母の日くらいは
ああもう。ちょっと黙ってて!
最近、ため息とともによく思うようになった。ああもう。
大学生活の四年間を一人暮らしで過ごし、就職活動をするも納得がいかずに結局流されて実家に帰ってきた私は、自由過ぎた四年間に慣れてしまったせいで、実家暮らしにどうしようもなく窮屈な感覚を覚えてしまっていた。
一度感じてしまえばどんどん窮屈になっていくもので、朝ごはんが食パンでないこと、ヨーグルトが低脂肪なこと、コーヒーメーカーが勝手にコーヒーを淹れていること、パンツの畳み方がおかしいこと・・・別にどうってことないことのはずなのに気になりだして、ああもう、と思う。
自由に料理できないことさえもイライラする原因になって、高校のときには美味しく食べていたはずの母の手料理さえも、全然物足りない味気ないもののように感じてしまい、傲慢にも私が作った方がおいしいのに!とさえ思うようになって、フラストレーションがどんどん溜まっていった。
だったら全部自分が作ればいい、自分で家事をすればいい、と思うのだが、それもまた、母が居るのになんで自分で家事しなきゃいけないの、と理不尽にイライラしてしまうのだからどうしようもない。
自分でも幼いと思うし、世話になっているのにどこからこんな文句が出るのだろうと思うのだけれど、それでも夜寝る前の静かな時間にこの感情を思い出してしまうと、胸のあたりがモヤモヤして寝るどころではなくなってしまい、イラつきのために眠れない夜を過ごして出勤ギリギリに起床、なんで起こしてくれないの!とさえわめくことになるのだった。
二十二歳にもなってこんな思春期のような感情で親に当たるのは、申し訳なさで埋もれそうになる。だからこのちまちまとした小さな文句をどこかへ吐き出すことはできればしたくない、と私の理性が叫んでいる。
久しぶりに友達に会うと「家族とはうまくやっていけてる?」と聞かれることがある。その度に、「思っていたほど窮屈ではないよ」と答えるのだが、その質問に答える時は、例のとてつもない窮屈感のことは忘れてしまっている。
そもそも、親子間は別に仲が悪い訳ではなく、嫌な部分ももちろんあるが、それはもう人間としてどうしようもない部分だと認めている部分でもあるので致命的な問題ではない。問題があるのは私の方で、私が実家暮らしを未だに実家暮らしだと認識できていないからだろうと思う。一人暮らしと同じ感覚で暮らしたいと思ってしまっているから、帰ってくる家に誰かが居ることすら不快に思ってしまう時があるのかもしれない。
明日何時なの?
お風呂早く入って!
部屋片付けなさい。
最近お金使いすぎじゃない?
いいわね、あんだだけそんな贅沢して。
前はもっとしっかりしてたのに・・・
そんなようなことを毎日のようにチクチク言われていたら、ああもう、と思うものではないだろうか。ちょっと黙ってて!と思わないだろうか。
言われたその時に軽く受け流すことができても、私の頭の中では言われたことは何一つ忘れているわけではなく、確実に自分を刺激する小さな棘となって確実に蓄積される。「ああもう」という感情でパンパンに膨れ上がったものに棘が刺さって破裂したとき、例の窮屈感と共に過ごさなければならない夜がやってくる。
でも、どんなにイライラしても、母は一生私の母であり、毎日私に「行ってらっしゃい」と「おかえり」を言ってくれるのだ。どんなに私が私自身を嫌だと思った瞬間があっても、そんな私さえ受け入れてくれる温かな存在なのだ。
泣いて帰ってきても、怒って部屋に閉じこもっても、結局家の中は温室で、私はその中でわめこうが何をしようが母には勝てないのだ。それが家族だ。
散々文句を言えど、母として尊敬しているし、いろんな面で感謝ももちろんしているし、恩を返したいとも思っている。
明日にはまた「ああもう!」と文句を言っているかもしれないけれど。
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2012年、全くその通りに思っていた自分の気持ちのやり場に困って書いたものです。うちの家族はとても仲がよくて、笑いが絶えず、「家族してるな」と思える家族です。
適度な距離感、言いたいことは言う、でも最後は自分で決めさせる。
家族であっても、家族だからこそ、いろんなことを思うのですよね。
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