菅原道真公とのゆかり深い「牛」-『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界(第七回)』
「神使」「眷属」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在。
またの名を「使わしめ」ともいいます。
『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界』では、神の使いとしての動物だけでなく、神社仏閣に深い関わりのある動物や、架空の生物までをご紹介します。
動物を通して、神社仏閣の新たなる魅力に気付き、参拝時の楽しみとしていただけたら幸いです。
神使「牛」
今回、ご紹介する神使は「牛」です。
以前お届けした記事の中で、菅原道真公と牛の関係について、また、「北野天満宮」の撫で牛のお写真もご紹介いたしました。
重ねてになる部分もあるかもしれませんが、改めて神の使い「牛」について見てまいりましょう。
菅原道真と牛の深い縁
牛は、菅原道真公(845-903年)をお祀りする天神社の神使です。
道真公は、宇多天皇の側近として活躍し、次の醍醐天皇の代になると右大臣にまで出世を果たします。また、政治家としてだけでなく、和歌や漢詩、彫刻などにも非凡な才能を持った優秀で、才能あふれる貴族でした。
そんな道真公ですが、政治の主導権を宇多上皇(のちの法皇)と道真公から奪還しようとした、時の左大臣であった藤原時平と醍醐天皇の謀略により、昌泰4年(901年)1月25日に太宰府に左遷される「昌泰の変(しょうたいのへん)」が起こります。
太宰府への左遷後は、浄妙院(現在の榎社)で謹慎生活を送っていましたが、延喜3年(903年)2月25日に亡くなります。
道真公の亡骸を、門弟の味酒安行(うまさけやすゆき)が牛車に乗せて運んでいると、牛が伏せて動かなくなってしまいます。これは道真公のご意志(遺言)であるとして、その地に亡骸が埋葬されることになります。この墓所の上に社殿が建立され、太宰府天満宮となります。
道真公は、承和12年(845年)乙丑(きのとうし)の生まれであり、亡くなった延喜3年(903年)2月25日は丑年の丑の日にあたります。
また左遷の折に、時平の命を受けた追っ手が斬りかかろうとすると、一頭の白牛が現れて道真公を助けたという逸話も残ります。
こうした牛との様々な関わりとご縁から、牛は道真公を祀る天神社の神使となったのです。
牛嶋神社
浅草寺とスカイツリーのほぼ中間ほどの隅田川沿いに、珍しい三ツ鳥居と、東都屈指の立派な社殿を持つ「牛嶋神社」が鎮座しています。
この「牛嶋神社」も、牛との関わりが深い神社ですが、道真公の一連の出来事とは別な由来を持ちます。
「牛嶋神社」は、天台座主(比叡山延暦寺の住職)の慈覚大師円仁が、須佐之男命(すさのおのみこと)の化身の老翁からの託宣にしたがって創建したといわれています。
須佐之男命は、神仏習合の神「牛頭天王」と習合され、「祇園大明神」とも呼ばれています。
本連載「第六回」で、「本地仏」と「本地垂迹」について触れましたが、この牛頭天王の本地仏は、「薬師如来」ですが、蘇民将来の説話に登場する神、武答天王の一人息子として姿を現しました。
「牛頭天王」とは、文字通り、牛の頭と、赤い角を持つ異形の神です。
また、文武天皇(701〜704年)の時代に、現在の向島から両国にかけての牛島といわれていた地域に、国営の牧場があったと伝えられていることから、牛との深い関わりがある神社なのです。
撫で牛
道真公をお祀りする天神社には、撫でることでご利益をえられるという「撫で牛」の像が置かれています。
ちょっと変わっているのは、以前、狛犬の起源について書きました記事で触れた、北野天満宮の「赤目の牛」。
道真公が飼っていた牛が、亡くなった主人の帰りを、瞬きをするのも忘れて、いつまでも待ち続けていたので、赤く目を腫らしてしまったという切ないお話が残されています。
各地の天神社には、それぞれ特色あふれる撫で牛があります。天神社に参拝された際には、どうぞ撫で牛に触れてみてください。