悪魔と世俗と人間と
経典に登場する悪魔や神というのは今で言うキャラクターみたいなものです。インドの神様とかヒンドゥー世界に関心があって何か読んだりした事のある人だと神様自身が「いやあっちとコッチでは別キャラだけどどっちもワタシだよ」なんて平気で言ってたりします。そうやってわざわざ人間に近い姿をとってわかりやすく演技してくれてるんだということです。キャラであって実体じゃないという概念は、慣れていないと勘違いが起きるみたいです。
先日、パーリー経典解説で取り上げられた部分は、悪魔が老獪な婆羅門の姿で仏陀の弟子たちに近寄って問答するというものでした。比丘(弟子)の答えの洗練さシンプルさは見事なもので、悪魔の使った言葉を使いつつ異次元の正解を返すというものでした。が、かえってそれが(日本語に翻訳された時点で)シンプル過ぎて解りづらいものになっていました。極めつけは問答のテーマが時間と無駄(ドゥッカ)についてで、内容言葉ともに解りにくさに拍車がかかっていました。解説するスリランカ人長老もさすがに言葉や喩えに苦心されておりました。…ともかく時間は人間特有の観念であって実在でないという説明までで時間切れ…wとなりました。
解説の終了後に質問がありました。「この比丘の答えを悪魔は理解、または悟ったのでしょうか?」
この質問に長老は(たぶん終了時間過ぎで)端的に答えて終わりました。が、この質問は、私には印象的でした。なぜって、解説に入るまでの冒頭では、ここでの悪魔は世俗の代表のようなもので、仏陀の悟りに対する世間の反応をわかりやすく物語にする為のキャラクターだという話をけっこう長く話されていたからです。なのに、人物っぽい描かれ方をしたら人物っぽい認識をしちゃうんです。インド占星術の研究家なら誰でも(たぶん)日常の思考で、人間も色々なキャラの集合体だという認識をしてます。だからこそわたしには、悪魔って言っても世間をキャラにしただけ、という説明がすんなり入ってきました。
でも他のことは・・・・? この勘違いは他人事じゃありません。
正しく説明され、理解できても、実際に使ってない概念は、やっぱり使えないという現実。知ってるつもり、のレベルは自分の思考に組み込まれてないから機能できない、で、勘違いを起こす。わたしもインド占星術の技法を学んだ後の方が、かなりアタマ混乱していました。
それが落ち着いてきた今でも、やっぱり解ってたつもりでちゃんと使えていない象意や技法があります。
やっぱりサボってる暇あったら基礎の技法の整理しとこうっと!