謝罪にこそ、本質が滲み出る
目の前にいる相手が、失敗や悪さをしでかし、自分に謝罪している…
にもかかわらず、謝ってくれている相手に対して、「は?」と耳を疑ったことありませんか?
昔むかし、付き合っていた彼女に浮気されました。そのときの彼女の言い訳は…
「ごめんなさい。やっぱり…あなたのこと…これからずっと好きでいる自信が持てなくて…」
待て待て待て。俺をさらに痛めつけてどーする。俺のせいか?俺は何のためにこの話を聞いている?
有事の後の、言い訳や釈明って、その人の本音が透けて見えちゃいますよね。たいして悪いと思ってなかったり、謝るポイントがズレてたり…だから当事者にとっては、ますます失望が広がる訳で…
こうした事故は、ビジネスでもしょっちゅう起こる。最も分かりやすいのは、企業の謝罪会見。謝罪した筈なのに、世間の理解を得るどころか、さらに炎上・非難されてしてしまう…
本音や失言を引っ張り出してやろうと待ち構える記者に対し、生半可な準備ではすぐボロが出る。あらかじめ用意してた原稿だけでは歯が立たない。かくして、企業のトップや経営陣の浮世離れした思想や見識が白実に晒され、世間を驚かす事態へ発展する…
あ、直近ではこんなのもありましたね。
取り下げにホッと安心した束の間、その釈明の内容に唖然とした人、沢山いたでしょう…
いやいや。待てって。〝議案の内容には問題はなかった〟って…それを本心で言っているのだとしたら、その方が県民にとって大問題なのですよ。ホントに分かってないのか…この圧倒的な感覚の乖離を。
起こしてしまった出来事は、もう取り返しがつかない。だからこそ、それに対する弁明や釈明は重大。被害者にとっては最後の砦。加害者の自己保身なんかどーでもよくて、1ミリでも理解、納得できるかどうかを見てるってのに。
逆側から考えれば、もし〝やらかして〟しまったとしても、最後の〝釈明〟のチャンスは残されている、ということでもある。それを生かすか殺すかは当人次第。問われるのは「起こしてしまった出来事に正面から向き合い、どれだけ深く省み、どんな対応をとれるか?」
皮肉にも、ピンチの時や失敗してしまった時こそ、人や組織の真価というものは露わになるものだ。