善と悪の顔をもつ異界からの使者「鬼」 - 『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界(第二十七回)』
「神使」「眷属」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在。
またの名を「使わしめ」ともいいます。
『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界』では、神の使いとしての動物だけでなく、神社仏閣に深い関わりのある動物や、架空の生物までをご紹介します。
動物を通して、神社仏閣の新たなる魅力に気付き、参拝時の楽しみとしていただけたら幸いです。
神使「鬼」
今回の神使は「鬼」。
動物というわけではありませんが、ここでは神仏に仕え、また時には神としても祀られる霊的な存在(特殊な生き物)として鬼を取り上げてみたいと思います。
鬼といえば、記録的なヒットととなった『鬼滅の刃・無限列車編』を思い出される方が多いのではないでしょうか。
なんでも興行収入は400億円を突破し、日本歴代興行収入第1位、2020年の年間興行収入でも世界第1位を記録して、大きな話題となったのは記憶に新しいところです。
『鬼滅の刃』は、家族を斬殺された主人公の竈門炭治郎が、唯一生き残ったものの鬼に変えられてしまった妹を人間に戻すために、鬼との戦いに身を投じていく物語です。
では、伝承に残る神仏と関わりのある鬼には、如何なる物語があるのでしょうか。
「鬼」の起源
鬼といえば、頭に角を生やしていて(時に2本であったり、1本であったり)、口元からは鋭い牙が見え隠れし、手には金棒を持ち、虎の皮の腰布を巻いている、そんなイメージが真っ先に浮かびます。
このようなイメージは、京の大路を練り歩く妖怪たちを描いた室町時代の『百鬼夜行絵巻』などが原型となっています。
中でも最も古く代表的な作例である京都・大徳寺塔頭「真珠庵」蔵の土佐行秀の筆による絵巻では、赤い肌に尖った針のような髪の毛をした鬼の姿が描かれています。
また同じく、京都の大江山に住む酒呑童子(しゅてんどうじ)と呼ばれる鬼を源頼光と家来の四天王が退治する物語を描いた『大江山絵詞(『大江山酒天童子絵巻』)』、狩野元信(狩野派二代目)の筆によるサントリー美術館蔵の『酒伝童子絵巻』(*こちらは伊吹山が舞台となっています)では、恐ろしげな鬼の姿が描かれています。
どちらも室町時代の作であるため、現在私たちが知っている鬼の姿が成立・定着したのは、この頃と見て良いでしょう。
古文献の中の「鬼」
鬼の外見が定まったのは室町時代頃ですが、それ以前から鬼の存在は知られていました。
鬼が文献に初めて登場するのは『日本書紀』です。
『巻第十九』欽明天皇5年(544年)12月の出来事として以下のような記述があります。
ここでいう「粛慎人(みしはせひと)」とは、かつて日本の北部に住んでいた北方民族(オホーツク海沿岸や樺太などに住む民族)を指しますが、このように海を渡ってやって来た渡来人や異民族の人々を鬼と表現していたのかもしれません。
次に鬼の記述が見られるのは『第廿六』斉明天皇7年(661年)の出来事。
ここには、斉明天皇が朝倉宮で崩御した際、その葬儀を執り行っていたところを大笠を着た鬼がのぞき見ており、参列していた衆人がその奇怪な光景を目撃したと書かれています。
田舎の道端などで見かけるお地蔵様に笠や蓑が着せられていることがあります。これは、お地蔵様が風雨にさらされるのがしのびない、可哀想だからという地域住民の信仰心や、慈愛の心によるものでもあるのですが、それ以外に "穢れを避ける物忌みの衣" という意味も含まれます。
また、笠や蓑は異界からやって来る来訪神(1年に1度決まった時期にだけ異界から訪れる神のこと)のユニフォームのようなもの。
秋田のナマハゲ、甑島のトシドシ、佐賀のカセドリなどは、笠や蓑を着ています。異界から長い旅の果てにやって来て、集落や家々を周って福を授け、災厄を祓う民族信仰は、古来より今に続きます。
斉明天皇の葬儀の場に現れた鬼も、そんな来訪神の1人だったのかもしれません。
天平5年(733年)に編纂された『出雲国風土記』の大原郡阿用郷の条には、一つ目の人食い鬼が登場します。
その昔、阿用郷といわれるところに目一鬼(まひとつおに)が現れ、村の男を襲って食べました。男の父と母は竹藪に身を潜めて、息子が食われているのを見ていました。男は食われながら、竹の葉が微かに動いていることに気づき、両親に見捨てられていると悟って「あよ、あよ」と泣いたといいます。
それが「阿欲(阿用)」という地名の由来となったのです。
また、平安時代以降に広まった「六道絵」といわれる地獄絵図に描かれた、罪人の亡者を苦しめる役鬼(えんき)と呼ばれる鬼たちの姿も、多くの人々がもつ鬼のイメージ形成に一役買っているでしょう。
「鬼」の語源
平安時代中期の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、鬼の語源は「隠(おん・おぬ)」が訛ったものであるとされています。
鬼は、「見えない存在」「普段は隠れて姿を現さない存在」なので俗に「隠」といい、これが「鬼」へ転化していったものと考えられます。
中国などでは鬼といえば、「死者の魂」を意味します。その中でも、成仏できずに現世に残っている魂を鬼と呼んでいます。このことから台湾では心霊スポットのことを「鬼屋(おにや)」といいます。
他にも、生きている人を「陽」、亡くなった人を「陰」とし、「陰」が転化したものとする説や、神を守護し使える精霊「大人(おおひと)」が由来であるとする説などもあります。
また、鬼という字を「おに」と読み始めたのは平安時代以降からで、それ以前は「もの」「かみ」「しこ」と読んでいました。
古史古伝として有名な『九鬼(くかみ)文書』も、鬼を「かみ」と読みます。
節分に豆を撒くのはなぜ?
「普段は隠れて姿を現さない存在」こそが「鬼」であるということ、そして「隠」が「鬼」の語源となっていることが分かりました。
まだ科学の発展していない時代には、疫病や農作物の不作、地震や台風、水害などは神の怒りや、鬼の仕業だと考えられました。
室町時代に編纂された辞典『壒嚢鈔(あいのうしょう)』によれば、節分の夜に豆まきを行うようになったのは宇多天皇の時代(867-931)であるとされます。
ここには、京都・鞍馬山の僧正が谷と、深泥池の方丈の穴に住む藍婆揔主という二頭の鬼神が都へやって来て暴れるのを毘沙門様にご教示で、鬼の住む穴をふさいだ上に、三石三升の大豆を炒って投げつけ、鬼の目をつぶして難を逃れたことも、併せて書かれています。
豆には「魔を滅する」という意味があり、生の豆を使うと「芽」が出てしまうため、「悪い芽を摘む」という意味で、炒った豆を使うようになったという説があります。
「豆を炒る」を「魔目を射る」、つまり「鬼の目を射る」という意味合いも含まれています。
鬼はなぜ角を生やし、虎柄の腰布をつけているのか?
そもそも、鬼はなぜ角を生やし、虎柄の腰布をつけているのでしょうか。
邪霊や、鬼神が出入りする方角を「鬼門」といい、古の人々はこの鬼門を忌み嫌い、様々に工夫を凝らして鬼門封じをしたほどです。
この鬼門は、北東で「艮(うしとら)」の方角にあたります。艮は干支に当てはめると「丑」と「寅」になります。
そう、この「丑(牛)」が角のイメージに、「寅(虎)」が虎柄の腰布のイメージにつながるわけです。
一方の、南西は「坤(ひつじさる)」で、鬼門同様に不吉とされる「裏鬼門」にあたりますが、この申から時計回りに見ていくと「申(猿)」「酉(鳥)」「戌(犬)」と、桃太郎の鬼退治に同行した3匹の動物に重なります。
鬼(鬼門)に対抗するため、反対側の方角に位置する動物によって対抗しようとしたのです。
青森の鬼神伝説
東北地方には数々の鬼神伝説が語り継がれています。
鬼神とは山の精霊であるとともに、荒ぶる神としての性質も併せ持つ存在です。
青森県弘前市にあるのは、その名もズバリ「鬼神社」。
その昔、弥十郎という農民が岩木山中の赤倉沢で鬼と出会い、親しくなりました。弥十郎と鬼はそれ以来、毎日のように力比べをしたり、相撲をとったりして遊んでいました。
この鬼は弥十郎とある約束を交わしていました。「自分のことを村の者に決して言わないように」と。
弥十郎は水田を耕して暮らしていましたが、開墾したばかりの水田はすぐに水が枯れてしまうので作物ができずに困り果てていました。
そんな弥十郎の困った姿を見ていた鬼は、何とか村人たちの役に立ちたいと一夜にして赤倉沢上流のカレイ沢から水路(堰)を村まで通し、水田に水を引いてくれたのです。
村人はこれを大変喜び、この水路を「鬼神堰」「さかさ堰」などと呼んで鬼に感謝しました。
しかし弥十郎の妻は、鬼が水路を引いている様子を見ていたのです。自分の姿を弥十郎以外に見られることを嫌った鬼は、水路を作る時に使っていた鍬とミノ笠を置いて去り、2度と弥十郎のもとに現れることはありませんでした。
弥十郎は鬼との約束を果たせなかったことを悔やみ、この鍬とミノ笠を祀ったのが鬼神社の始まりです。地名もそれまでの「長根派(ながねはだち)」から「鬼沢」に変わりました。
この心優しい鬼を祀った「鬼神社」の鳥居の扁額の「鬼」の文字には「ノ(つの)」がありません。善良な鬼に、角は必要ないということなのでしょう。
鬼鎮神社
鬼を祀る神社は、全国に見られます。
埼玉県比企郡の「鬼鎮神社」は、地元の住民に「鬼鎮様(きぢんさま)」と呼ばれ親しまれています。
この地には、こんな伝承が残されています。
昔、ある刀鍛冶のところに若者が弟子入りをしました。この若者はたいそうな働き者で腕も良く、親方も大変期待をする担い手となっていきます。
ある時、若者は親方の娘を嫁に欲しいと言ってきます。親方は、若者の娘に対する気持ちを確かめるため「1日で刀を100本作ることができたら娘を嫁にやろう」と提案をするのです。
それに応じた若者は、さっそく凄まじい形相で一心不乱に刀を打ち始めます。するとそのあまりの気迫に若者の姿は、鬼に変わってしまうのです。物陰からこの光景を見ていた親方は驚き、既に夜が開けたと錯覚させるために鶏を啼かせました。
親方が作業場に入ると、そこには打ち終えた99本の刀と、槌を握ったまま息絶えた若者の姿があったのです。
それを哀れんだ親方は、若者を埋葬し、そこに「鬼鎮様」というお宮を建てて祀ったのでした。
鬼のミイラ
大分県宇佐市四日市という地区に「十宝山大乗院」という真言宗の寺院があります。
108段の長く急な階段を登った先にあるのが、本堂。この本堂の中に「鬼のミイラ」が安置されています。
こちらに初めて伺ったのは、今から30年ほど前。今では立派な装飾が施された厨子に納められていますが、以前は写真のように簡素な作りの厨子にお祀りされていました。
鬼のミイラは、膝を曲げて座ったかたちで安置されており、座った状態で1.4m、立てば2mはあろうかという大きさです。顔は異様に長く、逆三角形をしており、頭蓋の両端には角も見て取れます。
この鬼のミイラが大乗院へやって来たのは、昭和4年頃。
ある家に所蔵されていたミイラを大乗院の檀家のお一人が5500円で購入したのが、大正15年。しかし、この檀家の手元にミイラがやって来てからというもの、原因不明の病に冒され床に伏す日々が続きます。
これはきっと鬼の祟りに違いないと、檀家は大乗院へ寄贈して丁重に供養してもらうことにします。すると途端に病は消え失せてしまうのです。何でも大乗院の当時の住職は、この鬼を見るなり「幼い頃に山で出会った鬼に違いない」と言われたそうです。
鬼はきっと、大乗院に帰って来たかったのでしょう。それからは大切に祀られ、仏として檀家を見守っています。
この鬼のミイラは九州大学において学術調査も行われており、女性の人骨であること、一部に動物のものと思しき骨も混在していることが分かっています。
ご紹介している写真は30年前当時、管理者の方の許可を得て撮影したもの。現在は、常時自由に参拝が可能ですが、撮影は禁止とのこと。皆さんも1度、鬼のミイラに会いに行ってみませんか?
東霧島神社
鬼が霧島の神に願をかけるため、一夜にして積んだ「鬼岩階段」。この石段を振り向かずに上りきると願いが叶うといわれています。
鳥居の横には、巨大な鬼の像が迎えてくれます。
そして長い石段を登った先には、社殿が。
人を食う鬼に、人を献身的に愛する鬼。
鬼には「善と悪」の二面性があります。また、そこが魅力的でもあります。私たち人間も「善の心」と「悪の心」の両方をもち、その相反する心と日々向き合いながら懸命に生きています。
鬼という存在は、そんな私たち人間の写鏡のような存在なのかもしれません。
そう考えると、鬼の恐ろしげな形相の中に、人間味のある物悲しさを感じるのです。