神の言葉を伝える人々 〜利他性こそが神と繋がる手段~
高次な存在や、神仏からのメッセージを伝えるという方が非常に多くいらっしゃいます。そして、そうした類の書籍なども大変に売れているようです。
しかし、そういった方々の全てが本当に高次な存在や、神仏とコンタクトを取り、そのメッセージを私たちに伝えてくれているかというと、残念ながらそうではないということも頭に入れておかなければなりません。
神とつながる存在
かつての日本には村々に神仏とコンタクトの取れる「巫覡(ふげき)」と呼ばれる存在がいて、祈祷を行ったり、神降ろしを行って来ました。
「巫覡」という場合は女性ですが、男性の場合は「覡(かんなぎ)」といいました。
新しい命を自身の体に宿すことができる女性は依代(よりしろ)としての役割が従来からあり、神仏をその身に、心に、招き入れる肉体的、精神的素養が備わっていたのです。
巫覡が女性である大きな理由
現代では、女性の地位が向上し、積極的に社会進出を果たし、学歴も高く、企業の重要なポストに就くことも、経営者となることも日常となりました。
しかし、江戸時代までは8割の日本人は農業(林業や漁業も含めて)に従事し、一般庶民の家庭に暮らす女性は子供を産み、次なる労働力の担い手を育てること、そして自らもその労働力の一端を担う存在として懸命に働いていており、学問を習得出来るのは、武士や商人といった一部の比較的裕福な人々のみでした。
そうした学問を習得することが出来ない、文字を読めない女性たちが「巫覡」として神降ろしを行い、祈祷を行い、予知を行っていた背景があります。
何故、彼女たちは「神仏」とコンタクト出来たのでしょうか。そのファクターは「学問や知識の有無」と「人としての純度、純粋さ」にこそあります。
徹底して神の依代(よりしろ)、入れ物、容器として、その役割を全うしなければならない為、学問や知識などは邪魔になってしまうのです。
また人や物事を疑ったり、決め付けたり、斜めから見てしまうような心の澱(おり)があれば、神仏は自らのメッセージを安心して伝えられません。
神が懸かかった際に、学問や知識があると、神が伝えたことを後から合理的に解釈しようとしたり、疑ってしまうこともありますし、神が懸かって伝えた内容を自身の利益の為だけに使って私腹を肥やそうという考えを持つ場合もあります。
学問や知識があるが故に、神を利用したり、裏切ったり、自身の損得や名誉欲、物欲のために使ってしまうことに繋がります(勿論、そのようなことを行えばそれ相当の報いも受けることになるでしょう)。
神はこれを嫌って、純粋無垢な学問や知識のない、文字も読めない女性を、その依代(よりしろ)としたわけです。
テレビメディアや、ネット上、出版界、スピリチュアル業界には、高次の存在、神仏と交信をすることが出来るという方々が非常に多いですが、そうした観点から言えば、本当に神の依代(よりしろ)足る人物が、そこにいらっしゃるとは到底思えません。
依代(よりしろ)足る人が、パソコンやネットを駆使して自身の存在を知らしめようとはしないはずです(パソコンやネットを駆使出来る現代人特有の能力があること自体が、神が懸かる依代としての資格を失ってしまう理由ともなります)。
また、原稿を書いて書籍を出版することもないでしょうし(文字の読み書きが出来ている時点で、学問や知識があるということになります)テレビで流暢に自身の能力について語るようなこともしないはずです。
現代社会で手放してしまったもの
一般の方は「私は神の声が聞こえる」「私は神と話せる」という人物の話をいとも簡単に信じ込んでしまいます。
その容易に信じ込んでしまう精神的な脆さ、弱さ、不安を神仏ではない低級な霊達が利用するという側面も非常に多いのだということも付け加えておかなければなりません。
「神と話せる」という方は、実際に「神(と見まがう存在)」とお話をしているのかもしれません。しかし、それが本当の神であるかは私たちにはなかなか判別がつきません。
「神と話せる」と主張される方の目に映っている存在は何なのでしょう。
時に、それは「神」ではなく、「低級霊」であるのかもしれません。
「低級霊」は、あたかも自身を神のように偽り、振舞って「霊を感知することの出来る一般の人」を信じこませ、「神とコンタクトを取っている」ということを周囲に吹聴、喧伝させて、それを経済活動に結びつけていきます。
「低級霊」と「霊を感知することの出来る一般の人」が持ちつ持たれつで、利益が一致して結びついてしまうということもあるのです。
「低級霊」は人の不安や恐れを欲しています。そして自分が持っている能力で一時的な経済的潤いを人に与えることが出来ます。
「霊を感知することの出来る一般の人」は、従来から自分の中に社会や他者に対する疎外感や、劣等感、苛立ちや葛藤を持っています。
これを払拭するためには自身が社会的に認められることや、賞賛を受けることや、受け入れてもらえることを求めます。
また、人は自身の人生に一抹の不安を抱えた時に「神の声が聞こえる人」を信じ、その力にすがろうとしたり、その知恵を自分に取り入れようとします。
ここで「低級霊」と「霊を感知することの出来る一般の人」、そして「神の声にすがりたい人」が繋がってしまうのです。
現代社会に、もはや真に神仏と語らい、そのメッセージを私たちに伝え、我欲を捨て無私に徹し、利己的ではなく常に利他的であり、人のためだけではなく世界や日本の平和、安寧を祈り、願うという方は存在し難い、そんな虚無感を抱えた時代なのだということを肝に命じておかなければなりません。
それは、私達が現代社会において誰しもが一定の学問を修め、読み書きが出来るという時代に育ったことで、手放してしまった側面でもあるのです。
「神が見える」「神と話せる」という方は非常に多くいらっしゃいます。
そうした方々が「実際は神が見えず、神と語らえない」にも関わらず「見える」「話せる」ことを誇示しているとしたらどうでしょう。
「神が見える」「話せる」という付加価値を身に纒わなければ、自分に存在意義を見出せなかったり、周囲の人達や社会との接点を見出せずに、足掻いておられるとしたら。
自分を少しでも高い位置に置き、自分と人とが違うことを声高にアピールをしなければ生きている実感が持てないとしたら、それはそれは悲しいことです。
現代の巫覡(ふげき)
現代社会でも、最近まで本物の「巫覡(ふげき)」が神のメッセージを伝えて多くの方の悩みを救っておられました。
中井シゲノさんと、砂澤たまゑさんです。残念ながら今ではお二人とも亡くなられています。
中井シゲノさんは大阪の安居天神の境内にある玉姫稲荷社を守る「オダイ」でした。
「オダイ」とは「お代」「お台」とも書き伏見稲荷の眷属神の依代となって、神の声を伝える人を指します。
19歳で農家に嫁いだシゲノさんは、22歳で不慮の事故で失明してしまいます。
やはり「オダイ」であった大叔母について修行をしていたシゲノさんは、ある日滝行をしている時に「白高大神」という白狐が降りて来て、シゲノさんを「オダイ」として選んだことを伝えます。
この中井シゲノさんの人生についてはフランス国立極東学院教授のアンヌ・ブッシィが「神と人のはざまに生きる―近代都市の女性巫者」という著作にまとめています。
もう一人の砂澤たまゑさんは、一昨年出版された「お稲荷さんと霊能者」、「お稲荷さんと霊験譚」、近著「お稲荷さんと御利益」(共に内藤憲吾著)によって、その存在は多くの方に知られることとなりました。
しかし、実際はそれより以前に「霊能一代」という著作が発表されていました(著者は砂澤たまゑさんとなっていますが、実際に執筆されたのは内藤憲吾さんです)。
砂澤たまゑさんは、伏見稲荷の分社である内記稲荷神社の神職を勤めつつ、「伏見稲荷大社公務本庁 三丹支部」の支部長でもあり、稀に見る優秀な「オダイ」でした。その不思議な力の一端は上記の書籍で確認出来ます。
中井シゲノさんは失明をして盲目であり、砂澤たまゑさんは読み書きが苦手でした。お二人ともこうした部分でも、神の依代として選ばれる素養が十分であったといえるかもしれません。
このように「神仏」とコンタクト出来る人物が多くいる世の中というのは、言うなれば人を思い、人のために我が身を捧げる利他主義の生きている素朴な時代です。
しかし、残念ながら現代は「個」や「消費」を重視する利己主義の時代です。このような時代には、そうそう「神と対話出来る」人物は現れにくいのです。
「神と話せる」ことよりも「利他性」に目覚めること
「神」は依然として存在し続けているが「神」の「依代」足る人物が不在の世の中が今なのです。
そんな時代だからこそ、社会情勢や政治は混沌とし、人々や国同士が争います。また、人の心も荒み、他者の心を想像出来ないのです。
「神の声が聞こえる」「神と話せる」そんな自己アピールを信じるも、信じないも、ご自身次第。
「神と話せる」人物を容易に信じてしまう前にすべきことは、自分が誰かに優しく出来ているか、気持ちを察してあげられているか、思えているか、愛してあげられているかを確認する作業なのではないでしょうか。
「利他的」であることが、神仏と繋がる唯一の手段なのですから。