私にとって家をつくること
祖母の家の改修について記録しようと始めたブログは半年くらいで書くことをやめて、その2年後に一つだけ書いて、そしてまたやめてしまった。「さあ、動こう!!」と締めている割には、それっきりなのだ。
育休から復帰して、久しぶりの仕事と育児の両立になかなか苦戦し、すっかりブログの更新をサボっていた。というより、きっと祖母の家のことを二の次にしていたんだろう。いろいろ理由や言い訳は挙げることはできるんだろうけど、今はやっと仕事もワンクール終わり、娘も保育所の病気の洗礼を一通り済ませたので、さあここからだ!!という気持ちが1番!さあ動こう!!2015年4月23年
確かに、育休から復帰して、勘がなかなか戻らず仕事は苦戦した。時短勤務は、かなりの集中と効率化が必要で、時間が全然足りずにトイレはできるだけ我慢して、行くときは走って行っていた。そして勤務時間が終われば(仕事が終われば、ではない)、毎日泣き叫びながら私と離れ、お昼寝もうまくできずヘトヘトになっている娘を迎えに行くのに、大急ぎで自転車で家まで帰り、ご飯を大慌てでつくって、小走りで保育所まで迎えに行く、よくわからないトライアスロンを毎日繰り返していた。ご飯を食べさせ、お風呂に入れて、寝かしつけたときは、もうヘトヘトで、さらに夜中には何度も起こされるという、生きるのに精一杯の日々だった。
やっとその生活を1年経験して、少し気持ちに余裕が出て書いた記事が冒頭のものになる。
でも、そこでまた書くのをやめてしまう。というか、祖母の家についても、進めることをやめた。やっぱりまだまだ仕事と育児の両立が難しくて気持ちや時間の余裕がなかった、という訳ではない。私の気持ちがはちゃめちゃになったからだ。ワンオペ育児に疲れ切っていたし、このまま不満タラタラで生きていくことが本気で怖くなった。そして、今の生活を変えなければ、という気持ちが大きくなった。「祖母の家」という器に住む人が定まらない、営まれる生活が想像できないのに、改修を進められるわけがなかった。今考えると、当たり前のこと。「住む人間」がいて、初めて「家」が存在するのだ。
そして晴れて、「私と娘」というコンビが誕生した。新コンビの新居は、2Kのマンション。壁一面窓で、さらに建物の角になる部分が2面のガラスで形作られていて、つくりつけのクローゼットとドアの木の色が同じで、玄関に入ったところのパーテションが磨りガラスで、どの部屋も間接照明で、キッチンのタイルが赤くて、1階と地下が洋服屋さん。30年くらい前のマンションらしく、既製品というより、どれも大工さんがつくったもので、オーナーの優しいこだわりが随所に感じられた。共用玄関もお店のデザインも丁寧で。不動産屋さんに案内されたときに、即決だった。ここしか考えられなかった。
自分で選びとった新しい生活だったけれど、不安もすごかった。だから「家」は少しでも私たちコンビの支えになって欲しかった。毎日帰って、ご飯を食べて、寝る場所が、安心できて見惚れる空間であってほしかった。間違っても惨めな気持ちにだけは絶対ならない場所にする、とあのときは決めていた。自由をつかんで、まさに謳歌する場所であってほしかった。
仮住まいで選んだ場所が、あまりにも居心地がよかったこと、そしてせっかく家を改修するなら、娘が自分で考えたり調べたりできる時期まで待ちたかったこともあって、再び祖母の家に向き合う2018年までにさらに3年がかかった。
2013年に、改修を始めなくて本当によかったと思っている。都市でも建築でも「空間」は「人」ありきだ。でも、「家」が1番「なかの人」との関係が強いと思う。「家」に向き合うことで、否が応でも「なかの人」の関係性に目を向けざるを得なかった。だからこそ、直視して立ち向かえたのだと思う。何かを創り出したいのに、それが立ち往生してしまうときは、どこかに見つけてもらうことを待っている「しこり」があるからなのかもしれない。私は、そうだった。なぜ、小さなころから楽しみにしていた祖母の家に住む計画をまったく進めることができないのか、とても不思議で疑問だった。
やっと進めることができると思った2017年、2018年。そこからさらに、ここまで来るのにもやっぱりまだまだ私のなかに「しこり」がいくつもあって・・・こんなに家をつくるって大変なの?!私がただ単にこじらせてるだけなような気もする。でも自分の「家」をつくるって、私にとって自分と真正面に向き合うことなのだ。そして「未来」なのだ。「未来」とは「実現させたい現実」なのだ。「未来」に向かって動けるか、「現実」とどこまで向き合えるのか、これが私の大きなチャレンジなのだ。でも、やっとここまで来られた。
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