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【2021/6/10】話し相手、いる?

いるようでいない。
いても使っていない。
いやむしろいない。
いるかもしれないしいないかもしれない。
そもそもいる?

自分に『話し相手』がいるかどうかを確認したり、改めて自覚することはあまりないかもしれない。それはいることが当たり前だと思っているからか、それとも普段そんなことは考えもしないのか。そのどっちでもあるだろう。

先日おそらく親友と呼べるレベルの、同窓生でありライバルであり大切な存在である友人と話した。この場合の「話した」はLINEでのビデオ通話である。ビデオ通話というと「話した」よりは「会った」に近く、でも実際には会ってはいないという、何という表現が適切なのかいまだによく分からないジャンルの”会”である。

その友人とは近くに住んでいないし、頻繁に連絡を取るわけではないが、こういう状況になる前は、機会があれば会いに行ったり来てくれたりしていた。だからと言って長い間ご無沙汰というわけでもなく、ふと思い出してちょこちょこ連絡を取り合うような関係性である。お互い会わない間にネタをためて、会ったら一気に放出するという会が開かれる。

実際に会って話しているとお店の状況もあるし(外だとあまり下世話な話は…ねえ)、電車の時間にも制限あって、すべてを話し切ることは到底できない。お蔵入りしてしまうネタもある。

だが、先日は家の中。
実質制限時間なし。

過去に語りつくしていた気分になっていたけど、実はまだ出していなかった伝家の宝刀みたいなネタも飛び出すわ飛び出すわで…。

気付いたら5時間近く話していた。そして電話を切った(正確には充電が追いつかず切れてしまった)後に思った。

わたしには話し相手がいる。

と。

しかも下らないネタからちょっとシリアスな話までをも網羅し、見栄を張る必要もなく、思ったことをそのまま言い合える、話し相手が。

大抵の人は、友達がいるだろう。だけどそれは=話し相手とはならない気がした。友達のカテゴリーは広いし、人によってその分布は変わる。友達という広大な土地に、「話し相手」「知人」「親友」「お茶友」「バイト仲間」いろんな区画があって、それが重なったり離れたり消滅したりしながら組織立っている。もしかしたら、友達じゃないけど、話し相手な場合だってあるだろう。とってもデリケートな世界だなと思う。

わたしには話し相手がいるし必要だとも思うけど、わたしの友達はどうだろうな。

友達は飲んだ缶ビールを積み上げて、フレームにしていった。徐々に友達の見える顔が減って、6本飲み切った暁にはまったく見えなくなった。(トップ画面参照)

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