【2021/5/8】作品は恥部なのか論
わたしは物語を書く、いわゆる脚本家でもある。
”でもある”と表現したのは、それだけで生業となっていないからであって、本当は「脚本家です!」と大声で言いたい気持ちもあるし、かと言って脚本家一本で生きていけると思うほど自惚れておらず、さらには同時に他のこともやっていきたいという戯け者でもある。
脚本、と言っても、映画、ドラマ、ラジオ、舞台、様々なフィールドがあって、さらに、原作があるもの、オリジナル、共同執筆、その内容も多岐に渡る。
映像系はプロデューサーがいて、監督がいて、脚本家の意図のままに表現されることはほぼない。ある程度の枠組みがあって、メインキャストが決まっていて、打ち合わせしながら作り上げていく(ことが多いと思う。実績があまりないので確かではない)。
上記のようなケースの舞台(特に商業系)もあるけれど、一番ありのままの脚本で勝負できるのは舞台ではないかと思う。脚本家と演出家が違う場合はあれど、書き変えてほしいという依頼はあれど、やっぱり書かれたものが忠実に表現されるほうが圧倒的に多いように思う。
だからこそ、舞台の脚本はとても勇気がいる。
自分の考え、思想、センス、すべてにおいて責任が重くのしかかる。
極端に言うともうそれは恥部をさらしているような感覚に近い。
脚本を読んだ役者が、舞台を見たお客さんが、「あぁこの脚本を書いた人はこんなこと思ってんのねぇ」ってモロバレするから。もちろんいろんな解釈が出来るように書いていたり、自分の考えと敢えてズラしてみたり、直接的には表現しないようにはしている。だけど、物語の芯(真)になる部分は抑えたつもりでも、やっぱり思いが溢れちゃうから。それにその思いがないと書けやしないわけだから。
役者に読んでもらうとき、本当に本当に、恥ずかして、怖くて、ビビっている。これは自分の作品に自信がないと言うのとはちょっと違っていて、料理と同じ感覚というのだろうか。
このカレー美味しいのは美味しいけど、もっと辛い方が私の好みです。
みたいな感じが多分作品にもある。
ストーリーは面白いけど、もっとコメディっぽいのが好き。
ミュージカルも楽しいけど、ストリートプレイのほうが好き。
喜劇も好きだけど、考えさせられるような話のほうが見たい。
とか。
ある程度作品の紹介があったとしても、フタを開けて見てみないと、生で感じてみないと、面白さや空気感が伝わらないのが舞台で、しかも毎回変化していくもの。
その味のベースをつくる脚本が役者の好みに合えばいいなぁと思う。全員は無理だとしてもできるだけ。それが合わなくてもやるのが役者だし、演出家に求められるものを表現するのが役者。それでも、出来る限り脚本の上で楽しく踊ってほしいと思うし、作品を愛してほしいとも願う。
恋愛にも通じるものがあるのかもしれない。こんなわたしの全てを愛してよ、みたいな。恥部をさらすとか(笑)
自分が書いた作品って、自分のドキュメンタリー作品を作るより、恥ずかしいと思う。自分のことならペラペラ話せるし、基本的にあんまり隠し事をしないタイプだから抵抗がない。不思議と、書いた作品を見せるほうがハードルが高い。妄想も含めて詰め込んでいるからなのか、心の奥を抉りながら書いているからなのか、自分の子どもだからなのか。
恥部ですよ。
やっぱり。
見せといて反応が気になるし(笑)
でも恥部さらしながら生きていくしかないのですよね。
書く人間は。
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