日本の道徳教育といじめをめぐって
日本の道徳教育といじめについて、これは良い記事だと思いました。
なぜ良い記事だと思ったかというと、きちんと深く考え抜いてくださっていて、
「道徳の授業の直後の休み時間にいじめがエスカレートする」
という第三者委員会の報告をきちんと挙げてくださっていて、
私が直感的に「そりゃそうだろうなぁ」と思っていたことをきちんと言語化してくださっているから。
道徳の授業がいじめ対策にはならない、かえって価値の構造を権力的に植え付けることになるから、というこの記事の内容はもっともで、
先日の鴻上尚史さん著「空気と世間」の本のことを私は書いたが、そのことと合わせて考えれば、
「世間」は「差別意識の無い差別の道徳」と言える(そして場の「空気」はそれが流動化したものである)ことから、
おのずと日本の「世間」が持つ道徳的規範は、(差別意識の無い)差別を内包するものとなる。
「差別」と「いじめ」は同義に近いほど重なる部分が多い。
外国人や様々なマイノリティなど、ある種の「世間の外」の人々を作ることによって「世間」が生じる。
その「世間」の仲間には温情をかけ、その世間の暗黙のルールに従わない者は無言で排除、無視などをする。これは一種の権力構造である。
基本的に子供のいじめも、大人の世間で行なわれていることがそのまま子供の世間(クラス内のメンバー等)でも行われている。
大人の世間でのいじめと言えば、先日は広末涼子さんが槍玉に上げられた。
このタレントは叩いていい、という空気になれば一斉に叩く。
これは鴻上さんが言うところの、
「(クラス内で)順番に回ってくるいじめ」
とそっくり同じだ。ある日突然「こいつを叩く」ということが空気で決まるのだ。
というわけで、道徳を教科として教えるということは、その価値構造を子供に権力的に伝えることになるので、
子供たちは当然、その授業で貰った価値基準と権力構造を用いて、誰かをいじめるだろう、というのは、しごく当然ではないだろうか。
そういうわけで、学校での道徳教育は、ーそれが教育勅語にせよ、儒教や仏教あるいはキリスト教等の倫理や徳目などを教えることであってもーいじめ対策にはならないどころか、かえっていじめを助長することすらある、、、、というよりも、
学校で教科として道徳を教えるということそのものが、権力による構造的な圧力という意味で「いじめ」だとさえ言えるのではないだろうか。
この記事は、他のいじめ対策として市民教育や、社会的な課題として設定して多様なアプローチをして行くことなどが挙げられていて、
本当に子どもたちのことを真剣に考えて現場のことを見て的確な提案をしてくださっているので、モヤっとするところが一つもない、子育て中の私の心にとても響く記事だった。