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✅礼拝メッセージ「私たちの列に並ばれる主イエス」新約聖書 マタイの福音書第3章13~17節

✴️遅くなりましたが先日2023年1月8日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✅礼拝メッセージ「私たちの列に並ばれる主イエス」
新約聖書 マタイの福音書第3章13~17節

13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
14しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
15しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
16イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 
 まず初めに、こちらの画像をご覧ください。
 これは、「炊き出しの列に並ぶイエス」という題の木版画ですね。フリッツ・アイヘンバーグさんという芸術家の作品です。この作品に対してある牧師先生がこんな文章を書いていらっしゃいます。
 
木版画で線の荒い削り。背景は何も描かれていません。
よれよれのコートを着込んだ男たちが一列に並んでいて、皆下を向いています。
コートの襟を立てたり、ポケットに手を突っ込んだりしていて寒そうです。
マントを羽織ったイエスも列に並んでいます。
そして、イエスの後光がぼんやりとその列に並ぶ男たちを寂しそうに照らしています
 
 ということですが、この木版画が有名になったきっかけの一つが、カトリックの本田哲郎神父という方が、『釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に~』というご著書の中で、これを表紙にしていらっしゃるからです。以下本田神父様のことばを引用してみますけれども、
 
 「作者のアイへンバーグさんは、芸術家の鋭い眼で、いったい神さまはどちらの側にいるんだろう、
炊き出しをする側なのか、それともそれを受ける側か、
ということを考え、そして表現しています。
普通ならボランティアする側、助けてあげる側、お手伝いする側に、神さまがはたらいておられる、
とイメージしてしまう。
しかし、彼は『そうではない。神さまはむしろ、手助けを必要とするまでに、小さくされてしまっている仲間や先輩たちと共に立っておられるんだ』と見抜いたのです」
(「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に」本田哲郎著 岩波書店)。
 
 ということですね。もちろんこれは、私たちに、大きく視点を転換することを促してくれます。教会がよく炊き出しをしたり、そういうボランティアをすることがあるので、でも、それは時に上から目線になってしまいやすい。教会が助けるんだから、教会の側に、神さまがおられて、私たちはイエス様の手となって、彼らに手を差し伸べるんだ、という視点に立ってしまいがちなんですけれども、本田神父様は、それは違うんだよ、ということを呼びかけている。
 これは私たちもよく心得ておいた方がよいことでして、今、私たちは、別にホームレスになってはいないけれども、生まれた境遇やそのほか様々な要因によって、私がそうなっていたかもしれない。どうして、あなたは、私の代わりになってくださったのですか?という神谷美恵子さんのことばではないんですけれども、そういう視点ってとっても大事なんですね。というのも、社会がどういう人をその社会の周縁に追いやるかというのは、時代やその社会の価値観によって変わるものに過ぎない部分があるからですね。
 
 さて、今日は「私たちの列に並ばれる主イエス」というテーマがこの今日のみことばに浮かび上がっているわけですが、まぁそういうことで、このテーマから、弱者と「されている」人々を「支援する」というより「共に生きる」時に、上から目線ではなく、この列にイエス様はおられるのだ、と目線で、ボランティアや支援活動をしましょう、というふうに、すぐ、まぁある意味で、善行、善い行ないの時の心構え、という話に行ってしまいそうになるんですけれども、そうなる前に、むしろ、この今日語られたみことばにくっきりと立ち現われている「私たちの列に並んでくださったイエス様」という神さまの現臨に触れて行きたいと思うわけですね。それはもちろん、今収入や資産が高いとか低いとか、そういうことは関係無しに、苦しみとか、悲しみとか、みじめさとか、挫折とか、そういったものを味わってきた私たちの列にイエス様が今並んでくださっている、ということを深く味わって行きたいと思うわけですね。
 
 さて、今日ご一緒に聴きました神のみことばは、バプテスマのヨハネ・洗礼者ヨハネの話の後半なんです。前半は、記憶に新しいかもしれません。昨年の待降節の時に朗読されました。バプテスマのヨハネは荒野でいなごと野蜜を食べて、らくだの毛衣と皮の帯という、昔の旧約聖書の預言者エリヤさんとそっくりな格好をして、それこそ口から火の出るような激しい説教をしたわけですね。「悔い改めよ」「お前たちの根本に斧は置かれているぞ」切り倒されるぞ、という意味ですよね。それほど神のさばきは近づいている。まもなくメシアが来られるが、メシアの到来とはそういうものだ。この方は手に箕という農機具を持ってこられる。そして悔い改めの実を実らせていない空っぽの殻は、消えない火で焼きつくされるぞ。そういう厳しい裁きの説教をしたわけですね。そうしていたら誰も来なくなっちゃったというとそうではなくて、続々とユダヤ中から人々がやってきて、猫もしゃくしもヨハネから、ヨルダン川で悔い改めの水の洗礼を受けたわけですね。
 ところが、前の説教でもお話いたしましたが、ヨハネがある意味で預言しきれなかった部分があると言ってもよいと思いますけれども、領主のヘロデアンティパスを批判したことで、牢屋に入れられてから、―長く牢屋に入れられていると疑心暗鬼になってきて―イエス様を少し疑ったんでしょうか?ヨハネは牢屋の中から自分の弟子を遣わして、イエス様のもとに行かせて「おいでになるはずの方―つまりメシア―はあなたですか?それとも私たちは他の方を待つべきでしょうか?」と尋ねさせるくらいなんですね。
 というのも、ヨハネのメシアのイメージは厳しい審判者、さばき主、だけれどもイエス様の活動というのは、人を癒したりと奇跡を行なっているみたいだけれども、罪びとと呼ばれるような連中と一緒に食事をしたりして、「あのイエスという男は食いしん坊の大酒のみだ」という噂まで、牢屋の中でも耳に入ってくる。メシアと言えば、領主ヘロデの悪事も裁いて、ついには反乱軍を組織して、ユダヤ人にとっては巨悪の憎っくきローマ帝国もやっつけてくれるはずではなかったか?そんな具合で思っていたわけでありますが、ところがイエス様はいつまで経ってもそうなさらない。それはバプテスマのヨハネが誤解していたと言いますか、イエス様は確かに正しい裁き主、限りなく正義の方ですが、同時に、限りない愛の方、神のいつくしみと峻厳さを見よと聖書にありますが、最高の厳しさと同時に、最高の愛といつくしみを持ってこられたメシア、救い主として来られた、このメシアであるイエス様の、罪びとに対する無限の愛といつくしみ、というのをヨハネは見落としていた、と言っていいでしょう。
 ですからイエス様は、とことんまで、私たちの立場に立ってくださって、それこそ洗礼を受けに来た民衆の列に並ばれたんです。ですからヨハネもびっくりして恐縮してしまった。14節、
 
14しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
 
 ヨハネは、もちろんイエス様と親戚ですので以前に会ってはいたと思うんですけれども、ヨハネはその荒野で祈りに明け暮れて研ぎ澄まされた鋭い感性で、列に並ばれるイエス様を目の当たりにした時に、その聖なる方のうちに秘めた力を感じ取って、もしかしたらひざまずいたり、ひれ伏したかもしれません。確かにこの方の背後に神がおられる、と。そして、ヨハネは謙遜でしたね。(高慢だったから偉そうに裁きの説教をしていたわけでは無くて)天の父なる神の前に謙遜だったからこそ、神を本気で恐れるからこそ、本気で人々に厳しい説教をしていたわけですが、ここでイエス様に対しては、「イエス様とんでもない。私の方があなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って、始めはイエス様に洗礼を授けることを拒むわけですね。しかしイエス様は「今はそうさせてもらいたい」と言って、ヨハネから洗礼をお受けになりました。そして16節17節、
 
16イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
 
 と。ここに、見よ、と言って、マタイは読者に注目させているんですね。むしろ本来の意味からしたら、「さあ!」とか「ほら!」の方が近いんですけれども、ほら!神の御霊が鳩のように降って来た。そしてほら!天から「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という声があった!と、当時のユダヤ人にマタイは宛てて書いていますから、驚きをもって注目してくださいよ!と生き生きと描いているわけですね。聖霊なる神が下りて来られた。そして父なる神の声がした。まさにここに、三位一体の神がご自身を現されているんです。
 そしてさらには、マタイはユダヤ人に宛ててこの福音書を書きましたから、ユダヤ人である読者は、ここで、天の父なる神のことばを、すぐ、旧約聖書のあそことあそこ!とピンと来て分かったわけですね。ユダヤ人はいつも旧約聖書のことばを暗唱していますから。詩篇第2篇7節とイザヤ書第42章1節の組み合わせです。
 
新約聖書 詩篇第2篇7節
 「私は主の定めについて語ろう。
 主は私に言われた。
 『あなたはわたしの子。
 わたしが今日 あなたを生んだ。
 
旧約聖書 イザヤ書第42章1~3節
1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、
わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々にさばきを行う。
2 彼は叫ばず、言い争わず、
通りでその声を聞かせない。
3 傷んだ葦を折ることもなく、
くすぶる灯芯を消すこともなく、
真実をもってさばきを執り行う。
 
 両方ともメシア預言と呼ばれることもある、やがて来られるメシアとは、こういう方である、ということを語っています。
 詩篇第2篇の方は、王の即位式に歌った歌と言われていますが、同時にやがて来たるべき王であるメシアを表している歌です。そして、イザヤ書第42章というのは、苦難のしもべであるメシアというのを表しています。つまり、確かに世に来られるメシアという方は、力強い王であられるけれども、しかし、しもべとして究極にへりくだった方である、ということなんです。つまり、もっとも低いところに降りて来てくださった方である。だからこそ、低い立場に立って下さった方だからこそ、愛をもって治める方である、ということです。
 
 そこで、イエス様が、本来はご自身は罪の無い者であったにもかかわらず、私たちの罪びとの列に、一緒に並んで、洗礼を受けてくださった、ということは、一つは罪びとである私たちに寄り添うため、連帯するためです。そしてもう一つは、私たちの見習うべき模範として、そうしてくださった。ある意味で、イエス様は、このヨハネの洗礼の悔い改めの意味に加えて、イエス様の死と復活にあずかる、一体化する、という意味を加えてくださったんですね。(ここにいらっしゃる皆さんは洗礼を受けていらっしゃいますね。)洗礼を受けた時に、滴礼でも浸礼でも、ここまで水が来て、イエス様と共に死に、イエス様と共によみがえる、ということが起こったんです。ですから洗礼式はお葬式であり、誕生日、新しい霊の誕生日であるわけですね。
 
さて、15節をもう一度見てみたいと思いますけれども、
 
15しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
 
 というイエス様のことば、これは、単に恐縮して遠慮するヨハネに対してイエス様が「まぁそう言わずに洗礼やってよ」と説得しているだけのように見えますけれども、この「わたしたちには」ということば、これは、ヨハネとイエス様、の2人、という解釈があります。けれども、そのイエス様とヨハネの2人、と解釈すると、そののち、イエス様の死と復活、そして昇天とその後、まで見ても、何が2人にとってふさわしかったのか?という疑問が解けないわけですね。ですから教会では昔から、この「わたしたち」という意味は、このみことばを聞く私たちを含むという解釈が行なわれてきました。さらにもっと言えば、すべての人々、苦しみや悲しみや弱さをかかえる人、将来に不安や恐れを覚える人すべてに向けられたことばである、そういうふうにとらえることができるわけです。
 
 そして、ここの「正しいことをすべて実現する」というのは、直訳すれば「すべての義を満たす」ということばです。すべての義を満たすことがすべての人にふさわしい、それはいったいどういうことでしょうか?
 聖書で「義」と言う時には、漢字で正義の義と書いていますから、神様の正義、正しさ、そういうふうに思いがちです。しかし、聖書が義と言う時には、これは旧約聖書の伝統から見ても、神の恵みのわざと一緒なんです。そして、神の救いの行為を表します。聖書が義という時には、正義か悪か、ではなくて、関係概念、義とは、神さまとの良いお付き合い、良好な関係、神との和解とパウロは言っていますけれども、それをすべての人に満たす、それがふさわしいことだ、とイエス様はおっしゃっています。
 
 こういうことを想像なさってみてもいいんです。舞台で演劇が上映されます。私たちは観客席で見ています。舞台の上、バプテスマのヨハネが、舞台そでから登場します。そして、彼が真剣に叫びます。厳しいことばで呼びかけます。時々そういう演劇がありますけれども、客席の人に、役者が直接語りかける。さぁ出ていらっしゃいって言って、でもそこまでする演劇は少ないかも知れませんが、ヨハネはなんと観客を舞台の上に上げるんです。それをしかも皆に呼びかける。神に立ち帰って洗礼を受けなさいって。次々と舞台に上がって来なさいって。そこでイエス様はどこにいらっしゃるかと言ったら、なんと私たちがいる観客席の中から、イエス様がすっくとお立ちになるんです。てっきり最初はヨハネとは反対側の舞台そでから出て来られるかと思ったら、なんと私たちの中におられた。そして私たちの列に並ばれる。いや、もっと言えば、私たちの列の先頭に立って、洗礼を受けられる。それが実はふさわしいことであった。そして、のちに、場面が転換していってやがて、十字架の死と、三日目の復活ということを経験なさるんです。
 
 教会で昔からありますここの解釈は、このイエス様が水に沈まれた、ということは、十字架を表しています。水の底よりもっと深い、低きに低きにくだられて、その人間社会のひずみのしわ寄せを、最も受けるところに行かれて、十字架につけろ十字架につけろという罵声をお受けになって、私たちの身代わりに死なれた。しかし、水から上がる、というのは三日目の復活を表しています。墓から復活して、罪と死と悪魔に勝利された!だから私たちは、そのイエス様の死と復活を人生のどこかで多かれ少なかれ、経験していると思うんですね。本当に人生の苦しいところを通った、挫折を通った。しかし、人生のある時に、イエス様に出会って、信じてバプテスマを受けて、その復活のいのちをいただいて、新しい生まれ変わりの人生を生きるようになった、それぞれ体験しておられるはずです。それは、劇的な体験ではないかもしれない。復活の人生と言っても、経済的に立ち直ったり、そういう分かりやすいことでは必ずしもない。なお、貧しいままかもしれない、なお健康はすぐれないままかもしれない。でも、なお、そういう世の中の人が切に求めるような幸せの根拠となるものが何も無くても、イエス様と一緒に歩む人生は勝利の人生、それだけで幸せです、と、言える、言えるだけではなくて、その実態を私たちは生きている、ということですね。
 
 世界は、ますます暴力的になって来ています。これはジャンバニエという、ラルシュ共同体という、障害者と共に生きる共同体を作ったカトリックの指導者のことばですが、人は、恐れると暴力的になるんです。社会不安が広がって、恐れると、お金や権力を自分のところに集めて、なんていうのは、日本や世界の政治家たちを見れば一目瞭然ですよね。どうして軍備を拡張するんでしょうか?恐れるからです。「これは自衛のためだ」「防衛のためだ」などと言ってどの国も軍備を拡張して、とめどない軍拡競争をしています。
 それを見れば、暴力が恐怖に基づいていることがよく分かるわけですが、私たちは単に兵器を持っていないだけで、その世界の政治家たちと、そんなに何も変わらない、ということを実は知っているんです。で、ジャンバニエが言うには、私たちが怖がっているのは、実は他国でも他人でもないんです。他人を恐れるのはなぜかと言えば、【自分自身の中にある何かを、その他者と出会ったり一緒にいることによって、自分の中から引き出されるのを、私たちは恐れるんです。】そして、【真実の自分自身を見たくないと思っている。(そしてその真実な自分は弱い無力な存在であることが白日のもとにさらされたら、世の中から「お前はいらない」と捨てられてしまうことを恐れている】と言ってもいいでしょうか。)だからそれがあらわにされないために、他者に対して怒ったり、ある場合には、実際に物理的な、あるいは心理的な暴力を他者に加えることさえ私たちはするかもしれない。それがまさに聖書の言う罪の正体で、人間存在というものそのものが、不完全で破れている孤独な存在であることから来ているわけです。
 ですから聖書の言う罪というのは、深くて広い。よくギリシャ語のハマルティア、神さまから見て的外れと説明されますけれども、もっと深く言えば旧約聖書の(ヘブル語の)ペシャーですね。ペシャー、関係が破れている。愛と赦しの源泉であり、安心の根拠である、創り主なる神から、生まれながらにあまりに私たちは離れていたので、恐れる存在であった。しかも自分があらわになるのを恐れていた。だからその恐れを感じなくて済むように、人は色んなものを集めて暮らしているわけですが、その支える色んなものが崩れて社会から失われていけば、人や国々が暴力的になる、というのは、ある意味で当然のことかもしれない。そういうふうに世の中を見る目も与えられる。
 そして、皆さん自身が、誰かから、暴力的な言葉や扱いを受けることがあるかもしれません。しかしそれは何の権威もない、神のことばではない、人間の言葉に過ぎないことを知っていると同時に、どんなに相手が威張って、高圧的にやってきたとしても、それはその人が何かを恐れているということの証拠であり、その人の態度の背後に、おびえている本当の姿が見える、そういう見抜く目というものも与えられている部分もあると思います。
 
 そういう時に、もしかしたら、そういう恐れている相手に、神さまはあなたを愛している、心配しないでいいよ、おびえなくていいよ、と伝えられる機会も、もしかしたら時と場合によっては、あるかもしれません。
 
 いずれにせよ、神さまは、イエス様の洗礼の時に、こうお語りになりました。
 
17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
 
 これは、イエス様だけに語られたことばでしょうか?そうではありません。イエス様を信じる者には、神の子とされる特権をお与えになった、と、福音書記者ヨハネは語ります。エペソ1章では、「私たちは神の養子となった」ことが語られています。聖書が養子という時には、実子と全く同じ権利を持ちます。そして、洗礼は完全にイエス様と一つになることですから、私たちの洗礼式の時にも、私たちは父なる神の愛する子とされたわけですから、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と皆さんも父なる神から言われていたはずですし、今も言われているんです。私たちはそのように、神様の愛する、かけがえのない子となっていて、それは何によってもゆるがされないものですね。もっとくだけて言えば、天のお父様に皆さんは「ああ、かわいい。おお、いい子だ」って、永遠に言われている、そしてこの神はあなたを決して捨てないんです。
 
 ここにきょう、ヨルダン川で現れたように、父と、子と、聖霊の、三位一体の神が、その交わりが現れています。その交わりコミュニオンと言いますが、そのコミュニオンの中に、完全な愛の交わりの中に、皆さんは招き入れられています。大丈夫!あなたはひとりではありません!ここから世に、皆さんそれぞれ遣わされて行きますが、このインマヌエルなる方、イエス・キリストが、いや父と子と聖霊なる神が、あなたと共におられます。
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は私たちの列に並んでくださいました。弱く、その存在そのものに不安と恐れを覚える者でした。人を恐れ、いや、本質的には自分自身を恐れる者でした。しかし、主はその私たちをあわれんでくださって、私たちの列の先頭に並び、そして私たちの長子として、死と復活を経験してくださいました。その死と復活に、主の名によるバプテスマによってあずからせていただけましたことを心から感謝申し上げます。もう一人ではありません。あのすがすがしい水の感触を思い出すと同時に、洗礼式の時に天から響いた声を思い起こします。「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。ああ、かわいい。おお、いい子だ。」父と子と聖霊なる神が、完全な愛と信頼と平安のコミュニオンに、私たち一人一人を招き入れてくださいましたことを心から信じて、感謝して、主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。
 
#炊き出しの列に並ぶイエス

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