ゴールデンカムイを読んで明治期の家族観の変遷を調べた話
注:本稿は漫画『ゴールデンカムイ』に関する内容ではありますが、主に明治期の家族観の近代化とその背景について書いており、漫画本編についての考察はほとんどございません。あと尾形百之助の生育の背景についてネタバレしていますのでご注意ください。
ゴールデンカムイにはまった
去年夏、『ゴールデンカムイ』が無料公開されていたときに軽い気持ちで読んではまってしまった。話題になっていたのは知っていたがここまで面白いと予想していなかった。物語の時代の社会的背景が知りたくて何冊か本を読み、自分なりに解釈したものをせっかくなのでまとめた、のが本稿である。
『ゴールデンカムイ』は、明治後期の日本が舞台で、日露戦争から帰還した元兵士とアイヌの少女がタッグを組み、北海道のどこかに隠された金塊の発見を目論む物語である。
私が特に気になったのが、尾形百之助の背景が語られる103話。
尾形は陸軍の脱走兵で、凄腕スナイパーという設定の人物である。作中では金塊をねらう勢力を渡り歩き、最近は単独行動をしている。金塊争奪戦に加わる真意がよくわからないミステリアスな存在である。
103話の回想シーンでは、彼が陸軍幹部の父親と浅草の芸者の母親との間に生まれた婚外子であることが明かされる。父親は、本妻に男児が生まれると愛人のもとに姿を見せなくなる。後ろ盾を失った母子は茨城の実家に身を寄せるが、捨てられた母親は精神を病んでしまう。尾形は成長して陸軍に入隊し、日露戦争に従軍する。
気になった点
103話の時間軸は日露戦争のあとである。尾形が死にゆく陸軍中将の父親に向かって自身の生い立ちを語る場面があり、そこには彼の婚外子としての懊悩がうかがえる。彼の言葉を抜き出してみた。
このシーンは尾形の一人語りで始まり、途中までは誰に向かって話しかけているのか読者には判然としない。途中で父親が拘束され血まみれで横たわる描写が入り、やっと幼いころに捨てられた息子が父親を殺害しようとしている状況だと理解できる。尾形は父親を見下ろしているが、その両手は血で汚れ、刃物が握られている。
さてこのシーンを読んで、実際のところ彼のような「妾の子」に対する社会的な位置づけはどのようなものだったのだろう?というのが気になった点。
なんとなく、昔はお妾さんがいる男性も多かったし、そんなに世間体が悪いものでもなかったんじゃないかという印象を持っていた。
実際のところどうだったのか知りたいと何冊か本を読んだところ、明治を通して結構な転換があったことがわかった。ざっくりいうと以下のような変化である。
●日本は明治のごく初期は妾とその子は夫の戸籍に記載できた。つまり法制度上も一夫多妻制が容認されていた。しかし明治13年に方針転換があり、妾の戸籍への記載は中止された。一夫一妻の近代家族規範が推進されていったためである。これは尾形が生まれた(と推定される)明治15年前後に起きた変化である。
●皇室は、明治天皇の時代まで側室をおいていた。しかし、明治33年に結婚した皇太子嘉仁(のちの大正天皇)からは側室をおかず、一夫一妻となった。明治期は、天皇家においても家族規範の近代化がはかられた。
では、これらの点について、読んだ本を紹介しながら見てゆくことにする。
(1)「妾」に対する方針転換-『婚外子の社会学』
はじめに読んだのが『婚外子の社会学』(善積京子,1993)である。善積氏は婚外子差別について研究してきた社会学者である。
明治期は新政府のもとで急激に近代的な社会制度が作られ、幕藩体制から近代国家・日本へと変貌を遂げるための骨格が組み立てられていった。新政府の妾や婚外子に対する姿勢は一貫せず、明治期の中でも変遷している。
本書によれば、明治3年に示された「新律綱領」では妻・妾はともに夫の二等親(注:現在の「親等」とは異なる概念)とされ、明治6年の「太政官布告」では、妾の子どもは、正妻の子と同じ「公生子」と位置付けられている。(太政官は、明治初期に置かれた最高官庁)
つまりこの時期は日本は法制度上も一夫多妻制で、妾の子どもは社会的地位を得ていた。
当時は男性が外で子どもを作るのは家の存続のために必要という認識があった。乳児死亡率が高く多産多死だったことも影響しているだろう。
しかし政府は明治13年の刑法典で方針を転換する。妾の親族上の身分を廃止し、新たに妾を戸籍に搭載することを中止したのである。
(尾形百之助が生まれたのはファンの方の考察によれば明治15年ごろと推定されているので、政府の方針転換期のすこしあと?)
善積氏は、この転換の背景に当時の日本政府の最大の課題であった不平等条約があると指摘している。
不平等条約は、日本史の教科書に必ず載っているアレである。当時の政府は幕末に列強と結んでしまった条約の①治外法権と②関税自主権の不在にいたく悩まされていた。
西欧諸国は日本の前近代的な刑法制度への不信感から日本で裁かれることを拒否していて、この治外法権のために外国人の犯罪を日本で裁けない状態が続いていた。
条約を改正するには、「野蛮な風習のある未開の地」ではなく、文明的な近代国家であると認知してもらわなくてはならない。
そのために進められたのが欧化政策で、明治16年には鹿鳴館が建設され、舞踏会が開かれるなどした。
こうしたなかで明治19年には「ノルマントン号事件」が起きている。イギリスの貨物船「ノルマントン号」が和歌山県の沖合で沈没し、イギリス人やドイツ人の乗組員は救助された一方で、日本人乗客全員が死亡した。イギリス人船長に下された判決が軽かったことから、世間の怒りは不平等条約に向いた。さらに関税自主権がないことによる輸出入の不均衡が物価上昇をまねき、生活に打撃を与えていた。条約改正は政府の最優先事項だった。
政府がイギリスとの間で治外法権の撤廃を果たすのは明治27年である。明治32年には外国人居留地の廃止にともなう「内地雑居」が始まることになり、今度は外国人の目に入れたくないものを覆い隠すような制度が作られていった。
当時の環境をまとめると、条約改正のために近代化は必至であり、蓄妾の習慣は未開で野蛮な印象を欧米に与えかねないものであるとして少なくとも政府が公認することはできない存在に転換したのである。
ただ、妾制度は実質的には戦後まで維持されたと善積氏は指摘している。
明治31年に施行された明治民法では婚外子を父親の認知を受けた「庶子」と認知のない「私生子」とに分け、庶子は男子の場合、嫡出の女子よりも優先順位が高かった(970条)。さらに庶子は認知によって必然的に父の家に入り(73条)、父の妻との間に嫡母―庶子の法定親子関係が生じ(728条)、相互的に扶養や相続の権利義務があった、と記述されている。
そう考えると尾形の法的位置づけが「庶子」なのか「私生子」なのかは議論の余地がありそうである。
ちなみに明治期に2回総理大臣を務めた松方正義は女性関係が多く、妾の子も入れると20人を超える子どもがいたという。彼の正妻が妾の子も育てていた、という話にとても違和感があったが、明治民法の規定でそうなっていたのかと得心した。(つくづく明治期に生まれなくてよかった)
(2)新聞による糾弾-『弊風一斑 蓄妾の実例』
松方正義だけではなく、当時は政治家や貴族といった社会的地位の高い男性ほど妾を囲っていた。建前では一夫一妻を標榜しながら、それを推進する立場の政治家が弊風に侵されている実情を激しく糾弾したのが新聞である。
明治初期は国内の治安が安定したことを受けて新政府が新聞発行を許可するようになり、創刊が相次いだ。『ゴールデンカムイ』でも、石川啄木が新聞記者として登場する描写がある。
東京では明治5年の『東京日日新聞』をはじめ、『朝野新聞』、『読売新聞』(明治7年)など多くの新聞が論陣を張った。
『日本たいむす』や『絵入自由新聞』で記者をつとめた黒岩涙香が、みずから社主となった『萬朝報(よろずちょうほう)』で、妾の習慣を糾弾するキャンペーン報道が行われた。タイトルは「蓄妾の実例」である。
明治31年7月7日、紙面に「男女風俗問題」と題する記事が掲載された。
黒岩涙香はこのキャンペーンで、社会的地位の高い男性の妾事情を実名で暴露し、政府が目指す一夫一婦制がうわべだけであると激しく糾弾した。
この日から9月27日まで、510例が実名で連載されている。
掲載されている人物は政治家、貴族、医師、寺の住職から町の時計屋や本屋の主人、土木業など実にさまざまである。読んでいるとまさに指摘通り「如何なる地位」でも実質的に一夫多妻が罷り通っていることを如実に感じることができる。
プライバシーなどという概念がなかった当時のこと、妾宅の住所や女性の出自も細かに書かれていて、芸妓や女中、酌婦、下女と関係するパターンが多い。
ほとんどは淡々と、誰がどこそこの芸妓をここに囲っている、といった話が簡潔に2,3行で綴られているが、犬養毅、山県有朋、井上馨、伊藤博文、榎本武揚、原敬…渋沢栄一、森鴎外や黒田清輝、北里柴三郎などの大物の名も見える。
また初代総理大臣・伊藤博文は好色だったことで有名だが、この連載にも以下のように書かれている。
家の出入り業者の娘が美人だったから妾にし、姉が亡くなると妹を、さらにその妹が亡くなったので次の妹も・・・ということで3姉妹すべてを妾にしようとしているという話である。なんとなくはばかられたので女性の名前を伏せ字にしてみたが、繰り返しになるが紙面では女性もすべて実名で報じられている。
ほかの記事でも「寺の住職が妾を囲ってなお他人の妻に欲情して追いかけ回し、逃げられたのでその場にいた別の女性を強姦した」とか、「大臣が数人の美女を官邸に連れてこさせその中から選んで妾にした」とか、今から見るとちょっと何言ってるかわからないことだらけである。(明治期に生まれなくてよかった・2回目)
ちなみに連載に収録されたうち、軍人は陸軍中将、海軍少将、陸軍歩兵大尉などの肩書がみられるが、政治家や貴族に比べれば数は少ない印象。
文庫版の巻末には黒岩涙香の研究者である伊藤秀雄氏による解説がついている。
現代の週刊誌記者と権力者の攻防を思わせる。
「萬朝報」は桃色の紙を使っていたので「赤新聞」と呼ばれ、涙香は「蝮(まむし)の周六」と呼ばれて恐れられた。(涙香の本名は周六)
一方でこの連載には、読者から「自分は妾がいるのになぜ載せてくれぬのか」という催促が届いたという記述もある。妾の存在をオープンにすることは「世間体が悪くなる」のか「男の甲斐性の誇示」なのか一様ではない過渡期の様子が見てとれる。
現代でも著名人の不倫は大きなスキャンダルであるが、大仰な前振りから推測するに、それまでは妾の存在が当たり前すぎてニュースとしての価値を見出されてこなかったのかもしれない。家の外に女性を囲うことは、家族規範の近代化にともなって斯様に「男の甲斐性」から「糾弾されるべき行為」となっていったわけである。
(3)天皇家の近代化-『近代皇室の社会史 ―側室・育児・恋愛-』
3冊目は毎日新聞で皇室取材を担当し、退職して研究者となった森暢平氏の『近代皇室の社会史 ―側室・育児・恋愛-』(森暢平,2020)である。この本の大正天皇をめぐる考察のなかで、側室を廃止した理由が論じられている。
男性が複数の女性と子を為すことを正当化する「血統の存続」が最も重視されてきた家族といえば天皇家ということになるだろう。
本書によれば、明治天皇までは側室が置かれており、大正天皇は明治天皇の側室・柳原愛子の子である。しかし大正天皇の時代からは側室が姿を消している。
皇太子嘉仁(のちの大正天皇)と九条節子の婚約は、明治33年2月11日に発表されている。社会は若い2人に新しい時代の夫婦像、すなわち一夫一妻を期待した。
森氏は当時の『時事新報』(福沢諭吉が発刊)の社説について以下のように指摘する。
森氏はさらに『東京日日新聞』『国民新聞』『中央新聞』、『萬朝報』の英文社説についても挙げ、以下のように述べている。
また皇太子嘉仁の結婚に関しては、馬車の乗り降りの際に皇太子が節子の手を取って導いたことなど、夫婦が仲睦まじくしている様子が好意的に報道された。これは結婚観が、家と家との協定から、本人の意思も尊重された結び付きへと移行していたことを受けての変化であると指摘されている。お見合い結婚であっても「あくまで本人同士が惹かれ合ったことが大切になる」のだ。
森氏は、大正天皇から一夫一妻となったのは、本人たちの意思もさることながら、社会環境、特にメディアの発達と「大衆」の出現があったからだと結論付けている。
善積氏が指摘したように、社会においては第二次大戦後まで蓄妾の慣習が残り、新聞が躍起になって意識改革を促しても既婚男性の婚外性行動はなかなか改善はされなかった。
ただそうしたなか、血統の存続がもっとも重視される天皇家で側室が廃止の方向に向かったのは、(正妻に男児が得られたということもあるが)家族観の近代化の波がそれだけ深く、高いものであったのだろう。
(4)尾形の言述にみられる近代家族観
ここまでの流れを年表にまとめてみた。
ここでもう一度、尾形百之助の言述を振り返ってみる。
彼の言葉からは「婚外子は社会的正当性を持たない」「夫婦は愛情をもって結びつき、その結果として子を為すべき」という考えがうかがえ、この時代としてはきわめて近代的な家族観を持っている人だという印象を受ける。こうした価値観は当時の知識人がこぞって唱えたもの(※1)で、彼は先進的な考えをメディア(または公教育(※2))を通じて内面化していったのかもしれない。そう考えると環境変化に対する感度が高く、情報収集・分析能力に長けている人物像と符合する。
キャラクターの内面の推測に正解はないが、近現代を舞台とする作品の場合、当時のマクロ環境と重ね合わせると、作者がその時代をどうとらえているのか、つまり登場人物が生まれた背景が想像できて楽しい。そしてこの世界観を現実と違和感なく成立させるために膨大な資料を渉猟している「野田先生スゴ~イ!!」という気持ちになる。(※3)
連載は最終章に入っているが、物語の中で彼の内面はどこまで明らかになるのか―「祝福された道」が用意されているかどうかが非常に気になるところである。
※1 一夫一妻推しだった知識人の代表格は福沢諭吉である。「福翁百話」では「一夫一婦偕老同穴を最上の倫理と認め苟(いやしく)も之に背くものは人外の動物として擯斥す可きものなり」と書いている。
ちなみに福沢諭吉は「蓄妾の実例」にも登場する。ある男性が70ちかいのに二人も妾を置き、昨年子どもをもうけたという話のなかで「三田の福沢翁はこの体を見て痛く心配し何か仕事をさせなば、この弊風を矯むるを得可しとてかつて時計磨きの事を勧めたるに最初のうちこそ聊か利目ありたれども、後には高価の時計を買い集むるのみにて好色の癖依然として止まざり」とある。ちなみに時計の次は小鳥を飼えと勧めたがやっぱり効果がなかったという
※2 森氏の著書では、「(牟田和恵氏などの研究により)親子が相親しみ家族が団欒を楽しむ情愛は、明治二〇年代半ばを境に明確になる」という記述があり、明治25年の修身の教科書では「孝行」と題して両親と子が同じ空間で団欒している様子が描かれているという。(尾形には「両親に祝福されて生まれた子供」に見えたかもしれない。)尾形の懊悩は父の行動が家族規範を逸脱していた点にあるわけではなく、むしろ正妻と嫡出子に対しては理想的な父親であったこと、母と自分だけが愛情を勝ち得なかったことにあるだろう。
※3 もちろん尾形も好きです
参考文献・資料
※引用の太字強調はすべて岡田によるもの
『ゴールデンカムイ』1巻~28巻,野田サトル,集英社
『ゴールデンカムイ公式ファンブック 探究者たちの記録』野田サトル,2020年
『婚外子の社会学』善積京子,1993年,世界思想社
『弊風一斑 蓄妾の実例』黒岩涙香,1992年,現代教養文庫(明治期の記事を文庫に収録)
『近代皇室の社会史 側室・育児・恋愛』森暢平,2020年,吉川弘文館
『<日本人>の境界』小熊英二,1998年,新曜社
『明治新聞事始め 「文明開化」のジャーナリズム』興津要,1997年,大修館書店
江戸東京博物館展示・収蔵品(常設展示は撮影・個人利用OK)