人々が聞いたら顔をしかめたことだろう。
その頃は、人間は自分の意思(意志)で行動をしていると信じていた。それは裏を返せば、自分の行動の責任は自分で取らなければいけないということだ。
そのように考える人々には、《ビッグバンの風に行動させられている》などという言葉は責任転嫁 に聞こえてしまうに違いない。
しかし本当のことを言えば、人間の全ての行動は過去だろうが現代だろうがどれも自然界、つまりこの環境にやらされていただけなのである。
ただ昔はそのことに気づいていなかっただけだ。
そして、そのことに気づいたことで、それまで錯覚の自分の体にばかり向けていた目を、本当の自分の体、つまり世界や宇宙といった環境に向けるようになったのである。
そのことで人間は謙虚になり、全人類がつながり、自分という意識が宇宙にまで拡大した。
そのような感覚を持った現代の人たちの使う《ビッグバンの風に行動させられている》という言葉に、責任転嫁の要素など一つもない。
それどころか、むしろ、この自然界の全ての責任を引っかぶる気持ちを含んだ言葉なのである。
何故なら、自分とは環境に作られているものであると同時に、この環境の一部となって環境を作っているものでもあるからだ。
現代の人々にとっての自分とは、環境の一部であり全部なのだ。
禅問答のようなわかりにくい説明になってしまうが、それが彼らの身体イメージであり、彼らに染み付いている感覚なので、言葉で説明すると難しくなるだけであって、別に彼らにとっては難しいことでもなんでもない。
「君に《科学者の謙虚》という言葉を教えておこう。その昔、科学は哲学の一部とみなされていて、18世紀に入っても、科学者はまだナチュラルフィロソファー(自然哲学者) などと呼ばれていた。
サイエンス(科学) という言葉が使われ出したのも、実は19世紀に入ってのことなんだ。
昔は、お金というものを持っていなければ生活に必要な物も手に入れられない時代があったのは知ってるね。お金は働いた代償としてもらえたのだけど、19世紀に入るまで科学者は専門的な職業として認められてもいなくて、それによってお金を得ていたわけでもなく、他に生計の基盤を持った、いわばアマチュア・サイエンティストたちだった。
例えば、元々広大な領地を持つ貴族の生まれであったり、大商人であったり、聖職者であったり。彼らにとって自然哲学は知的好奇心を満たす趣味としての性質でしかなかった。
19世紀に入って、やっと大学あるいは何らかの研究機関と雇用契約を結び、お金という報酬が支払われ、研究設備の使用を許可され、研究に要するお金を割り当てられるようになったんだ。
それでもまだ彼らの時代は、人間は自分の意思で行動していると信じられていたから、新発見は他の誰のものでもなく自分の功績だと考えていた。
だから、その頃の科学者は、自分の新発見や論文が評価され認められるために、分刻みのそれはそれは厳しい競争の中で生きていたんだ。
一日違いの発表のせいで、人生が天と地ほどの差ができるから誰もが血眼だった。ノーベル賞ほしさに捏造事件まで起きる始末だった。
まあ、捏造した科学者にしても、錯覚をしている脳たちが作っていた環境の犠牲者だったと考えれば責められないけどね。
ともかく、科学とは謙虚な気持ちで自然界から学ぶものだと言っておきながら、その頃の科学者は謙虚とはほど遠いものだったんだ。
2012年、アメリカのパーティクル・Mという宇宙物理学者が、各分野の科学の成果を持ち寄って、「自分」の本当の姿を見つけようと世界中の科学者に呼びかけて誕生した the Jigsaw of Myself では、『科学的方法論を用いることによって浮かび上がった真実の自己の姿』といった報告が数々提出されたが、その中に、インドの科学者V・プロトンたちの『24時間夢を見ている脳』という論文があった。
彼自身は考古学と植物学が専門だったんだがね。
これはコペルニクスの地動説並みの画期的な発想の転換だったんだ。我々の現実とは、実は、脳がもう一つの夢を見ている状態だったというものなんだよ。
天動説と地動説の違いというのはどちらが正しいとかいう問題ではなく、宇宙の中心を太陽に設定するか地球に設定するかの違いに過ぎないのだけど、それまでの視点を変えることで、天体の動きをよりスムーズに説明できるようになったという利点があった。
それともう一つ、人間には、あらゆる物事を自分中心、人間中心の檻の隙間から見てしまう傾向があり、そこから見ている限り見えない真実があることを地動説は示唆してくれた。
同じように、現実とは脳の見ているもう一つの夢に過ぎないと発想の転換をしたことで、我々の脳の反応の不可思議な現象までもスムーズに説明できるようになったし、我々人類はやっと、自分たちで作ってしまっていた人間中心の檻の中から解放されたんだ。
それまでの人たちには、夢とは受動的に見させられているもので、現実とは主体的に働きかけているものだという感覚があった。
しかし現実であっても、実は、受動的に見させられていた夢と同じものだったという発想の転換だ。
我々の脳が寝ている時に見るものをドリーム(夢) と言うが、それは脳が視・聴・嗅・味・触の五感からほぼ解放されて自由に泳ぎ回っている状態のことだ。
つまり、通常の夢とは、脳内に貯蔵されている過去の記憶が、五感の入力部である体という実体からほぼ解放された時に、脳内で発生している電気刺激によって浮かび上がるもののことだね。
過去と言っても遠い昔という意味ではなくて、今この瞬間以前の全てのことだ。
人間の場合、過去の記憶とは言葉と互換性のあるものだね。言葉とは、ノートや記憶媒体などに記録されるような固定的で静的なものではなくて、それ自体が電気を発生させる動的な音刺激のことだ。
我々は、言葉という脳内で鳴り響く音刺激に、様々な夢を見させられていたわけだ‥‥」
「えっ、じゃあ、生まれつき耳が聞こえない人はどうなのかしら。その人の脳には夢を見させる音刺激がないわけよね」すかさずマリが質問した。
「うん、いい質問だ。生まれつき耳が聞こえない人の夢は、手話言語が作り出す夢なんだ。彼らの思考も手話言語が作り出しているんだよ。そもそも彼らにとっての文字は、手話言語を形に残したものなんだ。
我々、耳が聞こえる人間だって、文字から直接思考する事はよっぽど訓練を積まない限り絶対に不可能だ。文字を脳内音に置き換えているわけだ。
同じように、耳が聞こえない人は文字を脳内手話言語に置き換えて理解している。
君だって、文章を脳内音に置き換えて理解しそして脳内音で思考しているだろう。
正確に言えば、音刺激が思考を作りだしているだけなんだ。まあ、今の私の脳内では盛んに音刺激が渦巻いていて、それによってペラペラと偉そうにしゃべらされているだけだとも言えるわけだ。ハハハ」
「偉そうに、、、、という言葉は好きじゃないわ。嫌な音刺激ね」マリも笑った。
「話を戻すが、寝ている時に見るドリーム(夢) に対して、起きている時に見る現実という夢のことを、プロトンたちはリモラ・ドリームと名付けた。リモラとは小判ザメのことだね。
通常の夢は、外界とつながっている五感からほぼ解放されて自由に泳ぎ回っている脳が見るのに対して、起きている時に見る現実という夢は、五感の入力部である体に張り付いて泳ぐ脳が見ている夢のことだという意味だ。
簡単に言えば、脳は、コンビニのように24時間営業でひたすら夢を見させられていたということだよ。
精神病や痴ほう症などと呼ばれていた人々の脳は、昔は治療を要する異常な脳と考えられていたんだが、正常などと言われていた人々の脳だって、夢を見させられているということに関して言えばまったく同じことをしていたに過ぎない。
つまり、正常と言われる脳は、ただ、大多数の人と近似した環境の中で近似した夢を見させられているだけで、異常と言われる脳は、脳の神経細胞のリンクが変化することで貯蔵されている記憶のつながりが変化したり、その人の脳を取り巻く環境が変化したりして、見させられる夢の内容が大多数の人と齟齬を生じるようになっただけのことだという理解の仕方に変わった。
よっぽどスムーズで単純で理解しやすくなったんだ。
それまでは脳はその人個人の持ち物だという意識があり、先ほどの精神病や痴ほう症などはその人の脳が不具合を起こしていると考えられていて、治療にしても個人の脳を治すことばかりに目が向けられ大量の薬を処方されたりしていたんだな。
しかし、考え方がスムーズになったおかげで、そのような診察方法をやめたんだ。
脳は決して個人の持ち物ではない。
外界とつながって夢を見させられているものだ。
だから、どこか一つの脳が齟齬をきたしたら、その周囲の全てを治さなければならないということがわかったんだ。
そして人類が個人主義的な環境から脱却した途端、不思議なことに精神病や痴ほう症、それにうつ病などと呼ばれるような人たちがいなくなった。
正確に言えば、病気などと暗く落ち込んでしまう性質のものでなくなったということだ。
要するに、精神病や痴ほう症やうつ病などは個人主義的な環境が作り上げてしまっていた病に過ぎなかったんだね。
周囲の理解を受けて、周囲とつながりやすい脳になったことで明るく生きている人を、それはもう病人とは誰も呼べないだろう!?
だいたい病気という概念すら、個人主義的な環境が作り上げてしまった妄想にすぎなかったんだ。また話がそれちゃったな。私の脳の悪い癖だ」
実際、現代では、年寄りは一様にいつもニコニコしていて、かつての痴ほう症老人のように仮面の張りついたような硬直した顔をしてはいない。
我々の時々刻々 の表情の変化も、環境が作るものだからだ。
現代では、年寄りが歩いていればどこからともなく手をつなぎたがる人が集まってくる。
せかせか生きる必要のない現代の人々には、年寄りのテンポが心地良いのかもしれない。
世界のどこでも見られる微笑ましい光景である。
たとえ老人が筋道の通らないようなことを言っても、自分の脳と同じように、その脳が今の環境の中でそのような夢を見ている状態だ、と知っているのが現代の人々なので、まるで詩を堪能するかのように彼らの言葉に人々は聴き入る。
科学的に自分たちの脳を理解している人々の中では、老人の脳も決して孤独にさらされることはない。そんな彼らの表情が明るいのは当然のことである。
もちろん表情ばかりでなく、顔の造作 や体形、それに体質や性格なども時々刻々の環境が作っていると言える。昔、それらを作っているものは、「氏」か、それとも「育ち」か、といった議論がよくなされた。
「氏」とは遺伝のことで、「育ち」とは生育環境のことである。
しかし、そのような議論をすること自体、大局を見る目が欠けていた。
遺伝とはそもそも環境に含まれるものなのだ。
遺伝子を作ったのも、また、その遺伝子のふるまいを作っているのも、この宇宙という環境なのだから。
1976年、イギリスの行動生物学者リチヤード・ドーキンスが、「我々生物は、遺伝子の乗り物に過ぎない」というようなことを言って、生物の行動は遺伝子に操られているかのような表現をしたが、その遺伝子もまた環境に操られているに過ぎなかったのだ。
「プロトンたちは、ひたすら夢を見ているだけのこの脳内の現象のことを、『実体』である体に対して『幻想』と命名した。
この宇宙に存在する全てのものは実体と呼んでいいわけだが、我々の脳の見る夢、つまり幻想だけはそれとはまったく違う領域に属するもので、我々が何かを認識したり、連想したり、想像したり、思考したり、感情や意思を持ったりすること‥‥これら脳が見ている夢の内容は全て、本質的には実体とはまったく別の次元のことだと言ったんだ。
さっきも言ったように、我々人間の夢は言葉と密接な関係があるが、そのせいで、それまで一つだったこの宇宙の全ての実体から、我々人間だけが切り離されてしまったと言う。
言葉は、人間の脳を、宇宙の全てを知りたいと希求する脳に変えてしまったけど、宇宙の全てを知りたいと求めたおかげで、宇宙の全てから一番遠いものになってしまったということだ。
彼らは、人間を、宇宙という親からはぐれて迷子になってしまった子どもにたとえている。
その事実を理解して、ちゃんと親元に帰るためにも、この脳の作用だけは幻想と呼んで区別することには意味があることだったんだ」
「もう一つ質問があるんだけど。たぶん笑っちゃうような質問だと思うけど、この現実が、脳の見ている夢のことだとしたら、私たちの行動はみんな夢遊病者の行動のようなものなのかしら」マリは自分でも笑ってしまいながら聞いた。
「よくそんな昔の言葉知ってるね。今は夢遊病という言葉は、確か、幼児期の睡眠時遊行適応症状などと呼ばれているはずだ。最近はほとんど見られなくなったが、昔、それとよく似た大人の症状に、レム睡眠時行動適応症状というものがあった。
これは睡眠中に隣に寝ている奥さんを殴ってしまったり、ベッドを蹴っ飛ばしたり、箪笥に頭突きをしたりしてしまう。
これらは自分や周囲の人たちに迷惑をかける点で症状と呼ばれているだけで、考え方としては、まったく君の言う通り、人間の行動はみんな夢遊病者の行動のようなものと言ってもいい。
その環境に置かれたその時の脳の適応の仕方に合わせて、取らされているのが行動だからだね。
ただ、さっきも言ったように、起きている時に見ている現実という夢は、体という実体からの情報に合わせて夢を見させられているので、脳内の幻想と実体である体との連携がうまく取れているというのが、それらの症状とは違う点だね。
起きている時は幻想と実体が連動して、つまり五感などからの情報と脳内の記憶などが休みなくキャッチボールを繰り返しながら、あるいは瞬時に記憶を作り替えたりしながら、自分とそのモノとの距離や関係を常に測りながら行動している。
実は、我々の行動とは、そんな微調整を繰り返しながら行われているんだ。単に、眼の前のコーヒーカップに入った液体をコーヒーと認識し、その距離まで手を伸ばし、適度な握力で取っ手をつかんで口に運ぶだけでも、ものすごく大変なことをやっていたんだよ。
時々測り間違えて、怪我をしたり、場違いなことを言ってしまったりすることはあっても、寝ている時ほどの測り間違えはないので、自分にも周囲にも迷惑をかけないし、互いの意思の疎通も適度にこなせているというだけの話しさ。
我々の意思と言われていたものも、実は、脳にたまたま夢のように浮かび上がる幻想の一つだけど、昔の人々は、意思(意志)というものは個人的能力であるかのように理解していた。
それで個人の意志の力を称賛したりはするけれども、その意志を浮かび上がらせる環境に目を向けたり感謝したりすることもなかった。実はそれはとても傲慢なことだったんだね。
現実とは言っても、それも脳の見ている夢に過ぎなかったというのは、科学がたどり着いた事実だが、その意味から言っても、我々が外界のあらゆるものを歪めて認識してしまっていたのは当然だったわけだ。
認識とは、モノがそのままの状態で脳の中に飛び込んでくるわけではなく、脳の中に貯蔵された言葉とリンクし合って、最も近い言葉に無理やり置き換えられた状態を意味しているわけだものね。
脳が現実を把握する方法は、夢を見ている状態と何ら変わらず受動的で、しかも我々人間はそれを脳内の記憶によって歪めて認識していたということだ。
言葉を持たない動物は、認識などということとは無縁であって、彼らは外界と一体なんだ。
わかるかい?
もう一度言うよ。認識とは、モノが、脳の中に貯蔵された言葉とリンクし合って、最も近い言葉に無理やり置き換えられた状態のことなんだ。
科学の認識においてもしかり。
しかし科学は何度も何度もその不確かな認識を自然界に戻して確認作業をするというだけの話なんだ。
もちろん確認作業をする科学者の行動も、君の言う夢遊病者の行動のようなもので、その環境に置かれた彼らの脳の適応の仕方に合わせて取らされている行動だけどね。
それらのことに気づいた時、人類は、驕りにも似た今までの思い込みから解放された。自分とは、この宇宙の万物とつながって動かされている存在でしかないことを理解したのだ。
それは無力な自分を科学的方法論によって認識したわけだが、同時に、今までの小さな《自分》が宇宙と手をつなぎ、宇宙にまで拡大した瞬間でもある。
つまり、迷子だった人類は、やっと宇宙という親元に帰れたんだ。
今では、当たり前のことだが、我々科学者は自分の意思(意志)で研究をしているとは誰一人として思ってはいない。ビッグバンの風に行動させられている媒体であることを片時も忘れないつもりだ。
それが《科学者の謙虚》というものなんだ。こうして今君の前で話している行為も、外界からの情報により、脳内に貯蔵された言葉という脳内音が刺激され揺り起こされてしゃべらされている寝言のようなものなんだということを忘れない。
ただし外界とつながっている夢だから、外界にも影響を与え得る寝言だけどね。
だから誰も自分の研究を過大評価などしないよ。本体の平和のためにならない研究など、そんなもの糞くらえだ。おっと汚い表現が私の脳に浮かび上がってしまったな。この脳はろくな記憶を貯蔵していないよ‥‥まったく。
もっとも現代では誰もが謙虚な気持ちは持ち合わせているわけだから、わざわざ科学者の謙虚なんて言葉は使わなくてもよさそうなものだが、まあ、科学者というのは自分の研究に没頭するとついそのことを忘れてもっとも傲慢になりやすい立場にいるから、その戒めに残している言葉なのかもしれないけどね。ハハハ」
マリの目が輝いた。
「科学者の謙虚。いい言葉ね。ねえ、モウリ博士分身さん、あなたを誇りに思うわ」
「ありがとう。私も君をとても誇りに思うよ。そして君という分身を育てているこの環境をね。10年間、君は十分世界に貢献してくれた。全世界の分身を代表して言うよ。本当にありがとう‥‥。これから君はどうするつもりなんだい」
「世界を旅してみたいの。私の全身を感じながら生きてみたいの」
「そりゃあいい。今の君はまるで巣立ちをする前の可愛いヒナのようじゃないか!? 思いきっり飛んでおいで。世界は広いが、自我という幻想はそれを一瞬のうちに包み込む‥‥という言葉がある。いや、世界じゃなくって宇宙だったかな。
まあ、いいや。その一瞬を常に感じながら生きるということだね。たぶん、私たちはもう二度と会うことはないかもしれないね。では、フォア・ザ・ピース・オブ・ザ・ティービー!(自分の本体の平和のために!)」
その言葉に、マリはちょっとおどけた様子で右手で敬礼して、にっこり笑って応えた。
「フォア・ザ・ピース・オブ・ザ・ティービー!(自分の本体の平和のために!)」
モウリ博士もにっこりして、ドアを開けて出て行こうとして立ち止まった。何か言い忘れた大事なことを思い出そうとしているかのような仕草に見えた。
その時だ。
今さっき笑顔で別れの挨拶を返したばかりのマリの顔がこわばった。
そして突然、全身がぶるぶると震えてきて、今まで経験したこともないような感情が込み上げてきたのだ。
「大変! どうかしちゃったわ!」
ドアの取っ手を握っているモウリ博士の背中に飛びついて叫んだ。
「わかんない! 体が変だわ?」
目は突然涙で一杯になった。
「これは何? 何なの? あなたが出て行こうとした瞬間、自分の体が引き裂かれるみたいな気持ちになったの!」
モウリ博士はゆっくりと答えた。
「ああ、それはおそらく悲しみというものだよ。我々が今ではほとんど不要になってしまった感情だ。普通とかけ離れた生活をしてきた君だから、突然その感情が目覚めてしまったのかもしれない」
「どうすればいいの? 体がふるえる。ああ、目もかすんでよく見えないわ!」
モウリ博士は笑いながら答えた。
「心配することはないよ。ハハハ、じきに止まるさ。いいかい、これは別れではないんだよ。人類はいつだって一体なんだ。君はそれを確かめに行くはずだったんじゃないのかい?
我々はどこにいようと必ずつながっている。たとえ境界線を持って存在しているかのように見えているこの体が消えてなくなってもね。
私たちは離れれば離れるほど、私たちにとって、自分という意識がそこまで遠く大きく拡大したのと同じことだろう!?
それを喜びと呼ぼうじゃないか。君はどこにいようと決して誰からもはぐれることはないんだよ。安心して飛んでおいで」
モウリ博士はマリの動揺が少し治まったのを見計らってから、彼女の頭をなでて静かにドアを閉めて去って行った。
家を出る前日はほとんど眠れなかった。120パーセントの期待と、120パーセントの不安が交互にやってきた。
10年もの間、折りたたんだままの翼を、今空中で羽ばたかせようとしているのだから‥‥。
両親には「見送らないで」と言っておいた。「普通に学校へ行くように、そーっと出かけたいの」
旅立ちの朝、食事を終えると、父のヒデルは手作りの首飾りを渡した。
旅をした先々で、変わった形や綺麗な色の石を拾う趣味があったが、そうやって集めた石に穴をあけて作ったものだ。
弟のヨマーノフはゴムでできたトカゲの人形をそっと手渡した。
二人がそれぞれ出かけてしまった後、母のミチカは「幸運のおまじないよ」と言って、マリを椅子に座らせ、彼女の髪をとかしながら、細い三つ編みを数本作ってくれた。
それが終わると「約束どおり見送らないからね」と、後ろから強く抱きしめた。マリは彼女のその手をそっと握り返した。
その後、ミチカは自分の部屋へ向かい、そして中に入ってドアを閉めた。
ミチカがいなくなると、マリは自分の部屋に用意しておいた荷物を取りに行き、出がけに外から小さく「フォア・ザ・ピース・オブ・ザ・ティービー(自分の本体の平和のために )」と囁いて部屋の中を見回した。
それから部屋のドアを閉め、玄関に行き、10年間も握らなかったドアのノブに手をかけた。
ドアを開けると旅立ちを祝福するかのような快晴だった。
空は高く空気は澄んでいた。
全身にピリピリと刺すような外気が押し寄せ、強い陽射しにマリは目がくらんだ。
目を閉じて太陽に顔を向け、自然の紫外線を浴びた。
そのまま、自分の本体を感じることに意識を集中してみた。
聞こえてくる様々な音を体内で軋む骨や筋肉の音や、血液の流れる音に聞いた。
しばらくはそうしていた。
やがて、目を開けてサングラスをかけ、大きく深呼吸をして一歩を踏み出した。足取りは軽い。ほんの一週間ほどどこかをうろついてくるような軽装だ。
10年前にはなかった背の高い建物がたくさん目につく。
その向こうから杖を突いた金髪の老女がやってくるのが見えた。
10年ぶりに外へ出て最初に出会う生身の分身だ。
勇気を出して明るく挨拶をしてみた。
「ハイ、分身!」
「ハーイ」
彼女は、サングラスをかけたマリの目を覗き込むようにして、親しそうに笑いかけた。
「あなたのサングラスとても素敵ね。肌の色にもすごく合っているわ。そうそう、頬に絵を描いてあげてもいいかしら。もっと素敵になると思うわ」 老女はそう言うと、マリに杖を預け、上着の大きなポケットからフェイスペイント用の絵の具を取り出してマリの頬に絵を描き始めた。
年のためか少し手が震えているが彼女の技術は確かだった。描き終わると、
「乾いたらシールのように簡単にはがせるわよ」と言って、もう一つのポケットから手鏡を取り出して見せてくれた。
可愛らしいヒヨコの絵が描かれている。マリはすぐにでもその女性に抱きつきたかったが、それをやめて、笑顔で嬉しさの気持ちを表現した。
老女はそれを見ると満足したように、また杖を突いて去って行った。
彼女が見えなくなるまで見送っていたマリは、心の中で言った。「あなたは最初に会った私の分身さんよ。ずっと忘れないわ」
このように、たまたますれ違った人に自分のインスピレーションで飾り付けをしてあげることは、現代では珍しくない。誰もそれをお節介だなどと感じたりしない。
だから自分で作った髪飾りとか、ボディーペイント用の絵具とかを持ち歩いていたりする。
現代の人たちの感覚は、綺麗な人を見ると自分を鏡で見ているのと同じで、いい気持になるのだ。
街を歩くと、着せ替えてもらった自分が今まさにそこここを歩いているので、たくさんいい気持になれる。
彼らがオシャレをする理由は、世界(=本体としての自分)にいい気持をばら撒くためだ。だから、気に入った装飾品や洋服を誰かれ構わずあげたがったりする。
マリの心は有頂天だった。目に飛び込んでくる何もかもが微笑んでくれているように感じられた。道沿いにはお椀形の白い花をつけた木が綺麗に植えられていて、芳香を放っている。その花に向かって挨拶をする。
「ハイ、分身さん! やっと会えたわね!」
花は可愛らしく風に揺れた。
まずは自分の通っていた小学校へ行ってみたかった。その後の行き先は決まっていた。モンゴルで子どもを産みたかったのだ。
そして2064年の8月3日、願い通りモンゴルで元気な女の子を出産すると、その子の額にキスをして言った。
「ああ、かわいい分身ちゃん、もう会えないけど、これで離れ離れになるんじゃないのよ。どこにいてもつながるためなの。そのことを忘れちゃだめよ。あなたはきっと世界にバラの花を降らせるような素敵な分身ちゃんになるわよ」
そして彼女はその時、決心したのだった。自分の産んだ子が二度と自分とは会わないように、自分もまた二度と家族の元へは帰らないと。
その足で世界へ旅立ち、いつしか25年も経ってしまっていたのだ。
どこにいてもつながっていると感じているなら帰る必要もないからだ。
モウリ博士が言ったように、家族や今まで出会った人たちとの距離が離れれば離れるほど、自分の体がその場所まで大きくなるような不思議な気持ちがして嬉しくなるのだ。
彼女は時々思い出すことがある。家を出た日に最初に出会った杖を突いた金髪の老女の姿を。マリの、目に見えない本当の体の境界線は、その場所を起点として今では地球ほどに広がっている。マリはその老女くらいの年になったら、その場所に戻ろうと思っている。
その時、マリの体はこの地球を完全に覆い尽くしているはずだ。そして、その場所に戻って静かに元素に還りたいとマリは思う。体の境界線が地球を飛び出して宇宙になるために。
そして、錯覚ではない自分の本当の体に融け込みたいのだ。1年前に彼女の両親が元素に還ったように‥‥。
5. 1年前、マリは母親のミチカから長いメールを受け取った
1年前、マリは母親のミチカから長いメールを受け取った。
「ヒデの適応症状は、私には手に負えない状態なの。あんまり食べれないものだから痩せ細っちゃってるのよ。それなのにビッグバンの風は、どうしても彼を医者には行かせたくないみたい。彼に、『医者には行かない』と答えさせるだけ。
時々、体のあちこちが痛くなるみたいだけど、その時はしばらく静かに寝ていて、痛みが消えたら起きてきて嬉しそうに話すの。
今、自分の脳を取り巻く環境を痛みとして実感してたんだ、だって。そんな風にして笑わせるのよ。
ハウマーは相変わらず年に1度くらいしか帰ってこないの。
よほどあの島が気に入ったみたいよ。結婚して10年にもなるけど、ビッグバンの風はまだ子どもを運んできてくれないわ。
旅の途中で結婚したヨマーノフだけど、今は電車で1時間くらい離れたところに住んでいるってもう話したわよね。
先日、男の子を授かったって連れてきたの。目はあの子のように青くはなかったけど、とてもかわいい分身ちゃんよ。マリにも見せたいわね。
子どもたちというのは大きくなってみんな離れていっちゃうものだけど、それは自分の分身が、世界というこの自分の真実の体の中で、自分の代わりに活躍してくれている感覚があるからとても楽しいことなの。
でも、あなたの場合はちょっと違う。あなたは私がおなかを痛めた子どもだからかもしれない。ヒデもあなたには特別な思いがあるみたい。
子どもを産んだことのないあなたにはわからないだろうけど、なんて言うか、誰とも共有したくないと感じるような強い愛着をあなたには持ってしまうの。変なものね。昔の人たちがどんな気持ちで生きていたのかが少しはわかる気がするわ。
マリが20年ほど前に家を出て行ったきり、一度も帰ってこないことを責めているわけじゃないのよ。あなたはそのことで、世界に貢献しているわけだから、本当はそれも私たちの本体のためだと思わなければいけないのよね。わかってはいるのだけど‥‥。
ヒデも私も70歳を超えたし、申し出ればいつでも元素に還してくれると思うけど、ヒデは、『痛みというのは環境を実感するいいチャンスなんだ。もう少し環境を実感してから元素に還りたい』なんて冗談言うから、私はそれまで待ってみることにするわ」
マリはメールを読み終えると体がぶるぶると震えてきて、またかつて味わった特殊な感情が突き上げてくるのを感じた。そして、今すぐ二人の元に帰りたいという気持ちが湧いてきてしばらく涙が止まらなかったが、やがてその涙が乾くと返信を打った。
「私の中には弱い弱い生き物が住んでいるの。それは昔の人たちから引き継いでいる生き物らしいわ。でもその生き物をうまく飼いならさない限り、私は他の分身さんたちみたいにうまく生きれないのよ。だから、家には帰らないと決めたの。
ミミにはわかってほしいよ。
少しずつだけど、私は、錯覚ではない自分の本当の輪郭が見えてきているの。離れれば離れるほど、そして時間が経てば経つほど、ミミやヒデのこと身近に感じることができるようになっているのよ」
その約一カ月後、ヒデルが元素に還ったとのメールを受け取った。
葬式ではたくさんの分身が集まってお祝いをしたと書いてある。現代の人たちの葬式は、死んだ人を弔うために行うのではない。人の死を悲しみ悼んだり遺族におくやみを言ったりはしない。
脳の作る錯覚の自我から解放されて生きている人たちにとって、悲しみ悼む理由などどこにもないのだ。
本当の自分はこの宇宙である限り、自分はどこにも消えることはない。
昔は、「肉体は滅びても魂は不滅」などということがよく言われていたようだが、現在では「魂は滅びても肉体は不滅」と言われている。科学的な意味では確かにそれが正しいのだろう。
これは質量保存の法則、あるいは物質不滅の法則のことを言っているのだ。
世界中の人が足し算や九九を習うように、現代ではそれらのことは世界中の人が学校で習う常識である。
肉体は分子に分解されて、植物や動物や人間などの生き物や、あるいはビルや船や机やいろいろなものの一部となるわけだ。そのことを現代の人たちは祝うために葬式を行う。
マリはそのメールを受け取った時、もう涙は出なかった。
感情の高ぶりよりもむしろ静かな安堵感に包まれていた。そして次のような返信を送った。
「ヒデが元素に還ってしまったということは、私から今まで以上にもっともっと離れて、二度と会うことができないくらいに永遠に離れてしまったということだけど、不思議に自分の中では今まで以上に、そう、一緒に暮らしていた時以上に、もっともっと近づいたように感じるの。
その距離こそが自分の体の真実の大きさだと素直に感じられるの。
今、世界中にばらまかれたヒデの分子が、私の上にもキラキラと降り注いで一体になっているのを感じているよ。
私は家には帰らないけどここからお祝いするね」
その数日後、マリは母親からのメールを受け取った。
8人で合同の葬儀を催している最中ということだ。その最後は次のように締めくくられていた。
「ヒデの後を追って今から元素に還るわね。自然界の声に導かれて‥‥。マリと一体となるためにね。じゃあ、フォア・ザ・ピース・オブ・ザ・ティービー(本体の平和のために!)」
いくつかの条件をクリヤーした人同士が集まって行われる合同葬儀に参加したようだ。
人間とは、素粒子という役者たちが、この宇宙という劇場の中で、自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている一時的な配役に過ぎない。
科学的な意味でそのことを知っている現代の人々には、生だけを謳歌したり、死というものに不安や恐怖を抱いたりする偏見はない。無知こそが不安や恐怖を作り上げていたのだ。
合同葬儀は、宇宙とのつながりを強く感じる感動的なアトラクションなのである。
彼らは、元素に還らせてもらう場合であっても自分の意思(意志)で死を選択するとは考えない。たまたま「元素に還らせてもらうことを選択した」などと言ってしまうことはあるが、それは昔の人々から何気なく受け継いでしまった言い回しの癖のようなものだ。
何かを決定したり選択したりするのは個人の意思(意志)ではなく、その脳を取り巻く環境と脳内環境との相互作用によって、その脳の中に浮かび上がるミラード・ウィルである。
言い換えると、自然界の声に導かれたのである。
マリは母親からの晴れやかなメールを読み終えて、目を閉じると、今まで味わったことのないような深い深い安心感が心の底から湧き上がるのを感じた。
死を身近に感じることができるようになったことで永遠の幸福を手にしたのだ。
死とは切り離されることではなく、全ての物とつながることである。脳の錯覚によって切り離されてしまっていたものが、本来の自分に還ることである。
現代では使われることのなくなった言葉がたくさんある。《傍迷惑》、《世話を掛ける》、《お節介》、《自立》、《孤独》、それに、《優越感》、《劣等感》、《妬み》、《恨み》などといった、自他の意識を強く持つ脳に浮かび上がる感覚や感情を言葉にしたものなどだ。
《個性》という言葉も使われなくなった。
個人または個体・個物に向けられていた目は、そのものを取り巻く関係性に向けられるようになったからだ。
そもそも、そのものを作っているのも、そのものに特有の性質を与えているのも、そのものを取り巻く環境なのだ。
環境が微妙に違えば性質も違ってくるのは当たり前で、わざわざ個性的であることを求める風潮もおかしなものだった。それに、その環境に置かれた個人または個体・個物は、どれもが自分たちの分身である、そう考えるのが現代の人々の特徴だ。この宇宙の万物は、自分の環境では経験できないことを、違う環境において経験してくれている自分たちの分身なのだ。
《個人情報》とか《プライバシー》などという言葉も使われなくなった。
これらもまた、個人主義的な環境が、外に警戒すべき敵を作ってしまったために生まれた概念であったと言える。
昔は、個人情報にしっかり鍵をしておかなければ不安で生きていけなかった。しかし、心から安らげる本当の安心は、その鍵を捨て去った先にしかなかったのだ。
《命の尊厳》や《命の重さ》などという言葉も使われなくなったものの一つだ。
人々が「科学的覚醒」を果たして、死を恐怖したり病を忌み嫌うような感覚が消失したと同時に、命は大気のように軽やかになった。
大気は個人の物ではなく、我々を取り巻いてそこにただあるだけのものだ。
大気は奪うこともできなければ捨てることもできない、自然界が作り出している現象である。
科学だけを全ての土台と決めて始めたTBは、命も個人の物ではなく人間には奪うことができるような次元の物ではないと謳っている。
過去であっても、人間同士が命を奪い合ったりしていたわけではなかったのだ。
人間とは、そのような自然現象の中に組み込まれて、媒体となって行為させられているだけの存在だったからだ。
現代の環境が、そのような行為をさせる環境ではないことは言うまでもない。
同じように、かつてはそれこそ何にでも効く特効薬ででもあるかのように
頻繁に使われていた《愛》という言葉も、現代ではほとんど死語になった。昔の人々の心、つまり脳は、常に《愛》という人工の水で潤いを与えてもらっていなければ生きていけないほど、一房一房バラバラにさせられて、カラカラに干涸びさせられてしまっていたのだろう。
6.ルビーは自分の左胸に手をあててみた。
ルビーは自分の左胸に手をあててみた。
心臓が強く鼓動している。
「落ち着かなくちゃ」と頭の中の手話で自分に言い聞かせる。開演まで10分に迫っている。
初めて会う可愛い分身ちゃんたちのことを考えると、ワクワクしたような緊張感で胸が高鳴ってくるのだ。
ルビーを椅子に座らせて髪形をセットしてあげていたレンゲの方は落ち着いている。
鏡越しにルビーの動作を見た彼女は、笑いながらルビーの肩に手を置き、大丈夫よというようにポンポンと2回叩く。ルビーも鏡の中のレンゲににっこりうなずく。
前髪は真っ直ぐ前に垂らし、他の長い髪の毛は一つに束ねて、蝶の形状のアクセサリーで止め、その先はふんわりとボリューム感を持たせて、右肩から胸の前に垂れるような形にするつもりだ。
コスチュームはアラビアン風である。薄紅色のブラとひらひらしたスリーブ、そして裾がすぼまっただぶだぶのハーレムパンツ。
ブラの上には胸元を大きく開いた、肩先を覆うくらいの丈の短い上着を羽織り、ハーレムパンツの上には房飾りのたくさんついた幅広の紫色のベルトを巻きつけている。
上着とベルトにはふんだんにビーズの刺繍が施されている。
レンゲの方はごく普通の身なりだ。
ある小学校の先生が、二人の手品を見てひらめいたと言って持ちかけたシナリオは、ある意味とても教育に役立つものだったので、世界中の小学校からお呼びがかかり、今では二人の巡業の主要な出し物となっていた。
演技はもっぱらルビーが行い、レンゲはマイクを持って演技の解説やルビーの手話やジェスチャーの通訳を担当する。
レンゲにしてみれば、それは自分のやってきた方向性とはまるで違う。彼女は、自分の人生を変化させる環境の力を改めて強く実感する。思い起こせば、自分が奇術師を目指したのも、そのような環境に置かれていたからだ。
そして、手品をやっていたことでルビーという天才に出会い、そのことで今では子供たちを前にしてしゃべらされている自分。環境の海の中で翻弄される小さな媒体。
しかし、レンゲは近頃、子どもたちを前にしゃべる時の明るく伸びやかな自分の声に、自分が何よりも一番魅了されている。
体育館の端に臨時に設けられた舞台の袖で、二人は着替えや化粧をしていた。その外に並べられた椅子には、全校生徒が座って開演を今や遅しと待っている。
チャイムが鳴った。いよいよ時間だ。レンゲはルビーを先に出るように促し、マイクを握り締めた。
ルビーが爽やかな笑顔で舞台に上がると、割れるような拍手が沸き上がった。しばらくその音を聞いてから、レンゲも舞台の端に立つ。
ルビーは手話で挨拶をする。レンゲがそれを同時通訳する。「初めまして。私はルビーです。生まれた時から耳が聞こえないの。だからみんなの拍手も聞こえない。でもみんなの気持ちはちゃんと伝わるわ。ありがとう」
眼の前のテーブルの上には大きな粘土の塊 が用意されている。ルビーは手話とジェスチャーで表情豊かに説明する。
レンゲがそれを通訳する。「みんなが今見ている大きな粘土のかたまりは、この広い広い宇宙なの。ルビーがそれをちぎると、そこから何かが生まれるから、いい、よく見ててね」
ルビーは粘土を右手でちょっとくり抜き、その上にハンカチをかぶせる。
ハンカチの下では何かが小刻みに動いているように見える。20秒ほどしてからハンカチを取り除く、その瞬間、「あっ」という驚いた顔をして、すぐにニッコリと微笑む。
そこには、動物に変身した粘土がある。子どもたちのどよめきが起こる。
「さあ、わかる人!」
レンゲが子どもたちに聞く。
「カメ」「カメ」「カメ」とみんなが一斉に叫ぶ。
甲羅から四つの足を出し、首をギューッと伸ばしているカメの姿だ。甲羅の模様までついている。
レンゲは、「カメ」と叫んでいる子どもたちの言葉をルビーに向かって手話で伝える。
ルビーは、子どもたちに向かって大きく頷く。
そして、カメを右手に持ったまま、左手を高々と上げる。「カメが欲しい人!」とレンゲが叫ぶ。全校生徒が手を上げる。
そのようにしてたくさんの動物を作り、子どもたちに配っていく。
会場が一体となって興奮を作り上げているのだ。最後にはハンカチを捨てて、ちぎり取った二つの粘土を右手と左手で持ち、左右の手で別々の動物が生まれていく過程を見せると、会場の興奮は絶頂に達した。
そのようにして、およそ50体の動物を生み、生徒たちに配った後、ルビーの手話に合わせて、レンゲがしゃべる。
「さあ、たくさんの生き物たちが宇宙から生まれたわね。私たちもこうして生まれたのよ。みんなは元々一つだったの。本当かどうか、もう一度一つに戻してみましょう。みんなに配った動物を元の粘土にくっつけに来てくれるかしら」
せっかく動物をもらえた生徒が、不平を言いながら、それでも言われるままに舞台に登ってきて粘土の塊にペタペタとくっつけていく。最後の生徒が帰った後、それらを元の塊に戻していたルビーは首をかしげる。
「おかしいな。とルビーが言ってるわ。まだ宇宙は元の大きさにならないらしいの。誰か隠している人がいるんじゃないかしら?」
会場はシーンと静まり返り、子どもたちはキョロキョロと周りを見回す。どこからか囁く声が聞こえる。「おい、ナック、早く返せよっ!」
言われた男子生徒は顔を真っ赤にして舞台に上がる。
笑い声が爆発する中、手にしたカブトムシをペタンとくっつけ逃げるように戻っていく。
ルビーはニコニコして手話をする。それをレンゲが伝える。「ありがとう。あなたこそ、本当の勇気を持った誇るべき分身さんよ」
そしてみんなの戻してくれた動物を元の粘土の塊に綺麗に戻していく。
だけどまた、困ったような顔をする。
「あら、まだ帰ってきていない動物がいるそうよ。まだ隠している人、本当の勇気を見せるチャンスよ!」
会場はさっきよりもシーンと静まり返り、子どもたちはキョロキョロするが、今度こそ隠している子どもは本当にどこにもいないようだった。
‥‥とその時、体育館の周りを取り囲むようにして座っていた先生たちの中から立ち上がった人がいた。
「ごめん、ごめん。いつのまにか、こいつがポケットに入り込んでいたよ」
男の先生が掲げたのは、可愛らしいヘビだった。それを見て、ルビーはパッと顔を輝かせて手話をする。レンゲが同時通訳をする。
「まあ、いたずら好きのヘビ君は、先生のポケットの中に隠れちゃってたのね」
そして、粘土の塊をクルリと回して、会場のみんなに裏側を見せる。そこにはヘビの形の穴がぽっかり空いていた。先生は頭をかきながら、手にしたヘビをその形に当てはめてみる。
ピッタリと収まったのを見て、会場から大きな拍手と笑い声が聞こえた。
ルビーは表情たっぷりの手話で子どもたちに訴える。それをレンゲが明るく伸びやかな声で訴える。
「これでやっと私たちが生まれた宇宙が元通りになったわね。たった一つの動物が戻らなくても、それは元の宇宙とは違う形のものだったでしょう!?今、私たちの住むこの宇宙の形は、あなた方の中の誰一人が抜けても、違う形になってしまうの。と言うことはどういう意味かしら?
今のあなたは、この宇宙の一部だけど、でも今、この宇宙を形作っている全部だったということ。
わかるかしら、みんな。それは、この宇宙こそ、私たちの本当の姿だったという意味なのよ!」
数人の子どもがうなずいた。レンゲはもう一度、一段と大きな声で聞く。
「みんな、わかるかなー。私たちはみんなこの宇宙の分身だったのよー」
「ハーイ」「ハーイ」「うん、わかる」「ハーイ」
子どもたちが口々に声を上げる。
その声がやんだ頃、突然、男の先生の大声が響いた。
「プラウド!」
それに合わせて数人の子どもも叫ぶ。
「プラウド!」
「プラウド!」
他の先生たちも叫び、またたくまに全員の声が重なり合う。
「プラウド!」
「プラウド!」
「プラウド!」
連呼は共振することでますます増幅し、体育館の空気を震わせ、地響きのように床を伝わり、壁を震わせる。歓喜の声はいつまでもやまない。
しかしルビーにはただの一人の声も聞こえない。
まるで一面の雪景色のようにシーンとしている。
そこには今しも朝の光が差し込み、キラキラ、キラキラと輝いているかのように見える。彼女には彼らの声が輝きとして伝わってくるのだ。まぶしくて目を細める。
何かを大切に包み込んでいるかのように胸の前で両手を合わせていたが、やがてその何かを放り投げるように、両手をゆっくりとみんなに向けて広げた。心の中で、彼女もきれいな発音でつぶやく。
「プラウド!(あなたたちこそ誇りです)」
子どもたちから届いた輝きはルビーの白い歯に反射している。衣装にあしらったビーズにも反射している。キラキラ、キラキラと。細めていたルビーの目にも光るものが見える。
「プラウド!」
「プラウド!」
「プラウド!」
「プラウド!」
エネルギー保存の法則というものがある。エネルギーというものは、ある形態から他の形態へ変換するだけで、その総量は常に一定不変であり、エネルギーは新たに創り出すことも消滅させることもできないという熱力学第一法則だ。
彼らの声のエネルギーは形を変えて校舎を飛び出し、海を渡り、時を超えてどこまでも届くことだろう。
だから、きっと、100年後のあなたにも透明なエネルギーとなって届いているはずだ。そうやって、我々はビッグバンからのエネルギーを引き継ぎ引き継ぎして、140億年もこの宇宙の中で、ずっとそのようにしてつながってきたのだ。
今この瞬間も、そしてこれから先も、ずっと、、、、、。
(完)
★★★ 関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)
長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。