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【2021/7/24】幸せって何ですか【後編】

前編はコチラです。

きっとこうなれば幸せだと、幸せを定義してみる。
定義を仮説を立てて実証してみるのが人生だと、そう考えた。

〇〇ならば幸せである。
✕✕ならば不幸せである。

その幸せの仮説を立てたとき、もしかして今我々が生きている世界は仮の世界であり虚構ではないのかという考えが浮かんできた。これはSF的なことではなくて、今見えている世界や他者との関係性は当てにならない(確かではない)という背景が見えたからである。

本来のあるべき姿(なりたい自分やそうありたいと願う自分)と、今ある自分(自己評価)と、周りが見ている自分(他者評価)はいつだって一致しなくて、それはもう、自分自身の存在さえ「仮(借り)」モノであるという可能性が出てきたのである。

「gimmick」にはそういうベースがあった上に、それぞれのキャラクターの幸せを考えてみたり、過去の著名人が説いた幸せの定義を調べてみたり、そしてわたし自身の幸せを塗してみたりした結果、生み出せた物語である。

もうひとつの視点は「幸せ」を自分事としてとらえるか、他人事としてとらえるか、ということ。”誰か”の幸せを自分のことのように喜べる人もいれば、そうでない人もいる。人のために行動することに”幸せ”や喜び”を感じる人もいれば、自分が”地位”や”名声”、”お金”を手に入れることが一番の目的である人もいる。

一般的には、建前として言えば、”人のために”何かをすることが美しいことであり、何事も自分事として考えることが望まれる世の中ではある。だけど、本当にそうであろうか。それが正しいと言えるのか。この問いはずっと頭から消えなくて、締切りだと考えていた期日になっても、答えが出なかった。

本心は他人事な人たちが自分事の人たちにどうにかして成敗されるエンディングを書きたかった。ハッピーエンディング。そうしたほうが分かりやすいし、意図が伝わりやすい。でもどうしてもそうできなかった。だってそれは”悪”ではないから。それが犯罪に繋がるのであればもちろん悪だが、思想としては悪ではないし、むしろそういう側面を誰しもが持っている。

「幸せ」だけではなくて、何事に対しても人は”自分軸”と”他人軸”を持っていて、それをバランスよく測ることができる人が優秀なのかもしれない。どっちかに極端に偏ると精神が不安定になったり、孤立してしまったりするのではないだろうか。

そんなことを悶々と考えている時点ですでに”病んでいる”だの”大丈夫?”だの言われそうだけど、それをあーだこーだとわざと難しく考えているからこそ脚本が書ける。書いているからこそ、病まずにいられるのだ。

わたしは”他人事”人間だから。どこか自分のことも他人事で見ているのかもしれない。だから自分の幸せが定義できないのかもしれない。

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【舞台イメージ図】
見た人にしか分からないし、見た人も分からないかもしれないメモ。
ここからもかなり変わったね。

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