中之条ビエンナーレに行ってきた・その6
周りにはたくさんの人がいたはずで、空間は広くはなかったはずで、物を見るために目を凝らさなければいけないような明るさしかなかったはずで、私がそこにいた時間も短かったはずなのに、どういうわけか静謐な宇宙に1人きりで長くいたような気持ちになり、帰宅後にも気になって、時間が経てば経つほど気になっていた作品がある。
アーティスト:古賀 充 Mitsuru Koga
展示場所:やませ(伊参エリア)
タイトル:誕生のためのヴァリエーション Variations for Birth
入り口からすぐの場所にある小さな蔵を使った古賀さんの作品は、
入ってすぐの正面の壁、中に進んだところの右の壁、それと向かいあう壁
この3か所にそれぞれある。
古賀さんの作品をどう誰かに説明したらいいのか分からず、書こうとするのに書けないまま、しばらく時間が経ってしまった。
シンプルな展示?いや違う。
繭のように見える絵は養蚕が栄えていた中之条ならではの云々カンヌン?いや、なんか違う。
作品の良さが引き立つ照明が当たっていたから?そうだけど、違う、感じてるのはそれじゃない。
そしてある時ふと、思ったのは
「ああ、あれは映画を1本観たような感じがしたんだ」
という感想だった。
展示された作品は3点のみ。
空間は決して広くはない。
それなのに、長い映画を凝縮して観たような感覚にさせられていた。その映画の始まりも中盤もラストシーンも、全て同時にジャンと和音のように鳴らされたような圧縮も感じながら、同時に順番に流れる1枚目、2枚目、3枚目という私が作品を見ていった順番通りに思い出しながら脳内再生することも可能なのだ。
古賀さんの作品の場所だけ時空か次元か、時間と空間に作用する何かが歪んでいたのだろうか。
「生命に形はあるのか」
様々な仮説を立てて、考え続けた結果出てきた、「生命の形」のモデルは、
人類にとって馴染みのある形と素材で出来た美しい形だったのだろうか。
この展示空間において、「生命の形」のある段階での結論を提示した人物は
極めて不在である。
この不在感が、最後に作品を完成させていた。
古賀さんのインスタグラムを見ると、この作品についてのいくつかの文章が載せられている。
マルクス・ガブリエルの新存在論での、世界は存在しないという話を思い出した。
私自身は今この世界に明らかに発生して誕生して存在しているし、私の発生以前の世界と、これから先にあるであろう私の消滅以降の世界というものも、あると思う。
明らかに突然発生して突然消滅していく自分自身について、私はその存在とは何か、誕生とは何か、死とは何かを、説明ができないでいる。自分のことなのに、全く理解していない。
私はここに存在していると思い込んでいるし、今目の前に作品があると思い込んで疑わないけれど、果たしてそれが本当だとどうやって説明できるのだろうか。
「誕生のヴァリエーション」は無限にあり、そのかけらを集めて人間にも理解できる3次元以内の形状で表現すると、古賀さんの絵のような話になりました、という壮大な物語を妄想した。
https://nakanojo-biennale.com/artist/mitsuru-koga
中之条ビエンナーレ2023の会期も残りわずか。お見逃しなく。
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