【文書版】✴️礼拝メッセージ「人をモノ化することからの解放」新約聖書 マタイの福音書第5章21~37節
✅昨日2023年2月12日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝メッセージ「人をモノ化することからの解放」
新約聖書 マタイの福音書第5章21~37節
21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
23ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
24ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
25あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
26まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。
27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
28しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
29もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
30もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。
31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。
32しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。
33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
37あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。
主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
【画像2枚目】
まず始めに、こちらの本をご存じでしょうか?
「映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレーコンテンツ消費の現在形~」
ということですが、話題になった本でもありますね。元々インターネットブログか何かに連載されていたものが本になったものだと思いますが、今のZ世代と呼ばれる人たち、だいたい今15歳から30代初めくらいまでの年代を指すと思いますが、生まれながらにデジタルネイティブ、スマホや、SNSを自在に使いこなす世代ですね。
このZ世代研究の本でもあるわけですが、映画を2倍速などで見たりするわけですね。
私などの感覚からすると、ええっ!?映画を倍速で観たら、面白くないでしょう?むしろじっくり作品を鑑賞したことにならないんじゃないの?と思う一方、少し分かるような気もするんですよね。特に忙しい、時間が無い時は、短い時間、少ない時間で、多くのことを知りたい、そういう動機から、ユーチューブなどでも、1.25倍速1.5倍速などと速度を上げて視聴することがあるからですね。
私は、この世代を批判するつもりは一切ありませんし、むしろ、彼らは非常に過酷な世界を生きているなと、思ったりするわけです。とにかく今の世代は忙しい。LINEグループなどで、話題についていけなくなることは、死活問題なんですね。
今の世代を取り巻く環境は、同調圧力が非常に強いです。そして空気を読むことが、上の世代よりずっと重要。ですから、LINEのグループ外しなどをされるなどということは死活問題になるので、皆がおすすめするものを、とにかく観ておかないといけない。そういうプレシャーが物凄いので、2倍速で観たり、ネタバレサイトを見たりして、最低でもストーリーを知っておく。それが、生き残る道だと、彼ら彼女らは考えているんですね。そのため、コストパフォーマンスとタイムパフォーマンスを非常に重んじる。コスパとかタイパとか略すんですけれども、もう時間がとにかくもったいないので、映画でも動画でも、外れを引くことは非常に嫌がるわけです。
しかし、そのコスパとかタイパとかを重んじすぎると、だんだん少しずつ人間性を失ってしまうことがある、ということは以前にもお話しました。何もZ世代だけの話ではありません。
それと、この本に書かれてあることで、興味深かったのは、Z世代は多様性を重んじるので、寛容である、ということですね。しかしよく話を聞いてみると、それには後ろに括弧がついていて、(私の視界に入らない限り)というただし書きが入るんですね。
異質な存在がいるのは認めるけれども、自分と近い距離で、意見を交換したり、議論したりすることが苦手な人が多くて、私は私、あなたはあなた、それでオッケー、と認め合うことが困難な人が多い傾向があるということですね。これを、この本の作者は、
【他者性の欠如】
と書いていました。
これが今日のみことばを考える一つの補助線とすると、非常に分かりやすくなるわけですが、他者と折り合いをつけて、妥協点を探ったり、議論して両方が納得できる案を新たに作ることによって、よりよく共に生きる、ということができにくいということになるでしょうけれども、私がすぐに思ったことは、Z世代だけに限定できることでは全然ない、ということですね。「他者性の欠如」というのは、すべての世代にあるということですね。
昔は、昭和ぐらいの時代は、上意下達(いわゆるトップダウンですね)式の組織が好まれましたし、強いリーダーシップ、いわばワンマンなリーダーシップが好まれたわけです。黙って俺について来い、という、これは一見頼もしい、頼りになる、という良いところがあると思うんですけれども、一つ間違えれば、権力を振り回す、異論を許さない、改善提案は受け付けない、他者をいないことにして進める、という「他者性の欠如」ということにつながることがあるわけですね。
そういう意味で、人間には「(聖書で言うところの)肉の思い」といって、誰しも自己中心の思いがありますから、私も含めて、いや私を筆頭に、そういう罪があるわけですけれども、この他者性の欠如ということが、まさに、今日イエス様が問題にされていることのすべてだ、と言うことも言いすぎではないかと思います。なぜなら、人間の本質というのは、2,000年経っても何も変わっていないので、色んな新たな形で表面化しているだけなんです。ですから、この「他者性の欠如」というのが、いじめ、ヘイトスピーチ、SNSでのバッシング、パワーハラスメント、モラルハラスメント、DV(ドメスティックバイオレンス)、マイノリティへの差別、カルトのマインドコントロール、それから、”生産性”の無い者切り捨て社会、その他さまざま、こういった形で、現代でも出てきているわけですね。イエス様がおっしゃっていることは、そういったことをすべて含むことだと言える。
さて、少し文脈も確認しておきますけれども、図をお持ちしました。
【画像3枚目】
先々週が、1節から12節で、八つのアシュレー、幸いなるかな!イエス様による祝福の宣言でしたね。
そして先週が地の塩、世の光、あなたがたは地の塩、世の光と宣言されています。それは皆さんに対しても、です。
そして、先週の20節でこうイエス様はお語りになりました。
20わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
これが、今日の箇所の説教をお始めになる前段になっているわけです。律法学者やパリサイ人たちは、
【3枚目の図を見て下の文章を指さす】
ここに口伝律法(くでんりっぽう)、とありますが、モーセの律法に加えて、律法を生活に適用させたら、これはOKこれはダメと、細かい細かい規則を作っていました。それをモーセの律法と同じように権威あるものとして民衆に教えていたのが口伝律法です。安息日に900m以上歩いてはいけない、そういうやつですよね(それ以上歩いたら労働したことになる。安息日に仕事をしてはならない、という律法違反だ、というわけです)。
そういうものにも、イエス様は公の生涯を全部貫いて対決しておられるわけですが、ここでも、真正面から、律法学者やパリサイ人の律法解釈というか、神さまへの姿勢を批判しておられるし、―実はそれが、神を人生から除外して、自分を偉いとして、自分を神にしてしまう(自分という偶像を作る)という罪なんですが―ひいてはそれが、人を人として扱わないことになっている。そのことにも批判しておられるわけです。
そういうわけで、この21~26節の「殺してはならない」というのが、今日、非常に大事になってくるわけですけれども、このメッセージではそれを最後にしまして、逆方向から、偽りの誓いをしてはならない、の本当の意味、姦淫してはならない、の本当の意味、そして殺してはならない、の本当の意味、という順番で解き明かしをしていって、そして、深めていきたいと思うわけです。
まずは、偽って誓ってはならない、ですね。
この、誓い、ということについては、私たちは文化が違うので、よく分からないところがあります。日本ではそもそも、誓うことが少ないです。まぁ小学校の遊びで、「神にかけて誓うか?」「おう誓うともよ」なんていうのがあるんですけれども、アメリカの大統領就任式みたいに、聖書に手を置いて宣誓をする、という文化はありません。身近なのと言えば、結婚式の誓いですね。あるいはスポーツの大会で、選手声明にのっとって誓いをする、だいたいそういったぐらいでしょうか?それらも欧米から入って来たものだと思いますね。でも日本でも「天地神明にかけて誓う」などと大仰に言ったりする人がたまにいますね。
では当時のイスラエルはどうだったかという背景を説明しますと、イエス様がここで言われている意味がはっきりくっきりクリアに分かります。
この、偽って誓ってはならない。というのは、旧約聖書のレビ記第19章12節に出て来るものです。(十戒の「神の御名をみだりに唱えてはならない」と「偽証してはならない」に関わるわけですが、)
12あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
この後に「あなたの隣人を虐げてはならない」と人を人間として大事にすることが続くわけですが、まあこの新約のマタイ第5章33節の、
33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
この後半のことばは、聖書にありません。ですから、後半が口伝律法なんです。
ところで誓いなんて、どうしてするんでしょうね?それこそ、私たちが日常でそうしているように、イエス様がこの話の結びで言っておられるように、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としておけばいい。そう思うわけです。しかしなぜ人は何かを持ち出して誓うかというと、そのことばを確かなものとしたい、もっと言えば権威づけしたいわけですね。
ところでイエス様はこの誓いについて、天を指しても誓ってはならない、地を指して誓ってもならない。エルサレムを指して誓ってもならない、とおっしゃっています。
これはどういうことでしょうか?実は、パリサイ人や律法学者たちはこう教えていました。神の御名によって誓うのは、100%果たさないといけない、とするならば、そもそも100%は無理なわけです。事情が変わったとか、決心が変わったとか、色々ありますので、パリサイ人や律法学者たちは、神にかけて誓ったら必ずその言葉の通りにしなければならないけれど、じゃあ天にかけて誓ったら、90%にしましょうか、と。地にかけて誓ったら、80%くらいにしましょうか、と言ったぐあいに、抜け道を作っていたわけですね。「偽りの誓いだ」「先生は誓いを破った」と言われた時に言い逃れをするためです。権威づけをしながらしかも言い逃れの道を作っておく。エルサレムにかけて誓うならまだしも恐れ多いけれども、ここ面白いですね、自分の頭にかけて、それなら70%か60%くらいか、というくらいなんですけれど、それも、イエス様によれば、頭だって、自分の髪の毛を黒くも白くもできないでしょ?白髪染めやカラーリングをすれば別なんですけれど、それでも表面だけ塗っただけですから、もとの色は実は変わっていないわけです。それも、あなたの頭も、神さまのものだと、だから誓ってはならない、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」、それで良いではないか、そういうふうにイエス様はおっしゃいます。
つまり、神の名を悪用すること全部を、神さまは禁じておられるわけです。これがこの律法の本来の解釈というか、正確には心ですね。律法の心。ですから、神の御名やあるいは聖書のみことばを悪用すると言ったら、一番分かりやすいのは統一協会などのカルト団体ですね。もう本当に悪質なくらいに、神様の御名、そして、聖書のことばも、自分の思い通りに、本来の聖書のその箇所の意味とは全く別の意味で使って、お金集めをしたり、人々をマインドコントロールしたりして、支配しているわけです。
こういうのは悪質性が高くて、ほとんど誰の目にも悪だと分かるわけですが、私たちもですね、―私が一番(牧師であり夫であり親であるから)その過ちをしやすいと肝に銘じていますが―ついつい誰かに、言うことを聞かせたり、自分の主張を通りやすくするために、聖書のことばを使ったり、イエス様のお名前を持ち出すことがないだろうか?(みことばハラスメントですね)それはどういう方向性かというと、やはり大げさに言えば、他者を黙らせるため、「他者性を欠如させてでもスムーズに進める」ための言葉ではないだろうか?そう考えますと、やはり私たちは全員が無罪とは言えないと思います。
そして次は、姦淫してはならない、の本当の意味、ということですね。
27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
28しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
有名なみことばですね。これを、誰が守れるだろうか、と思うわけですね。特に男性はですね。
その後に、右目があなたをつまずかせるならえぐり出して捨てなさい、右手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい、という、非常に厳しいというか、怖いことばが続きますので、たとえばオリゲネスという古代教会の教父、偉い先生は、自ら去勢した、と言われています。明治期のクリスチャンのある人は、右手を切り落とさないまでも、火鉢に手を突っ込んだ、と言われているんですね。
そういう信仰の先輩たちの真剣さには、ある意味で壮絶なところがあり敬意を払いますが、そういう文字通りのことをするように、私たちクリスチャンが求められているわけではありません。皆さんすぐにお分かりになるとおり、片目を文字通りえぐり出しても、もう片方の目が罪を犯すでしょうし、片手を切り落としても、いや、両手両足を切り落としたとしても、目や手足が罪の根本ではなく、自分の心の中から罪は出て来るので、意味がないからなんですね。イエス様がなぜここでこんな怖いことをおっしゃっているかというと、姦淫をしてはならない、というのは、どんな意味か、どんな心かをよく考えて見なさい、一点のシミだってダメなんだよ、と言う意味です。そのことを強調するために、イエス様はあえて過激なことを言われた、いわば一種のショック療法と言えると思います。
というのはやはり背景がありまして、パリサイ人や律法学者が教えていたのは、心の中で思うまではOKと、しかし、実際に姦淫行為をしてはダメ、律法違反になる、ということですね。
その文脈で、その後に離縁と言って、要するにこんにちの離婚のことが出て来ます。31節、32節ですね。
31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。
32しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。
31節からお話しますと、これは旧約の申命記第24章1節に出て来ます。しかし、これは以前の礼拝説教でもお話したかもしれませんが、そもそも女性を守るためのものだったんです。当時の女性は、働き口がほぼ、ありません。ですから、生きて行くためには、結婚をする、ということのみが、ほとんど唯一の方法でした。そのため、モーセがそれをある意味で許可として与えたのが、この離縁状だったわけで、本質は「再婚許可証」だったわけです。
しかし、そういうのも悪用されるわけですね。
旧約聖書 申命記第24章1節
人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、
と確かにモーセの律法に書いてある。では、この「恥ずべきこと」とは何か?律法学者やパリサイ人たちはうーんうーんと考えました。
それで、あるラビ、つまり律法の先生は、これは不貞(不倫)、そういう夫への裏切りだと、それのみだと言いました。
しかし、大勢の男性たちに受け入れられた別のラビの教えは、恥ずべきこと、とは、ごはんにおこげを作ったとか、料理が下手だった、というのも恥ずべきこと、さらに、他にもっと美しい女性を見つけた時には、今の妻は恥ずかしい、だから離縁状を渡して離縁してOKというような、とんでもない理屈をつけて(しかも夫側のハンコだけでOKだったそうです)、それをしても申命記第24章のこの律法違反にはならないよ、と、律法学者パリサイ人たちは、抜け道をいくつも作っていたわけです。ですから口伝律法の本質とは、まさに抜け道づくりなのではないかと思えるほどです。
しかしイエス様はそんな抜け道は許さない。離縁状を渡したと言っても、モーセじゃなくて、天地創造の時まで遡る、神が2人を結びつけられたのだから、たとえ離縁状を渡していて、手続き上はOKになっていたとしても、ダメなんだよ、っておっしゃっているんですね。
そしてこのイエス様のおっしゃっている、
情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
のこの「情欲を抱いて」ということば、これはもちろん性欲と理解しても良いんですけれども、直訳は、切望してか、強く欲して、という意味ですね。ですから、強く欲する、つまり自分のモノにしたい、と強く思う、ということですね。性的にも、というのもあると思いますけれども、もっと広く理解して、相手をモノ化する、と言いましょうか、配偶者をですね、人格を無視してモノ扱いするわけですね。相手を透明化すると言いましょうか、相手の意見や、気持ちは無いことにして、たとえば重要なことを、どんどん一人だけで相談なしに決めてしまう、そういう夫婦は日本でもよくあるのではないでしょうか。
そうしますとやはり、他者性の欠如ですね。DVであるとか、モラルハラスメント、モラハラですね、こういったことも、どこか、相手は自分の所有物だと無自覚に思っていることから来るケースは沢山あると思います。特に日本はごく最近まで、家父長制、パターナリズムというものですね。これが強かったですから、今の若い男性も、親世代の夫婦の関係をみて、その関係のあり方を無批判、無自覚に取り入れてしまっていることがあります。ですから、今、よくそういうモラハラ問題の見直し、というのがやっとされてきたわけですね。今はそういう形で表面化していますけれども、とにかくイエス様は、人を人間扱いしない事、それを律法の抜け道を作って口伝律法に組み込んで正当化しているパリサイ人、律法学者たちの教えに、真っ向から批判しておられるわけですね。
そして、その次ですね、「殺してはならない」の本当に意味、本当の心ですね。
この殺してはならない、ということについてのイエス様の教えも、非常に有名です。
兄弟に対して怒る者は、ということですが、この兄弟とは、もちろん肉親という意味ではありませんので、全ての人、があてはまります。誰かに対して怒る者は、さばきをうけなければならない。「ばか者」と言う者は、このことばは、もともと「ラカ」ということばで「ラカ」、頭がからっぽ、という意味ですね。だから日本語ですと、能無し、とか、でくのぼう、とか、ある牧師は、これはたとえば、使えないやつだ、とか、そういった、下に見る、パワハラ、とかいうことも含むとおっしゃっていましたが、そういうことを言う者は最高法院でさばかれる、と言われた。
そして「愚か者」と言う者は、―同じようなことばにみえますけれど、―これは、呪いのことばなんです。神との関係を言うことばなんです。お前は神から引き離されて呪いのうちに死んでしまえ、お前なんていない方がまし、消えてしまえとか、地獄に落ちろとか、そういったニュアンスのことばですので、それを言う者の方が、燃えるゲヘナに投げ込まれる、と。ゲヘナとは、ヒンノムの谷というのがエルサレム郊外にあって、それのギリシャ語読みですけれども、ゴミ捨て場になっていて、いつも火が燃えていた、そしてウジもわいていたので、地獄を比喩的に表すことばとして使われていたわけですね。つまり、殺してはならないと言って、実際に殺しをしなければOKとパリサイ人律法学者たちは抜け道を用意しながら教えていましたが、イエス様は、心の中で、相手に「いなくなればいい」と思ったなら、それで心の中で殺人を犯したことになるんだよ、とおっしゃるんです。
ですから、私にとって、この説教を準備する中で、黙想の時に、つまり自分に語られた神のことばとして聴いた時に、一番心にとまったのが、この殺してはならない、ということばからのくだりです。一番心に留まりましたが、同時に苦しみながら読みました。皆さんの中にも、心が痛みながら読む方聴く方も多いかもしれません。私も皆さんも、怒ったり、あの人いなくなればいい、と思ったことのない人はおそらくほとんどいないんではないかと思います。
さらに、この先には、和解への勧めが語られています。
「祭壇の上に捧げものを捧げようとしている時に」
兄弟が自分を恨んでいることを思いだしたら、捧げものをする前に、-今で言えば日曜の礼拝の前に、ということでしょうか。―仲直りをしなさい、これなら、頑張ればできるような気がしますね。これは自分に非がある場合ですね。明らかに自分のせいで相手に迷惑をかけた、損害を負わせた、こういう場合は比較的謝りやすいというか、関係修復に向けて努力しやすいですね。
でもその次はどうでしょうか?今度はあなたを訴える人と、ここでは裁判が想定されていますけれど、まぁ裁判で係争中などということは、日常生活ではめったにないでしょうから、なかなかピンと来ませんので、こう、何か責めて来る。攻撃してくる、被害を与えてくる人、そういう場合だと現代に適用してですね、こちらから行って、謝るなどして、関係を修復して、和解して、仲良くなりなさい。さもないと、牢に入れられて、最後の1コドラント、つまり1レプタに当たるわけですが、当時の金額の最小単位で今に換算すれば数百円ですが、日本風にそのニュアンスが出るように分かりやすく言うと、ビタ1文のことですね。ビタ1文まけてもくれず、それを支払い切るまで出られなくなる、という、非常に厳しいことをイエス様に言われると、立ちすくむ思いになるのではないでしょうか。
でこれを、クリスチャンの新しい律法、新しいハイレベルな倫理と見まして、そういうふうに現代に適用して語る説教も何度も聞いたことがあります。
で、それをクリスチャンライフの中で、一所懸命実践しようと何年も努力したことがあります。
そうしますと、もしかしたら何年何十年と続けて来られて、こういうふうに経験した方もいらっしゃるかもしれませんけれども、クリスチャンとして燃え尽きや挫折を経験する、ということですね。
明らかに相手に非がある時にも、クリスチャンは、「相手を愛して、こちらから関係修復に積極的に動きましょう、自分も悪いけど、あなたもこれを直してね」というのではいけませんよ、とか、そういう説教を聞いたことないですか。私が全面的に悪いんです、と言って謝りましょう。という、このみことばの適用ですね。
あ、そうか、と思ってですね、私それ、何年も(あるいは十何年も?)、それの実践するように曲がりなりにも努力してきました。そうしますとどうなったかと言うと、その謝られた相手は、どんどん身勝手になっていって、どんどん横暴さを増していって、こいつは何を言ってもいいんだ、何を言っても謝ってくるんだ、だからこいつのせいにしとけばいいんだ、と無意識レベルで思ったか思っていないか分かりませんけれども、とにかくエスカレートして罪を重ねていくわけですね。こちらが謝るので(つまり関係修復のために片一方のみが努力するので、相手が努力しなくても関係が保てるということになってしまう)、相手が自分自身のどの言動が罪なのか気付かなくなり、罪を犯し続ける側の「他者性の欠如」というものが増幅されるわけです。こちらをますます人間として扱わないようになって行く。
そもそも、そういう現代のクリスチャンライフへの「こちらに非がなくても謝りましょう」というような、ハイレベルな実践、という目線で、この箇所を解釈していいのかどうかは、大いに疑問があります(弱い立場の者にガマンを強いることによって組織を維持しようとしているような教説ではないのだろうか?というのは穿った見方にすぎるかもしれませんが)。そもそも「あなたを訴える人」とは、こちらに非が無くて、などのことばは、イエス様おっしゃっていないからなんですね。イエス様がおっしゃった、裁判でわざわざ訴えられる場合は、スラップ訴訟(脅し目的の訴訟ですね)を除いて、多分こちらに非があるからです。
それで、もちろんイエス様の厳しいみことばは、どの箇所であっても、1ミリたりとも薄めてはならないんです。薄めて守りやすいようにしましょう、というのは、パリサイ人、律法学者がまさにやったことだからですね。
でも、さっきの、怒ったり、心の中で、誰かをいない方がいいとチラっとでも思うことは、誰にでもある。ということは、やはり、私も、おそらく皆さんも、すべての人が、【イエス様の厳しい、いや神様の律法の厳粛さの前では、あなたも決して、立っていることのできない人間であることに気付きなさい】。これが、まさに、イエス様が一連の律法解釈、いや律法の本当の心、として語られたことの本質なのです。
では、どこに解決があるのか、ある牧師先生が、こうおっしゃっていました。
この裁判官は、もとより神ご自身であります。
ここで神さまが、立ち現われて来てくださいました。その先生はこう続けられます。
祭壇に供え物をするのは、その神と仲直りをすることです。神と和解をするのです。(中略)ささげものによって神との関係を整えるのです。
そのささげものとは何でしょうか?それは、皆さんがもうプロテスタントの教会に何年も通えば耳にタコができるほどお聴きになったことだと思いますが、どんなにお金や、ものや、厳しい戒律を守ることや、善行を行なうこと、それらによっては、それがどんなに大きいものであっても、神と和解するには全然足りません。むしろ逆に遠ざかるぐらいです。人間がたとえ素晴らしい善をしたとしても、人間の本質自体に罪があるので、人間自体が、―これは自己保存本能に分かちがたく結びついているものだと思うんですけれども―自分が死なないために、他者を押しのけたり、異質な者や弱い者を排除するか、さもなくば支配する、など色んな形で「他者性の欠如」があり、人間をモノ化するという悲しいサガがあるので、神に対して、形あるささげものをしても、形のないささげものをしても、こちらからの神へのアプローチで、罪の赦しと永遠のいのちを受け取れるわけではありません。
それでは皆さん、この神との和解、それは決してかなわないことなんでしょうか?確かに人間の力では無理です。らくだが針の穴を通るよりもムリです。しかし、【戒めを言うということは、戒めを言う者に、解決がある】のです。つまり、以前にもお話したかもしれませんが、イエス様は、山上の説教で、誰にも守れない厳しすぎる、崇高すぎる理想を語られた、単なる理想主義者か?そうではありません。この律法を一点一角損なうことなく、すべて成就してくださった。主イエスご自身が十字架におかかりになって、こうおっしゃったんです。「テテレスタイ!」完了した。これは山上説教で、律法はすべて成就します。と言われたことの責任を、御自分のいのちをこの罪ある私たちのために投げ出してくださることによって、完全に果たされたことでした。最後の1コドラントまで、私たちには罪という借金は払うことはできません。しかし、テテレスタイ、というのは、当時、領収書に書かれたことばです。支払済み、という意味です。福音書記者ヨハネは、イエス様のことばを、そのギリシャ語で書き記しましたが、まさに、私たちの罪という神の前の借金が、主イエスの十字架によって、最後の1コドラントまで支払いずみになった!そのことを高らかに宣言しているんです。
そして、この「完了した」「成し遂げられた」ということばには、もう一つ、大事な意味があります。イエス様の十字架の血による新しい契約、神と人との新しい契約成立のわざのことです。それは、旧約聖書 エレミヤ書の第31章、31節以下にあります。31節と33、34節をお読みします。
旧約聖書 エレミヤ書第31章31節、33~34節
31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。(イスラエルおよびユダの家とは、新しいイスラエル・教会である皆さんのことです―括弧内田村―)
33これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
と。終末的な、天国の完成ということを言っているみことばですけれども、もっと分かりやすくこのみことばを言い換えるならば、アメリカのある牧師先生に、アンジェラ、という耳の聞こえない女性が、自分の見た夢の話をしてくれたそうです。天国でイエス様にお会いして、ひとしきりイエス様と話をしたそうです。その時の平安と喜びはそれまでに経験したことのないものだったと、アンジェラは手話で話しました。「イエス様はね、本当に私が思い描いていた通りの方だったわ」そして彼女は続けました。「そしてね、イエス様の手話は本当にすてきだったの!」
いかがでしょうか?皆さん、イエス様の手話、アンジェラにとって、天の国の完全の中には、自分の聴覚障害が「治る」ということは入っていなかったんです。あらゆるコミュニケーションの障壁がもはや存在しない場所。たぶん、すべての人が手話を理解し、そして話せるでしょう。
私たちはついこう考えてしまいがちです。天国に行ったら、すべての障害が治って、健康になるんだ。おそらく、少し違うと思うんです。私たちが”障害”と決めてつけ、呼んでいるものは、実は社会が決めています。そして、しばしば、彼ら彼女らにとって、排除や隔離や機会損失といった、「害」を、社会の方が、与えて来ました。けれども、天国では、そんなことは一切ない。神と人、人と人を隔てる隔ての壁は一切ありません。「他者」同士、異なる者同士として、ただのほんとうの人間と、ほんとうの人間としての交わりがそこにあります。
私たちは、地上でも天の御国を生きるとは、まさにそういうこと。地上でできることは限られてはいますけれども、この福音の光を受け取った者は、異なるひとを、まことの1人のひととして、上でも下でもなく、向き合って、共に生きる、という道が、そこで私たちの前に、開かれているのです。
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様の厳しい律法の前では、立ちすくむしかありません。
抜け道を作ろうとせずに、正直に申し上げるならば、私たちすべては、神の前に失格者です。しかしあなた様は、神の燃える怒りを、私たちに決して味あわなくて良いようにしてくださいました。御子イエス・キリストに、すべての怒りを負わせ、最後の1コドラントに至るまで、尊い血潮で、支払ってくださったのです。このはかりしれない恵みを、どんなに感謝してもしきれないほどです。そればかりか、あなたの御子キリストが血によって成就してくださった新しい契約は、天の御国において、すべての人が、ひとりの人として、扱われる、そんな素晴らしい世界です。なお、この世には多くの闇があり、地上に完全に天の御国を実現することはできませんけれども、地の塩、世の光として、他者性を排除する世の中にあって、ひとりの人と人間同士として共に生きることを、得させてくださいますように。いや、すでにおひとりひとりを祝福して、そうしてくださっていますことを信じ、心から感謝申し上げます。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
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