ハナちゃん ハワイへ行く #2
⛵️Sailing 2:ハナちゃん 婚活の大海原で漂流する
女の適齢期っていつ❓
「適齢期」とは何だろう。ネットで検索すると、「それをするのにふさわしい年頃。特に結婚に適した年頃」とある。その古い固定観念が、日本の女性をいまだに悩ませている。
昭和の話ではない。令和の今でもだ。
「結婚適齢期とは何歳位なんだろう」と思い、更に検索してみると、たくさん記事が出てくる。だいたい、25歳〜28歳あたりだろうか?
41歳で結婚した私にとっては、意味のない数字だ。
「恋人ができてタイミングがあえば結婚すればいい」と私は思う。
「結婚したいと思った時が適齢期」だ。
20歳で運命の人と出会うかもしれないし、私のように40歳で出会う人だっているだろう。その人の社会的状況や精神的な成熟度によっても変わってくるにちがいない。
しかしながら、自分ではそう思っていても、
日本ではまわりが許してくれない。
それに苦しめられている女性を何人も見てきた。
私もそうだったように。
子ども時代
私は子どもの頃から、なぜか結婚したいと思ったことがなかった。
そうは思いながらも、年頃になれば彼氏ができて、自然と結婚するんだろうな、ぐらいは思っていた。
今でもよく覚えている宿題がある。小学校6年生の時に担任の先生から「将来の夢」を考えてくるようにと言われた。
私は当時、絵を描くのが大好きだったので、絵描きか漫画家になりたいと考えていた。翌日、クラスメイトの前で皆で発表し合ったのだが、女の子たちの中には、「将来の夢はお嫁さん!」と真剣に答える子が結構いて、心底ビックリした。
そんな発想は私には全くなかったからだ。
「え?将来の夢がお嫁さんってどういうこと?なりたい職業とかやりたいことじゃなくて?」
今思えばその女の子たちは、「白いフワフワのウェディングドレスを着てお姫様になりたい❣️」とか、そんなかわいらしい発想からだったのだと思うのだが、普段からピンク色はキライ、ショートパンツ大好きだった私には、全く理解できなかった。
女の子らしいことが自分には似合わないと思っていたし、苦手だったのだ。
ちなみに、小学生の頃に大好きだったアニメは 『ルパン三世』。授業中はよく校庭の方を眺めながら空想にふけっていた。内容はいつもこんな感じ。
授業中、突然校庭の上空にヘリコプターがやって来る。ヘリコプターからはロープのハシゴが垂れ下がっていて、なんとルパンがつかまっている。緊急事態発生で、仲間の私を迎えに来たのである。
ルパンは私にむかって「早く来い!」と叫んでいる。私はクラスメイトが驚いて見ている前で、教室の窓辺から颯爽とハシゴに飛び乗り、カッコよく飛び去っていく・・・。
その日によってルパンが『キャッツ・アイ』の瞳になったりもした。どう考えても内容に無理があるのだが、そんな空想ばかりして楽しんでいた。
人生で出会った半分の人は、あなたのことがキライ
教育関係の仕事をしていた母は、いつも私の意見を尊重してくれる人で、子どもの頃に「ああしさい、こうしなさい」と口うるさく言われた記憶があまりない。
小学生の頃に友人とトラブルがあった時は、私から相談するまでそっと見守っていてくれた。なかなか言い出せなかった私は、お風呂の湯船につかりながら、やっと母に相談できたのを、今でもよく覚えている。
高校や大学で進路を決める時も、とやかく言われた記憶はない。
私が興味あることややりたいことを見つけると、いつも全力で応援してくれた。
私が人間関係で悩んでいた時、母が子どもの頃に祖母から教えてもらった言葉を教えてくれた。
「人生で出会った半分の人は、あなたのことがキライだと思って生きていきなさい」
母は小学校の担任の先生が、他のクラスメイトばかりをひいきするので、祖母に文句を言ったそうだ。すると逆に
「先生の悪口を言うな!」
と怒られた。
「よく考えてごらん。おまえだって、好きな友だちばかりじゃないだろう?」
と言われ、母はハッとしたらしい。
「小学生の私にさ、『半分の人はあなたのことがキライ』だなんて、ひどいことを言うよなってはじめはショックだったけど、よく考えたらそのとおりだと思って。今はそう言ってくれたことに感謝してるよ」
みんなから好かれよう、好かれなければならないと思いこんでいた私は、この話を聞いて心が軽くなった。
本屋に行くと、よく「こうすればみんなから好かれる」とか「誰からも好かれる方法」といったたぐいの本を見かける。その度に、私は祖母の言葉を思い出すのだ。
自分の信じる人、尊敬する人、大好きな人に好かれたら、それだけで充分だ。
母は私が大人になってから、子育てをする時に心がけていたことを教えてくれた。
それは「幼少の頃から一人の人間として接すること」だった。子どもだからできないだろう、分からないだろうではなく、一人の人間として接し、尊重してくれていたのだ。
母は「子どもなりに」という言葉が好きではない。「子どもなりに考える」「子どもなりに理解する」といった具合だ。
子どもは大人が考えているよりもずっと、ちゃんと考えているし、ちゃんと理解している。
3Gな私
両親とは仲が良かったが、いざ私が結婚適齢期と言われる年頃になると、母とは意見が合わなくなった。母はそれまで私のやりたいことをいつも応援してくれていたので、私が結婚したいと思う相手を紹介するまで、何も言わないだろうと勝手に予想していた。
ところが20代後半から、母から「早く結婚しなさい!」としょっちゅう言われるようになった。意外だった。
何度もお見合いをさせられた。近所の世話好きの年配女性がやっている結婚相談所や、市内にある大手結婚相談所にも登録させられた。
お見合いは20回以上はしたと思う。
知人の紹介なども合わせれば、もっと多いはずだ。
それでも私は断り続けた。べつに断りたくて断ったわけじゃない。
ビビビッとくる人がいなかったからだ。
断る度に母とは険悪になり、ケンカになったこともあった。
いつも父が「まあまあ・・・」と仲裁に入ってくれた。
今思えば、娘のために必死で探してきたお見合い話を、私はたった1回で断るのだから、母が怒るのも無理はないのかもしれない。
母にはよく、こう言われた。
「自分を鏡で見てみなさい。自分だって100%完璧な人間じゃない。
相手に100%を求めるのはおかしい。
6割気に入ったら結婚しなさい。
結婚してから好きになることもあるから」
母の言い分は一部理解できる。べつに自分が完璧だとは思っていないし、相手に完璧を求めているつもりもない。
ちょっとでも『この人いい感じ!』とか『また会って話してみたいな』と思う相手だったら2回、3回と会っただろうが、全く思えない相手とまた会っても、
時間の無駄である。
「6割しか気に入らない男性と、どうして結婚せなあかんの?」と思ったし、
「結婚してから好きにならなかったらどうするの?」とも思った。
ちなみに母は、父とはお見合いで結婚した。
断るつもりだったそうだが、占い好きの祖母の占い結果が吉と出たらしい。
母が大学の卒業旅行に行っている間に断るよう祖父母に頼んでおいたそうだが、祖父母はこっそりと縁談をすすめていた。
今の時代では考えられない話だ。
私は、しまいには母に「3G」とあだ名をつけられた。
「傲慢」「頑固」「ぐうたら」、それらの頭文字をとって「3G」。
うまいこと言うなぁ。
ずいぶん経ってから母にそのことを話すと、
「え?そんなひどいこと言ったっけ?」
と、すっかり忘れていたが・・・。
大好きだった祖父
祖父はとても優しくて、子どもの頃から大好きだった。
幼児教育の研究者だったが、祖父自身がまるで子どものように純粋な人だった。いつも好奇心に満ち溢れていて、キラキラと輝く目をしていた。とても不思議な魅力のある人で、周りのみんなに好かれた。あの包み込まれるような、くったくのない笑顔に、誰もが親しみと安心を感じたのかもしれない。
私は大学卒業後、教育系のコンサルティング会社に入社した。
その会社はもともとアメリカの会社で、人間の行動心理学をもとに様々なプログラムを開発し、企業の人材育成をしていた。
仕事内容はとても面白く勉強になったのだが、のんびりとした私の性格には営業職がどうしても合わず、お世話になった上司が独立するタイミングで私も会社を退職した。
次に私が選んだのは、大好きな祖父を手伝う仕事だ。私は会社に再就職するよりも、年老いてきた祖父を手伝おうと思ったのである。
前職とは畑違いな職場だと思っていたが、人材育成の知識はおおいに役立った。人生って無駄なことは何ひとつないんだなと思う。
祖父は私が手伝いはじめたことをとても喜んでくれたが、いっこうに結婚する気配のない私をとても心配していた。
ことあるごとに「早く結婚しなさい!」としょっちゅう言われた。
お見合いを何度しても相手を気に入らない私に、
「社会人になったら自然な出会いなんてそうそうないで。5割6割よかったら良しとせな。完璧な人なんかおらんおらん!」
と言ってみたり、
「昨日の夜、白い観音様が出てくる夢を見た。
おまえが結婚相手と出会う日が近いってことちゃうか。
次のお見合いは断るなよ!」
と言ってみたり。しまいには、
「どこかにおまえのハートをギューっとつかんでくれるような男はおらんのかのぉ?」
と、ため息まじりに言われたりした。
それでもしつこく結婚しない私に、
「おまえは勇気がない。そんなに悩まんと、とりあえずパッと結婚したらどうや?離婚してもいいからとりあえず結婚してこい!
離婚してもどって来たら、おじいちゃんが面倒みてやる!
人生は迷ってないで、勇気を出して崖からダイブや!」
と言われた。
フェミニストが聞いたら怒り出しそうなセリフだが、私は大正生まれの祖父らしい豪快な言葉に、怒るよりも笑ってしまった。
夢見る夢子ちゃん
学生時代のように、好きな人と自然に出会って結婚することは、そんなに不可能なことなのだろうか?もういいかげんに大人になって、現実的になり、条件のいい人とお見合いでもして、さっさと結婚するべきなのだろうか?
私はただ好きな人と結婚したいだけなのに、どうして誰も分かってくれないのだろう。私の方が変なのかな?
私には、どうしても「好きでもない人と、とりあえず結婚してみる」という選択肢が理解できなかった。母や祖父の意見が理解不能だった。
その頃、母からは3Gに加えて、もう一つ不名誉なあだ名をつけられた。
「夢見る夢子ちゃん」だ。私の考え方は、母からみれば非現実的な夢物語だったようだ。
20代から30代は、私にとっては「宙ぶらりん」の中途半端な時代だった。
暗中模索、五里霧中という言葉がピッタリだ。
自分の将来の夢が何かもよく分からない中で、とりあえず前に進みたい。
生涯をかけて夢中になれる何かを見つけたい。
精神的にも経済的にも自立した、自信に満ちあふれたかっこいい女性になりたい。
でも自分の意志とは関係なく、「結婚」という言葉が体にまとわりついてうまく前に進めない。お見合いまでして結婚なんてしたくない。
でもそれを最初からきっぱりと断れるほど、私の心は強くもない。
歳を重ねれば重ねるほど、周りからのしめつけがきつくなっていく。
周りに悪意がないことはよく分かっている。みんな私のためを思って言ってくれているんだ。だから余計にどうしたらいいのか分からなかった。
それはまるで真っ暗な夜の海を、行き先も分からないままに、一筋の光を探し求めてぐるぐると彷徨っているかのようだった。終わりが見えず、永遠に続くように思え、怖しかった。
婚活狂騒曲🎶
その頃、ちょうど日本は「婚活ブーム」のまっただなかだった。
ネットや雑誌、テレビの特集は婚活・婚活・婚活!
婚活という文字を見ない日の方がめずらしいくらいだった。
私は大学卒業後、5年間つきあった彼氏がいたのだが、29歳の時に別れた。
彼は大学時代から仲の良かった友人の1人だった。就職後に彼が東京へ転勤になり、遠距離恋愛を続けていた。
結婚の約束をし、お互いの両親と食事もしたのだが、きっと彼とは縁がなかったのだろう。
「まだ20代だし、結婚するにはちょっと早いよね」
なんて話しているうちに、だんだんと熱が冷めてしまった。
それ以来、私はずっとシングルだったのだが、周りから「婚活したら?」「どうして婚活しないの?」と言われ続け、
「シングルだったら当然婚活すべきだ」という世間の風潮にうんざりしていた。
小さい頃から「マイペース」「のんびり屋」と言われ続けた私は、
最初は「私は私、人は人!」と気にしていなかったのだが、
とうとうマスメディアや周囲に洗脳され、婚活をするようになった。
あの頃の私は、友人知人に会えば「誰か紹介して!」とお願いしまくっていたから、今思えば面倒なヤツだったに違いない。
お見合いや紹介だけでなく、インターネットのマッチングサイトにも登録し、
三人の男性と会った。
三人目の男性と京都でランチを食べている時に、「この人は絶対にヤバイ人だ」と途中から気づいたが、タクシーで自宅前まで連れて行かれた時には、その場からあわてて逃げ出した。
彼が運転手さんに行き先を「○○学校の前まで」と言ったので、地理感覚のない私はてっきり駅の近くかどこかまで行くのかと思ったのだが、降りてみたら彼の自宅前だったのだ。
逃げ出した直後に彼から「勇気がない人ですね」と携帯電話にメッセージが届いた時には、鳥肌が立った。
知らない場所でひとり途方に暮れたが、なんとか駅までたどり着いた時にはホッとした。この一件以来、ネットでの婚活は恐ろしくなってやめた。
兎にも角にも、婚活と聞いて思いつくことは全部やった。
婚活の落とし穴
私は婚活をすると、いつか彼氏ができて結婚できるかもと思っていたが、なかなかそう単純にはいかなかった。
「婚活をしても彼氏ができない私」「結婚できない私」にとても焦りはじめ、自信がなくなり落ち込んでは、自分で自分を励ます、の繰り返しだった。
「好きな人と出会って、相手も私のことが好きで、相思相愛。おまけにタイミングが合って結婚する」なんてことは、この世の奇跡のように思えた。
私にはもう無理かもしれない。
ニュースや雑誌では「今は晩婚の時代だ」「結婚しない女性が増えた」「仕事を生きがいにしている女性はかっこいい」なんてしょっちゅう言っていたが、気がつけば周りの友人達はみんな結婚し、残ったのは私ひとりだった。
それまでよく会っていた友人も、結婚したり子どもができると、自分や家族のことで精一杯になり、疎遠になってしまう。
私は社会人になっても、年に一度は友人と旅行に出かけていたが、だんだんと一緒に行く相手がいなくなってしまった。
友人達はみんな、次のライフステージに進んでいるのだ。私だけが変わらず同じ場所にいる。このまま10年先も同じ場所にいたりして。
そんなことを考え出すと、ますます孤独を感じた。
こうして婚活をしてもなかなか運命の人に巡り会えなかった私は、30代半ばからは仕事を生きがいに過ごすようになる。
職場では主任になり、責任が増えて大変だったが、楽しかった。毎日寝る間も惜しんで働いた。朝7時過ぎには出勤し、夜遅くまで働いた。休日出勤もしょっちゅうだった。
仕事はやりがいがあったし、職場の人間関係にも恵まれていたので、自分にとってこの仕事は天職だと思っていた。
でも今思えば、天職だと思い込もうとしていたようにも思う。
ひとりぼっちの自分に、居場所を与えようとしていたのかもしれない。
その頃になると、両親は私の結婚をほぼあきらめたようだった。私は三人兄妹の長女で、他の二人はとっくに結婚していた。父は、
「一人ぐらい結婚しなくてもいいやろ。ハナは実家に残って将来お父さんの面倒を見てくれ」
と言いながら、ワハハと笑った。
私はというと、「やっぱりこの年齢になると学生時代のように自然と出会って恋愛結婚するなんて、夢なのかな」と思いはじめ、「もう夢見る夢子ちゃんでもいいや!」と開きなおっていた。
久しぶりのお見合い話
そんな頃、お見合い話がやってきた。母が知人にお願いし、やっと探し出してきたのだ。
相手は40代で、大学教授だった。将来とても有望らしい。
まだ会ってもいないのに母は大喜びして、うれしそうに
「そんな歳で教授なんてすごい人だね!もう結婚したら?」
とウキウキ騒いでいた。
中国地方に住む人だったので、新大阪駅から新幹線に乗って、遠路はるばる会いに行った。まるで小旅行だ。
待ち合わせ場所で会った後、二人で植物園に行き、ブラブラと散歩しながらお互いについて話した。のんびりとした雰囲気の、感じのいい人。
物理学の難しい研究をされているそうで、少し説明してくれたが、私にはさっぱり理解できそうもなかった。
夕方になり、駅の近くのお蕎麦屋さんで夕食を食べる。テレビでは相撲中継をしていて、彼は真剣に見始めた。なんでもお父さんが相撲ファンで、その影響で彼も好きになったらしい。私は相撲をよく知らなかったので、テレビの画面をただ眺めていた。
駅での別れ際、どうしようかと悩んでいたら、彼が突然こんなことを言い出した。
「僕は今、大学の寮に住んでいます。家族向けの部屋だから、僕一人で住むには広いので、よかったら結婚して一緒に住みましょう。毎日僕のために手料理を作ってください」
私はとてもビックリした。まさか今日会ったばかりの人から、突然プロポーズをされるとは思ってもみなかったのだ。
何と答えたらよいのか見当もつかなかったので、とりあえず返事を保留してもらい、新幹線に飛び乗って家路についた。
新幹線の中では、いろいろな選択肢が頭に浮かぶ。
もし結婚したら、大阪での今の仕事を辞めなければならない。でも姫路や明石あたりに住めば、通えるかもしれないぞ。
そういえば知り合いに姫路から大阪へ通勤していたすごい人がいたっけ。
いやいや、なんぼなんでも、私にはかなり無理がある設定だ。
彼がそれをOKするとは思えないし。
もし結婚して仕事を辞め、彼と大学の寮に住んだら、私は毎日ひとりぼっち。
部屋でテレビでも見て時間をつぶし、彼のために毎日料理を作るのか・・・。
想像しただけでつまらない人生のように思えた。
そこまでして、結婚ってしないといけないのかなぁ。
「毎日僕のために手料理を作ってほしい」というセリフも、なんだか少し気になった。私はまるで住みこみの家政婦みたいだ。
父親の影響が大きいと自分で言っていたから、もしかして亭主関白だったりして。だとしたら、絶対に私とは性格が合わない気がするな・・・。
帰宅すると両親が待っていて、早速どんな相手だったのかと聞かれた。期待をまた裏切ったら悪いなと思いつつ、正直に悩んでいることを伝えた。
私はそれまで、どのお見合いや紹介話も最初の一回ですぐに断っていたのだが、
今回はなかなか答えが出せなかった。
めずらしく悩んでいる私を見て、父がポツリと、
「おまえもそろそろ年貢の納め時とちゃうか?その人と結婚したらどうや」
と言いだした。以前は「結婚せずにお父さんの面倒を見てくれたらいい」と笑いながら言っていた父にそう言われ、私はなんだかよく分からないが悲しくなって、
ポロポロと泣いた。
結局、散々悩んだあげく、断ることにした。両親は落胆した様子で、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
当時の私は仕事が楽しくてしかたがなく、仕事を辞めて大学の寮で過ごしている自分を想像できなかったのだ。
30代になると、仕事が面白くなってきて婚期を逃すと聞いたことがある。
今思えば、単純な性格の私は、まさしくその王道を突き進んでいたように思う。
今思えば、大好きな家族の住む大阪を離れ、長年勤務し頑張ってきた仕事を辞めてまで『結婚する』ということに価値を見い出せなかったのだろう。
彼は優秀で心優しい人だったのだが、今までコツコツと積み上げてきた環境を捨ててまで彼と結婚し、一から人生を始める理由を、私には見つけることができなかった。
これは私が34歳の時の出来事である。
最初の結婚相談所で女性相談員が私に忠告した、「女性の価値が下がる」という、あの34歳だ。
これ以降、本当にパッタリとお見合い話は来なくなった。
祖父の足の裏
その後、細々と婚活を続けてはいたものの、例の「とどめの一撃男」と36歳で出会った後は、もうすっかり結婚をあきらめた。期待することに疲れたのだ。両親ももう全く話題にすらしない。
やっと平穏な日々が訪れたのである。長い道のりだった。
もういいや!私はやっぱり仕事に生きよう。
それがきっと私の運命なのだ。
その頃、大好きだった祖父が突然他界してしまった。生前、
「早く結婚相手を見つけておじいちゃんのところへ連れてこい!」
とよく言っていたのだが、願いは叶わずじまいで、今でも心残りだ。
祖父は入院先の病院で亡くなった。夜中だった。
私たち家族は急いで病院へ駆けつけたのだが、祖父はもうすでにこの世にはいなかった。私たちが到着するまで、先生は延命装置をつなげて待っていてくれたのだが、祖父の身体から魂がぬけ出た後であることは一目瞭然だった。
延命装置のわずかな心拍を知らせる機械音が、ピッピッと虚しく病室に響いていた。
私は身近な人の死に直面したのはこれが初めてだった。
その時に思ったことが二つある。
一つは、魂は存在するのかもしれない、ということ。
病室の中で祖父の気配が何となくしたからだ。
祖母が生前、
「人間はいつか死ぬ。でも、だから人生は面白いのよ。いつまでも生きていたって面白いわけがないじゃない!」
と豪快に言っていたように、人間の寿命には限界がある。でも、もしかすると魂は存在するのかもしれない、と思ったのである。
もう一つは、祖父と祖母の絆の深さ。
私の祖母は長い間病気を患い、ほとんど自宅から出ることはなかった。
たまに外出する時には、いつも車椅子に乗っていた。
数年前、祖母の足の指が壊死しかけたことがあった。祖父は当時、自分自身も大病を患い大変な時期だったのだが、祖母の足を清潔に保つために毎日タライで洗ってあげていた。祖父のおかげで、祖母の足の指はだんだんと快方へ向かった。
でも今、病室のベッドの上で横たわっている祖父の足の裏は、ひどくガサガサしていて、あちこちヒビ割れている。とても硬そうだ。自分の足の手入れはそっちのけだったのだろう。
私は普段は見る機会のなかった祖父の足の裏を見た時に、祖母への愛情の深さを知ったような気がした。
祖父が満面の笑顔で
「どうや!おじいちゃんが毎日頑張って洗ったから、おばあちゃんの足の指はキレイになったんやぞ!」
と自慢気に話していたことを思い出し、涙が溢れた。
祖父が亡くなってからわずか11日後、祖母は亡くなってしまった。きっとあとを追ったのだろうと思う。食事を摂らなくなってしまったのだ。あんなに食いしん坊のおばあちゃんだったのに。
戦中戦後の大変な時期を生き抜いた祖父母だったが、きっと幸せな夫婦だったのだろうと思う。
祖父は自分の信じた道をコツコツと歩んできた人だった。幼児教育について尋ねると、いつも子どものように目をキラキラと輝かせながら答えてくれた。
そんな尊敬する祖父が他界してしまい、私は目指すべき一番星を失ってしまった。なんだか心にポッカリと穴が空いてしまったような気分だった。
さて、これからどうしよう。
やっと結婚をあきらめ、平穏な毎日を過ごしていたはずだったのだが、しばらく経つと、このままではいけないような気がしてきた。
相変わらず自分なりに仕事は頑張ってはいたものの、思い描いていたようなかっこいい自立した女性になんて、私にはなれそうもない。
毎日が、ただ過ぎていくだけだ。
仕事をいくら頑張っても、私にとっては「仕事の充実=人生の充実」に100%は結びつかない気がした。自分の人生を犠牲にしている気がして、なんだか虚しい。
「もっと大切なことが他にあるんじゃないのか?」「もっと自分を大切にしないといけないんじゃないのか?」と思い始めた。
恩師に励まされて
ちょうどその頃、長年お世話になっていたアメリカのカリフォルニア州立大学の恩師にお会いした。彼女と祖父は今から30年近く前にスイスのジュネーブ大学で開催された学会で出会った。それ以来、毎年二回、大阪を訪れて講演して下さるようになった。彼女の講演内容はとても面白くて、私は毎回楽しみにしていた。
彼女は戦後間もない頃に単身渡米し、アジア人だからとひどい差別を受けながらも名誉教授にまで登りつめた、エネルギッシュな太陽のような人だ。彼女の人生のストーリーは、ここではとても表現しきれないのだが、とにかく私は彼女のことをとても尊敬していた。
私のことを娘のようにかわいがって下さり、「アメリカのお母さんだと思ってね」と言われた時には、とても嬉しかった。
彼女は私が今後について悩んでいることを知ると、こうアドバイスしてくれた。
「結婚するつもりがないなら、それはそれでいいのよ。日本では結婚しなさいとうるさく言われると思うけど、そんなの放っときなさい。あなたがやりたいようにやればいいの。でもこれからの時代、日本でも女性がひとりで生きていくつもりなら、もっと専門分野を勉強して身につけなさい」
それ以降、日本の学会に参加する時には必ず声をかけて下さるようになった。
ある日、彼女からメールが届いた。アメリカで開催される学会に一緒に参加しないかとの誘いだった。
私は一瞬悩んだが、「面白そう!」と思い、すぐに行くことに決めた。
その学会での出会いが、のちに私をハワイ留学へと導いてくれるとは、この時は思いもしなかったのだが。
チャンスの神様
アメリカでの学会に参加した後、再び恩師からメールが届いた。
もしも私が望むなら、学会で出会った教授のいるハワイ大学大学院に、聴講生として留学してみないかと書かれてあった。突然のことでとても驚いたが、私の将来のために色々と考えてくれていることに感謝した。
それからの私は、悩んだ。悩んで悩んで悩みまくった。
今までたいしたことはしてこなかったが、それでもコツコツと積み上げてきたことを、手放さなければならない。
当時一緒に働いていた母のことが一番気がかりだった。母は祖父が他界した後、教育施設の長となり、私はそのサポートをしていた。母はその頃70歳近かったし、私が抜けてしまったら迷惑をかけてしまう。
そんな時、恩師から言われた言葉を思い出した。
「自分のことだけを考えなさい。家族のことは考えないで。みんなそれぞれに人生があるのよ。いずれ私やお母さんはあの世へ逝くんだから。あなたは一人でその先も生きていかなければならないの。周りの人たちの期待に応えようとしないで。もっとわがままになってもいいんですよ」
さらに、悩んでいた私の背中を、母がポーンと押してくれた。
「こんなチャンスは滅多にあることじゃない。一生に一度、あるかないか。『チャンスの神様は前髪しかない(※)』って言うやん!迷わずに行きなさい。あとはなんとかするから!」
こうして私は、留学することに決めた。
38歳の秋だった。
後に母は、こんなことを打ち明けてくれた。
「あの時に留学に行かないと、ハナちゃんは仕事に人生を捧げると思った。
それももちろんいいと思うけれど、母親としては、結婚したり子どもを産んだりして、自分の家族を作ってほしいと思ったのよ」
結局私は、留学先のハワイで夫と出会い、41歳で結婚することになる。
人生って何があるか分からないなとつくづく思う。
注釈(※):ギリシャ神話に由来していることわざ。英語では“Take time by the forelock.”や“Seize the fortune by the forelock.”と言い、チャンスの前髪をつかめ、好機を逃すな、という意味。
一番星に導かれて
唐突だが、私の大学時代からの友人は、ちょっと不思議なパワーの持ち主だ。
在学中は知らなかったのだが、卒業してからこっそりと教えてくれた。
未来を予知したりはできないらしいが、なんだか色々と分かるらしい。
留学が決まって、数年ぶりに彼女に電話した。春からハワイ留学に行くことを伝えると、彼女は突然に、
「あ、それ、おじいさんがハナちゃんをハワイに呼んでるよ」
と言い出した。祖父が亡くなったことなど伝えていなかったので、私は驚いてこれまでの出来事を話した。
「どうして分かるの?」
と私は思わず聞いた。彼女は笑いながら、
「どうしてかは、分からない。でも、おじいさんが呼んでいるのは分かる。
天国から、ハナちゃんがハワイに留学できるように、助けてくれたんじゃない?」
と言うのだ。
「なんだか次々に偶然が重なると思ってた!そうか。おじいちゃんが私をハワイに導いてくれていたのか」
電話を切った後に、鳥肌が立っていたのを覚えている。
恩師からアメリカの学会に誘われて以降、私にはラッキーな出来事が次々と起こっていた。
その頃私は、留学に向けて英会話学校に通っていた。そこで出会った先生が、ハワイ出身の日系人だったのだ。今まで英会話学校には何度か通ったが、ハワイの日系人の先生は初めてだった。
彼は私がハワイ留学に行くことを知ると、現地のアドバイスを色々としてくれた。
それだけでも幸運だったのだが、住む家が見つからずに困っていると、彼の所有するコンドミニアムを貸してくれると言うのだ。
今は他の人が住んでいるが、ラッキーなことに私が行く頃には出るらしい。
しかも、その頃のハワイは物価が上がっていて、彼は次の入居者から家賃を上げる予定だったそうなのだが、「そのままでいいよ」と言ってくれた。
そのコンドミニアムは立地条件も最高で、ハワイ大学までほぼ一本道で歩いて行けた。私は即答でOKした。
次の幸運は、職場の知人がハワイに住む親友を紹介してくれたことだ。現地にひとりも知り合いがいなかった私には、とても心強い話だった。
その親友の夫はハワイ大学で准教授をされていて、この出会いがのちに、私が留学中に大変お世話になるある教授との出会いを導いてくれるのである。
人生、何があるか分からない。
こんな感じで月日はあっという間に過ぎていき、留学する頃には私は39歳になっていた。
出発日は偶然にも祖父の誕生日だった。