「諦めた鍵屋」オール讀物新人賞出品・第1幕-1

第1幕

1.

手のひらサイズの茶色いチワワは、初めて会った時からつぶらな瞳で何かを訴えていた。試しに抱きかかえるとチロチロと顔を舐められ、心を射抜かれた。この子だ、この子にもっと必要とされたい。他のペットショップも見てみようという提案にのったものの意思は変わらず、むしろあの子を他人にとられないかと不安が勝り、一軒目で即決した。

「ボーナス払いで」彼は進級祝いと称して、最高の贈り物をくれた。

「かしこまりました。少々お待ちください」

「ねえ、決めた!ロク。ロクにする」子どもが初めてランドセルを背負ったように、自分の義務に顔が輝く。

「六?チョコとかクロとか、それらしい名前じゃなくていいのか?」

「うん。向井さんと繋がってる感じがいいの」

「ロック…俺の好きな音楽か」ドライブで流す曲はハードロックがお決まりだった。流行りのポップスしか知らなかった当初は度肝を抜かれたが、男らしさにドキドキした。

「向井様、お待たせ致しました!また、遊びに来てくださいね」寝起きの顔をしたロクが手に渡る。閉店間際のため、他のケースはカーテンが閉められていた。ロクの首には緑色に光るリボンのアクセサリーが付けられていた。卒園式の幼児のようだった。ペットショップの店員は、エレベーターのドアが閉まるまで名残惜しそうに手を振った。

 「明日からミルク作ったり、ご飯食べさせたり、お母さんみたいだなあ。お昼休みは学校抜けて、ロクの様子見に行かなくちゃ。先生にばれない様に出来るかなあ。向井さんも、仕事の合間にお世話できそう?」

 「んー、なるべく時間とるようにするよ」彼の車は法定速度をオーバーしていた。この後の予定は、いつもここで分かってしまう。

「念の為に暖房は付けっぱなしにしておこう。お散歩はまだ先だから大丈夫でしょ、まずはトイレのしつけかなあ。ずっとハウスにいれておくのもかわいそうだから、早くトイレを覚えさせなくちゃ」

「…着いたよ」最後の砦である信号は意味をなさなかった。喧嘩してる時に限っては赤が多い。

「明日は日曜日じゃないよ。お泊りしていくでしょ?」

「ごめん、今日は帰るって約束してあるんだ…」パパの顔になる向井さんは見たくなかった。さっきまでは男の顔だったのに、不思議だ。無駄な抵抗を試みる。

「でも、今更帰っても、優太くん寝てるよ」

「それでも、朝あいつが起きたときに、居てやらなきゃいけないんだ。腹の子の事で、あいつ構ってやれるの俺しかいなくて」

 重苦しい車内は苦手だ。膝上にちょこんと乗ったロクの寝息が唯一の救いだった。

ロクの頭に涙が落ちた。

「くるみ…ロクが居るんだから、寂しくないだろ?」

「あーあ、泣いてるお母さんなんて、だめだねえ。ロクちゃんに心配かけちゃうねえ」

 ハウスを運び、任務終了とばかりにスーツに付いた毛を念入りにチェックしていた。彼の息子の優太君は、もうすぐお兄ちゃんになるようだ。離婚の可能性がまた一つ減った。ワガママを言えないのは、彼を愛しているからなのか、好環境の一人暮らしを維持するためなのか、分からなくなる。

高校一年の時、塾でアルバイトの講師をしていた私は、学校から電車で一時間、最寄駅からも二十分歩いたすきま風の寒い、家賃四万円のボロアパートで一人暮らしをしていた。小学生の頃に両親は離婚し、母と家を出た矢先「新しいお父さん」が待っていた。母はいつも「新しいお父さん」に気を遣っていた。私は母に甘えづらく、居心地の悪い家から早く出たかった。初めてのボロアパートから今のオートロック付きのマンションに引っ越せたのは向井さんの財力によるものだ。教室には滅多に顔を出さない彼は、本社のいい役職についている。収入がありそう、といったイメージよりも、爽やかに顔を出し、笑顔で保護者と面談をして、颯爽と出ていく姿に好感を抱いた。春の入会キャンペーンイベントで、自ら着ぐるみを着て、地域のちびっ子たちを楽しませる心意気に惹かれた。親にもらえなかった愛情の穴を埋めるように、向井さんに没頭し始めていた。指輪をしていなかったから、妻子持ちと知った時は中学時代突然仲のいい友だちにハブられた時以上のショックを受けた。不倫をした母のようにはなりたくなかったが、引き返す事もできなかった。

 寝癖を直す余裕もなく校内に滑り込んだ。昨日はロクが気になって寝付けなかった。始業のチャイムまであと三分だった。下駄箱では湖水蒼がのんびり靴を履き替えていた。

「貫、おはー」

「おはよう。桜真は?」

「知らね。金魚のフンみたいに毎度毎度つるんでるわけじゃねーし」彼はこの時間に慣れていて、だるそうな足取りで階段を上る。

「お昼はいっつも一緒なのに、なに照れてるんだか」

金魚のフンが湖水蒼なら、濱木桜真は艶やかな金魚、もはや鯛に違いない。部活一筋で女慣れしていない硬派な雰囲気に心を寄せる女子も多いだろう。私も隠れファンの一人だ。

教室に入ると、担任は既に離れていた。朝学習の制度は、どこかしらの大学に入ればいいや、というやる気のない生徒にとっては自由時間化している。私たちのクラスは、牢獄と言われていた。授業中にイヤホン爆音で音楽を聴く生徒や、ガムを食べながら漫画を読みふける生徒もいた。

「何、俺の顔好きなのか?」蒼はにやけ顔で近付いて来た。廊下側の私の席から窓の外を眺めただけなのだが、真ん中の蒼が視界に入る。愛嬌のある子犬のように見えるのか、女の噂は多い。手には黄色い缶に黒文字で大きくMAXCOFFEEと書かれた缶コーヒー。

「先生と、付き合ったことあるって本当?」

「あー、懐かしいな。中三の時ね。高一の途中まで」隣の机に腰掛けた。椅子は足置きになっている。席の使用者は、教室の後ろでキャッチボールをしていた。

「何で別れたの?」

 「別に。俺はそいつを殺した。以上」

 「殺したって、噓でしょ?」思わず小声になる。

 「連絡先すら知らねーもん。だから生きてるかさえ知らねーよ」

 「SNSでは繋がってないの?」

「わざわざ名前を検索するほど興味ないね」環境の変化による別れかもしれない。羨ましく思えた。向井さんとの別れはどのようにして来るのだろうか。「そういえば桜真が大学行かねーって、聞いたか?」

「何それ知らない。だって引退試合前に部活辞めた理由って…」桜真は朝練を欠かさず、放課後もサッカーに打ち込んでいた。新しい目標を引き換えに、苦渋の決断で部活を辞めたはずだった。その選択が私にはカッコよく映っていた。

「放課後速攻帰ってるのは受験勉強じゃなかったのかよ」前方のゴミ箱に缶をシュートする。だがそこは燃えるゴミだ。

「今日もこれで三日連続遅刻だよね。家庭のトラブル?」

「やばい仕事に首突っ込んだとか。探ってみようぜ」愛嬌のある子犬顔に見える。

「おーい探偵さん?」

「桜真!」

「二人して息そろってるねえ。いつの間に出来てたんだよ」

「馬鹿言うなよ、こいつは芋野郎だぞ」また憎まれ口を叩いている。

私はやりたい事もなく、一年半もだらだらと、向井さんと関係を続けている。「ゴールデンウィークは彼氏でも連れて帰ってきなさいよ」という母にも「アルバイトあるし」と言って、また誤魔化すだろう。友だちの恋バナにも、向井さんの名前を出すことができない。アルバイト終わりに堂々と待ち合わせをして、手を繋いで帰るカップルの真似も許されない。たいてい、駅とは反対方向にある人通りの少ないところに彼が車で迎えに来て、ファミレスか私の家でご飯を食べる。ただそれも「子守りが大変なんだよ」と言って、回数が減っている。了承するしかなく、取り残されたような孤独感に苛まれる。

ゴールデンウィークに限らず、誕生日さえも彼には会えなかった。平日だった去年の誕生日とは違って、コンビニで一個二百円の抹茶タルトを買い、テレビで孤独を紛らわせた。

「ごめんな。仕事がバタついてて。十八歳、おめでとう」言い訳は耳タコだ。誕生日から四日後にようやくお祝いしてくれた。夜景の見えるイタリアン。彼の手に乗っている小さな箱が、指輪なのかと一瞬でも期待してしまうのが馬鹿馬鹿しい。

「お花のネックレス!クローバー?可愛い」ドレスアップしたピアニストが、聞き覚えのあるメロディを心地よく奏でている。確か、スピッツの楓だ。

「ピンクゴールドにして正解だ。似合ってる。こっそり学校にも付けていけるな」

「うん…」ロウソクの火が揺れるような、不安定な幸せを見つめていた。「次男の、太一君だっけ。落ち着くまでは、会うのやめる?」

「いきなりどうした?今まで通りじゃ不満?」

「いきなりじゃないよ。これ以上、芋野郎は嫌なの」

「芋?何それ。他に好きな奴ができたのか?俺は絶対、別れないよ」

「好きな人なんていない。でも、向井さんこそ、離婚する気はないんだよね?クリスマスもお正月も幸せそうな写真でいっぱいだったの、SNSで見ちゃったよ。私って何なんだろうって虚しくなる」

「虚しいとか寂しいとか、ロクが居るから大丈夫って話だったじゃないか」

「そんなの、誤魔化してるだけだよ」

「とにかく俺は、くるみが必要なんだよ」今日は携帯の電源も切った、くるみのために特別な部屋を予約したから朝まで居よう…。

 言い返すことができなかった。嫌いになれたら楽なのに…意を決して伝えても、彼には勝てない。底知れない泥沼から救ってくれたのは、桜真だった。

 「ロクめっちゃ可愛いな。ポキッと折れそうな体なのにあんなにひっくり返ってる」県内最大規模のドックランの小型犬エリアで、肉付きの良いトイプードルに追い掛け回されていた。

「ペットショップにいたときも、同じハウスにいた子犬とよくじゃれ合ってたの」

「へえ、わんぱく坊主だな」ベンチからロクを見守る間、コロコロしたポメラニアンが何度か餌をねだりに来た。そのたび遠くで飼い主とお辞儀を交わした。

「今日は貫のいい笑顔、久しぶりに見れたな。誘ってくれてありがとう」ロクは息を弾ませながら桜真の足元に戻ってきた。撫でると素早く腹を見せた。微笑ましい光景だった。

「ドックランが開放的だから、心も解放的なのかも」

「いつも笑ってろよ。笑う門には?」

「福よ来い!」ベンチから立ち上がったついでに思い切り伸びをした。

 「ロクは、男に飼ってもらったんだろ」桜真のしかめっ面は、日差しによるものなのか、判断しかねた。

 「なんでわかるの?」

「二人で散歩してるの見かけたことがある」

「恥ずかしいな…誰にも言わないでね」

「不倫だから?」

「え!」一番知られたくない人に知られてしまった。だけど一番知ってほしかったような気もする。

「やっぱりそうかよ」

「…あんまり上手くいってないんだけどね」

「別れたくない理由は?一生独身でいいのか?」

それから半月の間、桜真に報告と相談を繰り返した。会ってもいいのかな、やっぱりまだ好きかもしれない、夜明けまで電話で話し合った、離婚してくれるかもしれない…嫌がることなく、桜真はぶれずにアドバイスをくれた。

 蝉が鳴き始めたころ、マンションの契約のタイミングを機に、ペット可の安いアパートへ引っ越した。志望大学にも近い物件。桜真と蒼と引っ越し祝いをし、心機一転した翌日、向井さんからメールが入った。その夜アパートの近くの喫茶店で待ち合わせた。カフェラテを頼んで五分後に彼は現れた。

「アパート、お邪魔しちゃだめかな」椅子に腰を下ろしながら尋ねた。

「離婚してくれた?」店員を呼び、彼の分のアイスコーヒーを注文する。

「…いや。ロクに会いたい」

「ロクは渡さないよ」

「分かってる。嫁は犬が苦手だから」

「じゃあ、さようなら」

「待って。…これ、引っ越し祝い」鞄から封筒を差し出した。

訝しげに中を確認すると、五万円が入っていた。手切れ金…にしては安い。

「どういうつもり?」

「ロクの生活費もあるだろ。足しにしてくれ」運ばれてきたアイスコーヒーをブラックで勢いよく飲み干した。「送っていこうか」

「大丈夫。ありがとう」

乗り慣れた車が去っていくのを見送った。安堵しつつも心のどこかでは、延々と彼に引き止められることを期待していたかもしれない。しかし彼の車の後部座席にあるチャイルドシートが、お互いのブレーキになっていたのだろう。

一晩中泣き尽くした後、桜真とファストフード店に行った。

「昨日、無事に終わりました」胃が受けつけず、サラダだけにした。

「頑張ったな。目の腫れで分かるよ」どうして桜真はここまで私をよく見て、受け止めてくれるんだろう。優しさにまた涙腺が緩みそうだった。彼は大きな口でハンバーガーを頬張り、口の横についたテリヤキソースを指で拭き取った。

「やっとブラックホールみたいなモヤモヤが消えても、ロクを見てると、泣きそうになっちゃう」サラダの進みは遅い。半分程でギブアップした。

「そいつのこと連想しちゃうもんな。色んなとこ連れて行って、新しい思い出作るのがいいよ」

「ドックランまた行こうよ!」なるべく自然にフォークを弄ぶ。「ねえ、どうして大学行かないの…?桜真も何か悩んでるなら、力になりたい」

「大学より大事なものがあるから」低いトーンで答えた彼に、これ以上深堀する勇気はなかった。その反面、分からないほど、もっと近付きたいという思いが膨らんでいった。

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