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📖『森へ行きましょう』📖
新刊も気になるが、ふとしたことから知ることになった数年前の素敵な作品を発見するのも楽しい。
『森へ行きましょう』という川上弘美さんの長編小説を読んだ。
この小説は留津もしくはルツという、音で発声したら全く同じ名前になる二人の女性の物語なのだが、実はこの留津とルツは同じとある秋の日に生まれている。ちょっとずつ違う状況で生きているように描かれている留津とルツ。二人はあたかもパラレルワールドに同時に存在する一人の女性かのように、彼女たちが誕生する時から順に話が進んでいく。
まさに同じ人物の別バージョンといった様子を読み進めていくわけなのだが、留津とルツが成長していくにつれて、その二人の人生の差はどんどん広がっていく。
「いつかは通る道」は、若い頃は二本くらいしか種類がないと思っていた。でも、全然そうではなかった。道は何本にも分かれてつながっており、右を選ぶか左を選ぶか、まんなかを選ぶか端を選ぶかは、常に不確定で、選んでしまった後になってからしか、自分のたどっている道筋はわからない。
もしも人生をやり直せるとしたら、どこまで遡りたいだろうか。
けれどやり直してうまく修正したと思ったとしても、そこから無限に枝分かれする別の道が広がってしまい、やり直し部分だけを切り貼りするような都合のよいことには、おそらくならないのだろう。一つの何気ない選択が、次の重要な何かを決めていることもあり、重要だと意気込んだ分かれ道は、それほどの差を後の未来にもたらさないことだってありうるのかもしれない。
どの分かれ道が、どのように作用するかは、本当に誰にもわからないし、わかったところで、肝心の分かれ道も起きた出来事も、はるか彼方遠い過去になっている。
今ここに林昌樹と向き合って羊の肉が焼き上がるのを待っているという瞬間が、もし少しでも違う道を選んでしまっていたら、はたして存在したのかは、神のみぞ知ることなのだ。
あるひとつの分かれ道を、仮に確実に間違えたとしても、後戻りなんてできないわけで、つまりは常に今立っている現在地から歩き始めるしかない。
現在地をワープのように飛んで変更することは難しいが、次の一歩をどの方向へ向けてどれくらいのスピードで進むかを決めることは、いつどんな時でも自由に設定ができる。だからこそ、「あの時もしも違った選択をしていたら」なんて考えることそのものがナンセンスかもしれない。
自分の前にのびている可能性は、無限。でも、自分のうしろにあった可能性は、もう消えている。
この小説の中に登場する多様な「RUTSU」たちは、些細な違いのように見えている時期もあったはずなのに、結果として全く異なる人生を歩むことになり、もしも自分がこの中の一人、どれかのRUTSUであり、多様なバージョンのRUTSUがいる可能性を知ったなら、隣の芝生は青く見えただろうかと考える。しかしそれでもきっと、今現在の自分でしか味わえなかった喜びや幸せがあったはずで、それを手放すのは惜しいと思うような気もしている。
「色々あったけれど、それなりに面白かった」と最後に思えるような人生ならば、どの分岐を辿っても、自分に与えられた時間を存分に楽しんだと言えるのかもしれない。
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