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家事奴隷労働者が暇を持て余していると勘違いされるのはなぜか

家庭内の家事というのは、賃金が発生せず、つまりノーギャラ、0円で延々と労働をしなければならない過酷な環境である、というのは考えたことがあるだろうか。
もちろんそんな不当な奴隷環境を生涯強いられたままにならないようにするためにも、婚姻関係がある場合には、財産分与が相当分認められるわけであるが、財産分与があるということは然るべき別れの時であり、つまりはその別れの時が来るまではノーギャラに耐え続けなければならないということでもある。
どうしてこうなった、家事奴隷労働システム。

さらに、家事しかしていない人に向かって、暇だろうという概念がはびこっているのも、大問題である。


もちろんお手伝いさんを雇っている場合は、家事も暇になるのかもしれないし、大変容量よく体力も満ち満ちてあって素早くあらゆる家事をこなせるという人ならば時間にもゆとりを生み出せるのかもしれないが、どう考えても家事が暇だと思っている場合の大抵は、家が汚いままというケースが多いように感じてしまう。ものが散らかっていてもどこかに詰め込んで見なかったことにするだとか、埃が多少あっても気にしないだとか、洗濯はこまめにしないだとか、トイレ掃除は毎日やらないだとか、寝具は週に1回しか洗わないだとか、カーテンなんて一度も洗濯したことがないだとか。ここに羅列しただけでもゾッとするような不衛生環境でも平気という場合は、家事だけをしている状況は暇だと思えるのかもしれないのだが、どうなのだろう。

言わせていだだけば、家事は、全然、暇じゃない。
我が家の老犬ウイリアムが先日、三途の川の一歩手前から帰還したのだが、17歳と半年ともなる老犬であるから、いつその時が来ても不思議ではない。よって、我が家では時々、ウイリアムが亡くなった後の話をすることもある。もしも人間二人っきりになってしまったら、という話なのだが先日夫があろうことか「二人になったらまりちゃんは退屈になっちゃうねきっと」と言うのである。私はすかさず反論した。

全く退屈になる余地はないし、今が「究極に倒れそうなくらい忙しい」のであって、それが二人になったら「普通に結構忙しい」状態になるだけの話で、暇になるはずがない、と。

それはまあ、埃も放置してよくて、洗濯物も溜めてよくて、乾いた服から生乾き臭がしても良くて、食器類の洗い物も流しに山盛りにしてもよくて、お風呂もぬるついて排水溝も汚れていてもよくて、トイレも臭くて良くて、外回りも落ち葉が堆積して虫だらけになっていても良いのなら、話は別なのだけれど。
そもそもそんな家には私は暮らせないので無理なのだけれども。

まあ私がコーヒー3杯(300mlを3回)では足らずにエナジードリンクでカフェインを注入して頑張らなければいけない日が減るのかもしれませんわよね二人になったら。それくらいのレベルなんですのよ家事無休無給労働というのは。生活費というのは経費の精算であって、ギャラであはりませんからね。日々ヘトヘトなんですのよ、お分かり?

しかし世の中には暇を持て余す人も、確かにいるようなのである。
どうしたらそうなるのだろう。
どうして私は、毎日本を読んだり自分の人生についてしっかり考える時間を確保するのにしっかりと努力しなければ確保できないような状況に陥っているのだろう。
どうして私は毎朝眠くてたまらないのを頑張って起きているのだろう。

ああ、生きることは大変なことである。
最近、エミール・シオランの主張を知って、激しく頷く機会があった。近所の図書館にはシオランの著書が1冊もなくがっかりしているのだが、ショーペンハウアーなら借りられそうなので、今一度じっくり今度読もうと思う。私が日々感じていることは、先人たちがちゃんと学問として提示してくれていたという安心感が、毎日生きていることの背中を押してくれる。

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MariKusu
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。