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世界があまりに騒々しいから

ここ最近特に、騒々しさが気になるようになった。
10代20代の頃は、賑やかなことが楽しいことで、素敵なことだと感じていた。そして逆に静かな何かは、退屈で格好良くなくて、なんだか冴えないものだと思っていた。

テレビを持たない生活になってもう何年も経過しているのだが、最近はテレビがなくとも、インターネットが日常を覆い尽くしており、つまりテレビがないからといっていわゆる電波的騒音と無縁になるかといえば、全くそんなことはないのである。
ちょっとスマホを触っただけで、あの小さい画面から騒音の嵐があっという間に襲いかかってきて、そして人間の行動を熟知したアルゴリズムにより、その騒音から離脱するのを難しくさせてくる。もうとっくに体はうるさ過ぎて疲れてしまったよと悲鳴をあげているのに、その騒音を締め出すのを困難にさせるような仕組みが溢れている。

騒音に疲れた私は、最近はスマホから物理的に距離を置く時間を意識的に増やしている。
最初は強く意識して、スマホを1階に置き去りにしたまま2階で本を読んだりしていたのだが、そのうちそれが自然になってきて、スマホを四六時中目の前に置いて監視していなくとも気にならなくなってきた。私がスマホを監視しているのではなく、スマホに私の生活が縛られて、むしろスマホから監視されているような状態だったことに、ここでようやく気がつく。

世の中はつくづく騒々しい。
最近は、理想の老後について考える。私は静かに暮らしたいのだなということが、だんだんとわかってきた。若い頃、特に幼少期は親からの厳しい教育方針により、明るく常に笑顔でハキハキと大きな声で、という騒々しくガチャガチャした方向性で無理をして頑張って生きてきた。もちろんそれは、社会に出た時にとても役に立ったとは思う。けれども、今になって思えば、それは私の本来の生まれ持った性質ではないのだ。幼少期のことを思い返してみても、静かな時間を大切にしたいと思っていたことに今更気がついた。家に一人で留守番をしていた時、何の音も流れておらず、一人シンとした静かな午後の部屋にいることがとても心地よくて、その静かな空気を心の底から味わっていた時に、なんとも言えない幸せを感じて満たされていた幼い私がいた。

たまたまインターネットの便利な時代だからなのか、調べていくと同じように騒音で辛い思いをしている人たちの情報がたくさん見つかる。聴覚過敏というキーワードは決して珍しいものではないように見受けられ、耳栓は多様な種類が販売されている。それは、現代社会があまりにも騒々しいための現象なのか、それとも実は時代が違っていても今と同じくらい騒音に苦しんでいた人はいたはずなのに、それが情報として出会いづらかっただけなのか、わからないのだが。おそらく両方の理由、どちらもあるようにも感じる。

そしてどんな関係性があるのか、定かではないのだが、騒々しさがパンパンに詰まった家は、物理的にも散らかっていたり物が多かったりするように思う。逆に静かな家は余白がたっぷりあり、物が必要以上に存在せず、静けさの空気が満ちている。騒々しさと物の量は相関関係にあるように思うのだが、これは私の最近の単なる思いつきであり、なんの根拠もない。けれど、騒々しい時期が続いてしまうと、私の場合は家が散らかってきてしまうことも多く、騒々しい間には散らかっていることに気が付きづらくなって、つまりは脳が疲弊しているように思う。疲れているから騒々しくなるのか、騒々しいから疲れるのか、どちらが先なのかはわからない。

しかし現代社会において、静かに暮らすことは、それなりの工夫を要し、簡単なことではない。私はどのようにしたら静かな暮らしを手に入れられるのだろう。これから重なっていく年齢に合ったプランも必要だし、経済的な問題も解決する必要がある。どんなに山奥に篭ったとしてもこの社会と完全に無縁で生きることは難しいだろう。それでも、静かな暮らしを諦めたくはない。なぜならそれは、私にとって、本来の心のあり方に近づいていくことでもあるように思うからだ。

もちろん環境に不満を持ったり、変化させたりする前に、できることもたくさんある。いかなる状況でも心の静けさを保つための練習は瞑想を通してできる部分も大きいし、他にも芸術分野を通して自分の心の状態を整えていくことだってできる。芸術というと小難しそうに見えるが、読書や美術鑑賞、自然の中を観察することなども、芸術にしっかりとつながっている。

今からでもすぐに始められる静けさの獲得と、将来の環境作り。両方を並行して模索することで、いつか理想の終の住処、ライフスタイルを見つけたい。

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