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断食3日目食欲について考える

断食2日目の夜

生まれつき低体温の私に異変が

断食2日目の夜に急に体温が37度を記録した。
平熱が35度の私にとって、これはコロナやインフルエンザに感染をした時の状態に等しい。しかし体温だけが高く、感染症の時のような寒気や節々の痛みはない。ウィルスにより37度まで発熱しようものなら、目は赤く血走り、体を起き上がらせ続けるのも辛い状態で今すぐ布団に横にならねばならないような体調のはずだ。
体温だけが高く、奇妙な感覚だった。全身がヒーターマットに包まれて加熱されているようなポカポカしている状態だ。

体調は悪くはなかったのだが、あまりの体温の高さに耐えられず、これはもう寝るしかないと思い、19時頃には早めに布団に入る。しかし暑い。寝ている間、知らぬ間に色々蹴飛ばしたり脱ぎ散らかしたりしていた。よほど暑かったのだろう。

断食3日目

発熱が持続

翌日断食3日目の朝。
全身のだるさに驚いた。
体温を測ると36.9度。寝る前と誤差程度の変化である。
布団から体を引き剥がすのに一苦労しながらも、
なんとか朝4時に起き、犬用のささみを茹で始める。
最近は4時になると鳥たちがけたたましく鳴き始めることに気がつく。
ふとみれば、空がぼんやりと明るくなり始めていた。
鳥たちは夜明けと共にちゃんと活動を開始する。

さて継続的に断食をしていくために、何かハーブティーと味噌と塩以外にもあったほいうがいいのだろうかと考え、色々調べ、我が家の野菜庫に生姜が余っていたのを思い出し、
昨日のうちに買い足しておいたレモン1個も合わせて特製ドリンクを作ってみることにした。

自己流特製ドリンク

材料

・生姜1個(スーパーで小分けに売られている時の1ブロック分)
・レモン1個
・ウコン小さじ1
・水800mlくらい(デキャンタがいっぱいになるまで)

作り方(原液)

1・生姜を全てすりおろし、生姜のしぼり汁を作る。
2・レモン1個分の搾り汁を作る。
3・生姜の絞り汁とレモン汁を保存便に入れる。(我が家はWECKのデキャンタタイプ)
4・水を瓶一杯になるまで注ぐ。
5・ウコンを小さじ1入れてかき混ぜる。

飲むときには、これをコップに3分の1程度注ぎ、水や炭酸水で割って飲む。

我が家愛用のWECKデキャンタはこちら。普段はこれにお茶を作って冷蔵庫でストックしている



断食のプログラムなどで登場する酵素ドリンクというのは、酵素の発酵をしているものだと思うので、私の特製ドリンクとは違うとは思うのだが、ひとまず冷蔵庫にあるものを無駄なくという観点から適当に作ってみた。

味は生姜がかなり効いていて、私は美味しいと思う。辛めのジンジャエールが飲める人なら大丈夫だろう。

このドリンクを朝と昼に1杯ずつ飲んでみた。
いいのか、どうなのか、意味があるのか、ないのか、全くわからないが、体には元気が注入されている気がする。

断食を継続するか考える

3日で断食をやめようかとも考えたのだが、「食べることとは、私にとって何なのか」についてもう少し考えたいと思うので、継続することにする。

食べることに疑問を持った原因の一つに、広告業がある。
私たちは、見えない誰か、何か大きな力に、無理やり食べさせられているのではなかろうか。そんな疑問がふと沸き起こったことがあった。

広告と食欲の関係

広告は、商品をより多くの人にたくさん販売するために存在する。
広告が悪い、と言いたいのではない。
広告は、広告が担う役割を全力で果たしており、広告主は時には社運をかけて広告を作り、どうか商品が売れますようにと祈るような気持ちでいることもあるだろう。

ただ私たち一般消費者は、本当に必要なものだけを購入するには、よほどの強い意志や判断力が必要とされる。消費者がきちんと考えることができ、無駄な買い物をやめられるのなら、広告はじゃんじゃん存在しても全く問題はないだろう。
しかし人間というのは悲しいかな何かに流されやすい。
一番多く聞くのは「これ、テレビでやってたから」という言葉。
この言葉を道で遊ぶ小学生から聞いた時には心底ゾッとした。
テレビで商品などが紹介されるのは良い。そのテレビ番組をきっかけとしてその商品を知る機会を消費者が得ていることも良いとしよう。しかし、「テレビでやってた(良いものとして紹介されていた)から」という理由だけで鵜呑みにしてしまう習慣が、如何なものかと思うのだ。
テレビだけではない。昔ながらの紙媒体の広告も、今氾濫するWEB広告も、全ての広告が同じ問題を含んでいる。
本来ならば何かの広告をきっかけに良さそうだなと思ったもの、再度自分で分析して検討しなければならない。しかしなかなかそれが出来ないまま、流されて消費してしまうのだ。

私たちは何者かに脅迫的に食べさせられているのか

私は、食べ物についても同じことなのではないか、とある時思った。
食料品についての広告が美味しそうだなと思わせるものだったり、食べてみたいなと思わせるものだったりするのは、当然のことである。食品メーカーは1人でも多くの人にそれを食べてほしいと思って広告を作っているのだ。
食べ物について言えば、多くの健康番組なども人々に何かを食べさせる仕組みを担っているのではないだろうか。
1日にこれくらいの量を食べないといけませんよ。食べないと死んじゃいますよ。摂食障害という怖い病気もあるんですよ。バランスの悪い食生活を続けるとこういう顛末になりますよ。などなど。

確かに人類の栄養についての研究は、それはそれで日夜誰かが真剣に行っており、より良い健康的な暮らしをするためにはどんな栄養素をどのようなタイミングで摂取すべきなのかという研究が毎年のように更新されている。その研究自体は素晴らしいと思うし、私も恩恵に預かっている部分もあると思う。
しかし、昨今の状況を一歩引いて見てみると、あまりにも過剰に「これを食べないといけませんよ」「これくらい摂取しないと不健康ですよ」などと煽るように焚き付けられているような気がしてしまうのだ。

食べるなら気持ちよく支払って食べたい

私は誰にも食を強要されたくない。
もしも食べるのなら、心からストレスなく食べられるようになりたいし、
そのためにはどんな条件が必要なのかを、自問したいと思っている。

私は食べ物にお金をたくさん使い過ぎたくない。
それはなぜだろう。
おそらく、食べ物以外のことでお金をかけたいと思うことがあるからだ。
芸術に触れたり、尊敬する人たちに会いに行ったり、生き方を考えるために必要な本を読んだり、ピアノを弾いたり、自由な時間に何もせずに過ごせたり、余裕があったら飛行機や新幹線などの移動手段をもっと快適になるようにアップグレードしたり、その先の滞在ホテルも泊まりたいところに金額を気にせず泊まれたり、そういうもしかしたら他の人にとってはどうでもいいようなことが、私にとっては非常に重要で、それらに予算を優先的に使いたいと願っている。
もしも私が大富豪になっても、食べることに予算を使いたくないと思う気もする。なったことがないので、全く未知なのだが。その富豪的予算の中での割合は、今と変わらないだろうと思うのだ。

どんな時なら食にお金を使って良かったと思えるのか

では少ないながらも私が外食して良かったと思う時はどんな時なのだろう。
具体例を考えてみる。
一つに、友人が頑張って作っている店で、ゆったりと会話を楽しみながら食事ができた時が挙げられる。
普段滅多に外食はしないのだが、もしも外食する機会があるのなら、そういう顔が見える店、友人知人の店に行きたいと思っている。
彼らのお店はもちろん味は美味しい。機会があればまた別の友人にもおすすめしたり、一緒に連れ立って食べに行ったりするようなお店ばかりだ。
しかし私は、食べ物が美味しいことに加え、店を運営する彼らとの時間にお金を支払っていることに重要度を感じている。
私にとって有意義で大切な食を感じられる一つの要因が、ここにあるのかもしれない。
私は彼らとの時間に気持ちよくお金を支払う。
心を込めて作られたものを前に、食べ物プラスアルファの価値を感じ、それらの全てに感謝を感じながら時間を共有する。

断食3日目にして少しずつ見えてきたこと

私は食べることが苦手なのだと思っていた。
今後一生食事から離れられた人体に進化できたらどんなに楽だろうか、とまで考えたこともある。
けれど、少し違うかもしれないと気が付き始めた。

確かに私は「グルメ」ではないだろう。
「食べることが大好き」という人たちとも違うと思う。
そういう食べ物そのものへの愛に溢れた人たちから見たら、私は食べることを冒涜している人に見えるかもしれないし、食べることが好きな人とは到底呼べない人物ということになるはずだ。

けれど食事の周辺に漂う人間関係に重要性や意味を感じるなら、その食事は苦痛ではなくなるということに気が付き始めた。

大切な人と共にする食事の時間は楽しいし、その時間はとても有意義だと感じている。

すっかり食べるということそのものを私の中で悪者にしてしまいそうになっていた。

そうじゃないんだな。
少しずつ気が付き始め、考えている。

続く。



温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。