丸ごとの自分
岡田 行雄さんからおおくりいただいた、「少年犯罪被害者になって」西鉄高速バス・バスジャック事件被害者の講演録を拝読した(熊本法学 第149号)。
印象に残ったのは以下
救急で入った病院での看護や医療の体験から
「それまでの私は、頑張っている自分はよい、頑張らない自分はダメなんだ、そう思って生きてきました。でも、私には頑張れない時もあり、そういう時、一々を過ごした後に『はー、今日はだめな私だったなあ』と落ち込む私がいました。でも、人って、頑張っていると頑張れない時もどちらも自分なんですよね。だから、自分を丸ごとっていうんですか、なにっもできない自分をこんなに大切にしていただいてありがたいなあと思うと同時に、『大丈夫なんだ』と、なんとなくそう思えたんですね。
それまで、頑張らない人をみたとき、ダメな人だなと思っている私がいましたが、そう思う私は本当に傲慢だったなあということに気づきました。やはり、生きているということは、それでだけですごいことですし、命があるということがすごいことだということを、病院にいる時に感じたんですね。でも、これは頭を通していないものですから、よくわかっていませんでした。」
これは栗田隆子さんの以下のビデオで触れておられるように、妬みや嫉み、嫌な自分もであっても神は愛してくださる、というところとつながる、同じ思いかもしれません。
私自身はこの歳になるまで、精神障害者差別に負けてたまるか、差別と闘う立派な精神障害者でなければならない。仲間のために闘う、活動の利益は大衆へ不利益は活動家へなどなど、硬い鎧で身を守ってきたほんとやな女。
それゆえ、周囲にもそうした姿勢を求め続けてきたのかも
実際は褒められると天まで登るって有頂天、もっともっと褒めて、貶されると落ち込む、金も名誉も男もほしいという俗物なんですよね
でも違うんですよね。丸ごとの自分を認める受け入れるということは。そういうやな女をも丸ごと自分であると認めること抜きに、本当に寛容であることなどできるはずないし、共に生きるということなどありえない。
やっと67にもなってそれに気づくとは、本当に迂闊。やな女。
精神障害者権利主張センター・絆 会員 世界精神医療ユーザーサバイバーネットワーク理事