生きている
【人は何故生きるのか?】
三島由紀夫をこよなく愛する後輩くんからのお題です。
人は必ず母親から産まれてくるのでここでは母に焦点を当てます。
自分が3歳ごろの時に両親が離婚して父に引き取られました。小さい時の母との記憶はありません。当時住んでいたお家で鮮明に覚えているのはノイローゼになり嘔吐している父の背中を訳わからず摩った事です。
ある夜更に車に荷物と一緒に乗っけられて家を出発したのも覚えています。抱き枕の「たぬ吉」を抱えて何処へ行くんだろうとぼんやりしていました。
程なくして車が停まったのは祖父母のお家です。たぬ吉を抱きしめたまま自分はそのまま布団に寝かしつけられました。
それから祖父母と父と3人のおじとの生活が始まりました。今のところ家族で1番楽しかった思い出です。おじ3人組もそれぞれ独立して隣町に引っ越していきました。12歳の時に母親代わりだった愛する祖母が癌で亡くなりました。1年間闘病生活を送っていました。あんなにスーパーウーマンなおばあちゃんも末期癌に敵わず、我慢強いのに痛いとよくこぼしていました。お家に帰る度祖母が居るんじゃないかと何度も淡い期待してやっぱり居ないやとの繰り返しを3ヶ月近くやった気がします。
それから祖父が祖母の代わりに、私が高校生にあがるまで家事をこなしました。祖父は自分が若い時や戦時中、家族や仕事の思い出話をよくしてくれました。誰もあまり触れなかった私の母についても教えてくれました。
「マリのママは美人でスタイルも良くて顔はフィリピン人みたい」
「ハンバーガー買ってくると口の周りにソース付けながら大口開けて食べていた」
とか。ママに逢いたいなぁと憧れが募りたまに夢見ました。でも声すら覚えていないのでその姿はぼんやりしていました。
私が17歳の時に祖父は脳梗塞で倒れました。それから大学2年生の6月までずっと入退院と介護が続きました。最後の2ヶ月くらいは容態が急変し、一気に生気を吸い取られたようでした。病気は本当に怖いです。若々しいおじいちゃんは2ヶ月で20年を過ぎてしまったようでした。命の火が弱くなったように感じました。
金曜日、5限の授業が終わり総武線に揺られて祖父の生まれた平井と、荒川を渡り祖母の生まれた新小岩を通り過ぎて、電車を乗り換えて最寄駅に着く。
駅からお家までの途中に大きな坂がある。下る途中にサイレンの音とともに救急車が通り過ぎていく。
私のお家の方向に。
その時感じた不吉な予感はどうやら当たったみたい。
角を曲がると自分の家の前に沢山の人が集まっていた。さっきの救急車だ。赤く光っている。
何も言わず無表情で人を掻き分けて家に入ろうとした。何故か警察官が靴を履いたまま家から出てきた。
仰向けで倒れていた。
発見したのは父で、もう既に息していなかった。通報すると心臓蘇生して下さいと言われて、必死にやったけど、自分の父親がもう戻る事はないと知りながら続けるのは絶望だったと後に話していました。
そんな父親と、近くに住んでいた叔父は事件性が無いか調べる為に警察に連れて行かれました。
私は何故かその場で質問されるだけでした。
「今朝はおじいさんは生きていましたか?」
その時私にはこう聴こえました。
「お前がおじいさんを見殺しにした」
自分が気付けばもしかしたらと頭をよぎりました。
それから救急車も警察もみんな居なくなりおじいちゃんと私だけ取り残されました。
おじいちゃんの背中はあったかかった。
おじいちゃん、冷たかった。
やっとの思いで口がきけたとき、思わずで出てきたのは
ごめんなさい
だった。おじいちゃんごめんなさい。まだ何も恩返ししてないのに。もっと感謝を示していけなかった自分が情けなくて、亡骸に向かって懺悔をしていました。
(この話は後日整理します)
成人式の夜、父から母の連絡先を渡されました。
2月に逢う約束をして、17年ぶりの再会することになりました。久しぶりの生みの親との再会てどんなものなんだろう?とドキドキしていました。
「マリナ?」
そこに居たのはフィリピン国籍‥じゃなくてママでした。ロシアの御先祖様がいるなんてほんまかいな。地理的に真逆じゃないか。抱擁も感動の涙もなく案外あっさりと再会しました。
それからママとも甘えん坊の妹ちゃんと再婚相手の旦那さん、弟みたいなワンちゃん、母方の祖父母とは仲良しです。月に一度の頻度で遊びます。
母の日にはママありがとうのメッセージを送りました。そうすると
「生まれてきてくれてありがとう。あなたの母でよかった。」
この言葉が全てだと思います。
人は何故生きるのか。
生まれてきたからです。
いつか死んでしまうけど、生きていること自体が全ての答えだと思います。
生かされているのは知らないうちに誰かに愛されているからです。こんな長い文章を読んでくれているあなた自身も。