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自分に甘すぎたから、『葉隠』を読む 〜『葉隠』はとてもいいよ

ああ、まったく!

この世で最も腹立たしいのは、自分の無能です。無能な自分は無能ゆえに、実にひどい間違いをやらかす。

他人がやる分には気にしません。それはその人の適性外だったかもしれませんし、コンディションが不調だったのかもしれない。労らねばなりません。ミスは起きるものです。

しかし、自分は別です。自分はその職能の及ぶ範囲において、状況をコントロールできます。一人仕事なら、余計にそうです。生み出されるもののクオリティは、自らの死命を分かつことになるでしょう。

であるならば、そこには自由たるがゆえの責任が生じます。自ら選んだ道において、自己を厳しく律しえずして、いかに目的を達せるでしょう。

しかも、私が任されているのは、私のような凡夫にもできるタスクです。そのうえで、私が最善を尽くすべきステージです。

何もフォン・ノイマンのような悪魔の頭脳は必要なく、ジョアシャン・ミュラのように壮麗に騎兵を運用する必要もありません。他方、小銃ひとつを渡されて、悪夢のようなニヴェル攻勢に参加する必要もないのです。

義務を果たす。最善を尽くして。

私がやるべきはこれだけです。それを失敗した。なんと愚かで使えない。今回のミスは1つの単語の差し替え不備です。ですが、前進と漸進がまるで違うように、PrevailとOnslaughtの意味が異なるように、今回の失敗はあり得ざるべきことでした。

加うるに、言い訳となる理由を少しでも考えた自分に腹が立ちます。それは誠実ではありません。誠実さを失ったとき、人は真に社会に不必要な存在へと転落します。まして、私のような心身の持病持ちなど。

千の言葉は何ら事態を解決しません。一の行動のみが、無能の泥濘からの脱出を可能にします。自分に甘くしたツケは、泥濘の汚穢となってどこまでもついてきます。清めるために、最善を尽くさねばなりません。無数の最善を。

自分を最高効率で調練できるのは、紛れもなく自分だけです。それが自分に可能なのであれば、やらねばなりません。生き残るために。

目を閉じれば、幾百もの自己への甘さがよみがえります!

私はでぶです。これは疾患のためもあるし、薬剤の副作用でもあります。その点について、些少の負い目はあります。しかし、成すべきことへの態度にすら贅肉がついてしまいました。髀肉之嘆で終わらせるわけにはいきません。

元よりここ数日は胸部が痛く、その痛みを持って甘えていました。何たる失態。その甘さこそが、真に不名誉な汚れた刃となって、この身を貫いていきました。慨嘆も起きようもの。しかし、嘆いて変わるのは残された時間の量だけです。それも減る方向に。

私は、私というなまくらを研ぎ直さねばなりません。肥後生まれとして、あらためて「人国記」で肥前に劣りたると評された意味を感じてしまいますね。

「朝毎に懈怠なく死して置くべし」

なれば、『葉隠』を読み直さねばなりません。今だからこそ。

『葉隠』は良いものです。とても。死が近づくほど、その残り時間が短いほど、『葉隠』は救いになります。少なくとも、生きて読めているなら、肯定にせよ否定にせよ、何らかの「心の波風」が生まれるでしょう。そうしたものです、これは。

もしかしたら、実に死ぬのが待ち遠しくなるかもしれません。『葉隠』は紛れもなく「死狂い」の魅力に包まれています。それは同じ肥前の大隈重信公にも「時代遅れ」と批判されるくらい、「頭の悪い戦闘機械」の手引きではあります。

しかし、大隈公が設立された大学で学んだ身として、私は強く言上したいのです。

「それでも、私はその死がうらやましい。あなたは確かに政治家としては二流だったが、教育者としては一流であり、そして、武士としては特に一等輝いていた」

その想いは、大学の象徴として知られる8号館前の立像よりも、むしろ大隈講堂の立入禁止区画の回廊にある、大礼服姿の立像にこそ強まりました。

「あなたがその脚を爆裂弾で吹き飛ばされたとき、『いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する』と言って犯人の弔いを続けた豪胆。盟友たる伊藤博文公が暗殺されたとき、『なんと華々しい死に方をしたものか』と大泣きした逸話。それは紛れもなく佐賀鍋島藩の上士の矜持に思えました」

私は大学が嫌いでしたが、早稲田に進めたことは良かったと感じます。オープン講義において、水野忠夫教授から直接ロシア・アヴァンギャルドの講義をいただけたことは、年をとるごとに光栄の極みだったと感じています。

思えば、あれは水野教授が亡くなられる3年前、すなわち定年退職される2年前だったのだなと……その価値の尊さに気づけていなかった我が不明が、ただただ恥ずかしいものです。その点において、私は『葉隠』の学問軽視の風潮には、大隈公と同様に反対の姿勢です。

それでも、狂いは楽しく。ちと長いのをひとつ。

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 ある者が、喧嘩の打ち返しをせずに恥となった。打ち返しの仕法は、相手方に踏みかけて斬り殺されるのみである。これによって恥とはならぬ。成し遂げたと思うべきだ。

 成し遂げたいと思うばかりに、間に合わない。相手が何千人いようとも、片っ端から撫で斬ると思い定めて立ち向かうことで、事は成就している。それによって為遂げられることもあろう。

 浅野殿の浪人討ち入りも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落ち度であった。また、主を討たれながら、敵討ちを延ばし延ばしにしている。もし、そのうちに吉良殿が病死したら残念千万である。

 上方衆は知恵に賢く、褒められるやり方は上手なれども、長崎喧嘩のような無分別は不可能だ。また、曾我殿討ち入りもことのほか先延ばしにし、幕の紋見物の場面にて、祐成は機会を逃した。不運なことである。五郎の申しようは見事だった。

 総じてこのような批判はするものではないが、武道の吟味なればこそ言うものである。あらかじめ考えておかねば、事が起きたときの判断ができないゆえ、大方は恥になる。話を聞き覚え、物の本を読むのも、かねてより覚悟をするためだ。

 とりわけ、武道においては今日さえどうなるかわからないと思い、日に夜に箇条を立てて吟味すべきである。そのときの行き掛かりで、勝負は分かれる。恥をかかぬ仕様は、また別のことだ。死ぬまでを考えず、無二無三に死狂いするばかりである。これにて夢のような迷いからも覚めようものだ。

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ああ……死に方を思い出しました。正しくは、生き方を。安寧と病への恐怖で忘れていましたね。そうです。こうでなくては。

とはいえ、痛いものは痛いという不平があるので、まだまだ目指す境涯は遠き彼方です。

本当に、『葉隠』の世界は心地良いものです。大いに狂っている。狂ったものは面白いというのが世の常です。狂わずして楽しめるほど、世の中は明快な美に満ちてはおりません。

「介錯の時、刀ならば、膝から1尺4、5寸に、右の足を踏み懸ける事。脇差ならば、1尺ばかり。膝の通りに踏む。刃の向きを直に、手心で打ち懸ける。手元を下げて打つ事」

「生け花の事。投げ入れは、茶の湯では、禁ずる言葉」

『葉隠』は心得の聞き書きなので、いろいろな話に満ちています。介錯の作法などは、不調法が決して許されない世界なので、とても実用的ですね。

他方、華道や茶道の心得もあり、これも実に楽しく。私などは華道も茶道も触れたのにまるで精髄にいたらず、実に立派な独身中年男性でございます。鍋島武士のほうがよほどに風流人ですね。

「福地孫之允の介錯、小城の蒲池は仕損じ、浪人の由」

介錯については、このように不手際をしたら禄を失うことも。それゆえに何だかんだと理由をつけて介錯から逃げる風潮が生まれ、『葉隠』の語り手である山本常朝は嘆いています。

「思わぬ事で動転する者に『笑止』と言わば、気が塞がり物の理が見えなくなる。事もなげに『却って良し』などと告げることで気が逸れ、良い知恵が生まれてくる。定まらぬ世においては、憂いも喜びも、心に留め置くことはできない

これなどは最近の自らを恥じ入るばかり。慰めは人を殺します。心が死ねば、体も死ぬ。望ましくない死に方です。

冬季オリンピックで涙の失格を迎えた子にせよ、ほんの手違いでさんざんに言われるVTuberの子にせよ、安易な慰めが殺すこともある。善意によって地獄への道を舗装するどころか、手を取って連れて行こうとしてしまう……。

借り物の慰めはやめねばと、水面に顔を押し付ける慰めから手を引かねばと。

まことに、『葉隠』は格別に面白くていけません。無尽蔵に出てきます。前半の泣き言で腹肉のようにふくらんだので、いったんお開き。次に運びましょう。無論、生きていれば。