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[70MD]さとう宗幸さん
青春の幻影
私にとっての『宗さん』は、青春の日に見ていた幻影です。
ファンというものは、押しかけ女房みたいなもので、その人自身とは関係なく出来ていくものです。私は、彼の中に歌手の理想像を自分勝手に作り上げていたに過ぎないのですが、それでも、ファンでいることを諦めた時には大きな喪失感を感じたものです。
これまでの4組とは違って、私がこれから彼について語ることは、彼を選んだことについての後悔と真正面から向き合うことに他なりません。そこには、彼が身を置いた特殊な環境による影響が大きかったにしても・・・。
閉じた活動範囲
彼の名前は、「青葉城恋唄」のみで知る方がほとんどだと思います。それしか流行っていませんから。
そして、メジャーデビューしてからも、彼は東北地方以外ではほとんど単独でのコンサートを開いていません。
普通のアーチストならば、当たり前のようにある全国ツアーも、彼の場合は聞いたことがないのです。さらに、毎週月曜日から金曜日までの夕方は、ローカル局の情報番組の司会をしていると聞きます。それではコンサートはほとんどできなくなる。
彼にとって、コンサートとは何なのか。歌とは何なのか・・・。私はずっと考え続けることになりました。
下積み時代に他のアーチストたちと一緒に活動した経験もないようです。ある番組でフォーク歌手たちが下積み時代の話で盛り上がっていた時にも、彼だけは全く交流がなかったらしいと感じたことがあります。
この人は、非常に特殊な環境にある人なのだと、その時にも思いました。東北地方の方の引っ込み思案、とでもいったらよいのでしょうか。とにかく、人とのお付き合いが長続きしない。作詞家・作曲家とも一度きりの人が多いように見受けられます。それでは、オリジナル曲は生まれにくいはずですよね。
「青葉城恋唄」誕生エピソード
彼は、地元の大学に進学。歌声喫茶で歌声リーダーのアルバイトをします。卒業後、一旦は東京のボーリング場に就職しますが、東京には馴染めず、半年ほどで仙台に帰ってしまいます。
地元でライブハウスを経営しますが、結局は無くしてしまったとのこと。
以降、地元でメンバー3人だけの音楽集団を結成して活動していました。
当時、NHKの各地方局では、毎週土曜日の午後に「FMリクエストアワー」という番組をやっていました。聴取者からハガキでリクエストをもらって、その曲をかける、という番組です。
1977年、宗さんは、仙台放送局のその番組の司会に抜擢され、聴取者から歌詞をもらって、曲をつけるコーナーを任されます。その中からできたひとつが「青葉城恋唄」。
当初は、この歌に目をつけたダークダックスが先にシングルカットして、宗さんはアルバムに入れるだけということで話がついていたらしいのですが・・・。
たぶんレコード会社が放っておかなかったのでしょう、あとから宗さん自身がシングルとして出した。そして、宗さんのほうが有名になってしまうのです。運命とはわからないものですね。
ただ、私もやはり「青葉城恋唄」は、どこか前のめり傾向のある真っ直ぐな宗さんの歌い方のほうが気に入ってました。
そして宗さんの「青葉城恋唄」は、あれよあれよという間に大賞受賞レースに駆け上っていきました。
同年は、渡辺真知子、サザンオールスターズ、世良公則&ツイストがデビュー、その数年前から井上陽水、さだまさし、吉田拓郎、中島みゆき、松任谷由美など(敬称略)が活躍しており、『これからは、ニューミュージックの時代だ!』とか言われたものです。
また、この年はマグニチュード6の宮城県沖地震が起きて、「青葉城恋唄」は仙台の人たちにとっての心の支えにもなったようです。
歌手の理想像を託して
そんな宗さんに、私は歌手としての理想像を託しました。
歌詞カード無しで分かる歌い方、透き通った歌声、旅の歌をレパートリーにできる歌唱力・・・すべてが揃っているように思えたのです。
「青葉城恋唄」アルバムは、旅の歌を集めて作られました。当時は、ギター教本もたくさん出版されており、私はこのアルバムの教本でギターを覚えたのです。16分音符を含む1曲を除いて、全部コピーしました!自費制作のものを除くアルバムは、8枚目までタイトルすべて言えますよ。(少し自慢)
3枚目のアルバム「歌詩人」は、作詞家の山川啓介さんが全曲歌詞を提供して作られました。(中村雅俊さんの「ふれあい」や、のちに「聖母たちのララバイ」、「銀河鉄道999」を作った人です。)
宗さんが、もともとシャンソン、特にジョルジュ・ムスタキさんを敬愛していることを踏まえたと思われますが、このアルバムではシャンソン傾向の強い歌詞を提供しました。
歌詞は時に歌い手を成長させることがある・・・。私は「歌詩人」において、そんなことを思います。宗さんの歌は、包容力のある豊かな歌唱になっていきます。
ホップ、ステップ、・・・?
それに水を差したのが、ドラマ「2年B組 仙八先生」です。私から言うのもおこがましいかもしれないけれども、宗さんが最も成長できたかもしれない大切な1年を、このドラマ出演は潰してしまった。
人には、勢いというものがあります。今も活発な活動をし続けている人たちは、ほぼ『複数の歌を続けて流行らせることができた』人たちです。
宗さんにも、本当は「青葉城恋唄」の熱が冷めないうちに、別の歌が必要だったのです。
何度もオファーに通ったというテレビ局の方を、私は恨みます。
シンガーとして・・・
8年後のアルバムもよかった。前年には、クラシカルコンサートで成長した歌唱力を見せてくれた宗さん。8枚目は、小説家の伊集院静さんが奥様の夏目雅子さんを悼んで作った歌詞に曲をつけます。
でも、それ以降は、出すもの出すもの「全曲集」ばかり。ほとんど再収録です。レコード会社がそういう企画力のない歌謡曲系の会社だったこともあるのでしょうが、私はだんだんイヤになってきました。
現在は、誰かが頑張って Wikipedia にディスコグラフィを載せてくれているようですが、その曲数は決して多くはありません。シンガーではあっても、ソングライターとはとても呼べない状態です。
さらに、歌い方がビブラートがかってきて耐えかねてきたところへ、決定的な出来事が起こります。
それは忘れもしない2000年7月27日のこと。ここでは敢えて詳しいことには触れずにおくことにしますが、「この人にとって、コンサートとは、歌とは、そんな扱いだったのか?!」と思ったら、とうとう長年の忍耐力が尽きました。
それでも私は『遺産』を残す!
しかしながら、ファンをやめても、彼の歌を聞き続けた21年間は、間違いなく私の青春でした。
『遺産』といっては何ですが、記憶に留めておこうと思っている歌はいくつかあります。
「青葉城恋唄」
「岩尾別旅情」
「土湯賛歌」
「はるなつあきふゆ」(合唱曲とは異なる歌です。)
「歌詩人」アルバム
「さとう宗幸コンサートライブ」アルバム
「クラシカルコンサートライブ」アルバム
そして・・・
九州の小さな町の町おこしイベントと共に開かれた野外コンサートの時、見上げた夏の空に北斗七星が大きく輝いていたこと・・・。
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