空気感をひたすら歪めずに記録したい
昔、大学生頃だったろうか、手帳をいかに可愛く描くということが雑誌で特集される時代で、それは今も消えてはいないとは思うのだが、確実に今とは違う盛り上がりを見せていたように思う。
当時は家庭教師や図書館でのアルバイトと学校の授業、レポート締め切りや、各先生のレッスンの時間(音楽科だったので授業のコマ割りとは別に個々人のレッスン時間があります)などを記録しておかないと、あっという間にスケジュールがパンクしてしまう状況で、現在のようにデジタルデバイスもまだ発達しておらず、つまりはひたすら紙に記録するしかなかったので、実用面でも手帳は必要とされていた時代だった。
予定には時間と内容をどんどん記録して、持ち物や注意事項も併せて記入する。手帳のページが埋まってしまうことは多く、日記など書く余地はなかったのだが、それでも雑誌で特集されている素敵な手帳の例は、プライベートの予定が書かれていたり、ちょっとした感想が可愛く色文字で書かれていたり、シールを使っていたりと、なんだかとてもキラキラしているように見えた。
それをなんだか私もやってみたいと思い、挑戦したことがある。しかし結果的に、どうにも落ちつかづにすぐに続かなくなってしまった。どこか他人の嘘が描かれた紙を突きつけられているような、そわそわした感覚になったのだ。
今思えば、それは私のその時のありのままの空気感を写し取れていなかったから、違和感を覚えたのだと理解できる。当時の手帳に無理をして雑誌を切り抜いて貼ったりシールやスタンプでキラキラにデコレーションしたりしたページは、雑誌が推奨していた誰かの何かを無理して真似しただけの何か、だったのだ。そこに自分がいなかった。それは見返してみたときに「なんだこれは?」となるのも当然だ。
最近も、社会的常識の罠や、一般的にウケる法則の魔術に引っかからないように、必死に自分を見失わないようと気を引き締めているのだが、人間どうにも弱いもので、なかなか難しい。つい、楽な方へ流れて誰かのテンプレートに乗っかってサボりたくなるのである。
もちろん何かの成功者に学ぶことは非常に重要だと思う。マーケティングや各種分析から流行りを割り出し、そのルールを守って進めれば、それなりの結果になることも理解できる。だってそれがマーケティングだから。
では、なぜ私は今、ウダウダ言っているのだろう。
おそらく、私は、本当は、自分に嘘偽りなく、今ここで感じている空気感をなるべく捻じ曲げずに文字に転写していきたいと思っているのだ。そういうことにようやく今朝になって気がついた。
もしかしたら手段は文字では無くなるかもしれない。今の所、文章が一番転写しやすいように感じているので、この方法を選択しているが、必ずしも絶対に文章でなければならないわけでもないように思う。
大きな事件は報道され、記録され、歴史の中に残されていく。そういうニュースを辿るだけでももしかしたら時代と土地の空気感のようなものは感じられるかもしれないが、私はその隙間に落ちて吹き飛んでしまいそうな、ささやかな砂のような何かに、魅力を感じているのかもしれない。
少し前まで私は、私がこの世から去るとき、跡形もなく消えたいと思っていた。物理的断捨離を決行し、そしてその後もなるべくものを増やさないで生きていこうと心がけている。今感じている空気感をなるべくそのまま転写していきたいという思いと、跡形もなく消えたいという思いは、矛盾するように思える。しかしなぜこれらの気持ちが同時に発生したのかを考えてみれば、私はより正確なことだけを厳選して残したいと思っているのだということに気がついた。
物理的なものが、私の意図した通りに正確に何かを伝える手段として扱われることもあるかもしれないが、そうとは限らない。より正確にと考えるとき、何が最も的確かと吟味すれば、私にとってそれは、文章だった。
私は私というエゴの塊でしかなく、痕跡すらも完全にコントロール下に置きたいのだろうか。
そうかもしれないし、違うかもしれない。わからない。
ただ、一つヒントになったのは、これまで身近な親戚たちが亡くなった際に遺品整理をした経験だった。故人が生前使っていた物を遺族が手に取りながら「何々さん、こうだったんだね」なんて勝手な推測をしているのをみて、自分を故人に置き換えた時にとても嫌な気持ちになった。私が死んだ後、同じように残された物や手帳などを開いて、こうだったんだね、ああだったんだねと勝手にあれこれ言われたくない。それはなぜだか私にとって非常に気持ちの悪いものだった。だから私は、その話のネタになるような物質は除去していきたいと思っているようなのだ。最近朧げに見えてきたことなので、この先また考えが整理されていくかもしれないのだが、死んだ後に物を残したくないというのは、一つは遺品整理に時間とお金を無駄に使って欲しくないと強く願っていること、一つは今書いたような、勝手な憶測を広げて語られるのが非常に気持ちが悪いと思っていることだった。
そんな気持ちに今なっていることも含めて、なんとか今の自分を、どこかに阿ることなく、何かのシステムに則って歪めることもなく、ただ単純に右の鍋から左のお皿に移し替えるように、転写していきたいと思っている。
毎日自分を分解し、掘って、掘りすぎたら時々埋めたりもして、水をあげたり、何か植えてみたり、一転してまた元素まで分解したらどうなるかと極端にバラバラにして眺めてみたり。そんなことをしている。それが誰かにとって面白いかどうかは、わからないのだけれど、私にとってとても必要なことで、やらざるを得なく、どうにもならなくて、やれることをやっている。