鉄か犬か
哲学者マルクス・ガブリエルは昨年のイベントでの内容が書籍化されたものを読むところによると、最近は
という話で、今が存在するかしないかという点に触れたくなるとやっぱり量子論を触らずには居られなくなるのかなあなどと、漠然と考えながら読み進めた。
この時のマルクス・ガブリエルの話の中に、物と生き物の間にある興味深い疑問があった。
この本全体としてのサブタイトルが「失われる民主主義 破裂する資本主義」であり、マルクス・ガブリエルの章タイトルが「民主主義の未来予想図」なのでこういった話の流れになっているのだが、興味を持ったのはロボットの犬を自分はどう捉えるのだろうかということだ。
私はおそらくロボット犬を蹴れない。自分が毎日接し、生活の時間を共有していたロボット犬なら、尚更絶対に蹴れない。しかし、これを鉄の塊と認識してどうとでも扱えるという考え方も理解は出来る。そういう人もいるだろうなと。
私自身がアニミズムの観点に立っていると特別に意識したことはないのだが、やはり日本人として生まれ育って、その中で培われてしまったアニミズム的な要素が体に染み付いているのかもしれない。
日本独特の八百万の神というものも、山や海や川に神のような精霊のような何かが存在するというのも自然と理解してきたし、小さい頃からそのように育てられてきたせいもあって、何の疑いも持っていない。山に入る時は山に挨拶してから入るし、川から帰る時は川にありがとうと言って帰る。それは山や川を擬人化しているというのとは少し違う、何か別の、しかしそこに存在する何者か(あるいは何物か)と自分との関係性を信じていることの表れとも言えるだろう。
しかし確かによく考えてみれば、人によってはこの認識は奇妙なものに思えるだろう。特に違う文化圏で育った人にとっては、なぜ海に入る前に挨拶するのか、海から出た時にありがとうと思っているのか、摩訶不思議でたまらないだろう。
屋敷には座敷童子がいて、傘のお化けが出るという物語があり、各地に龍神の神社が存在して、古道具はやがて何かを宿した付喪神というものになると言う。
それを信じるか信じないかの個人差は大きいとは思うものの、そういう風に言われていること自体は、「ああ、そんな話もあるよね」という温度だったとしても受け入れられているのが日本人かもしれない。
先日、アーティストユニットCLEMOMOの2人と話していた時に、どこからが肉で、どこからが人間で、どこからが魂なのかという、乱暴にまとめるとそんな話をあれこれと立ち話で軽くしていたことがあったのだが、精神と肉体の境目はどこにあるのか私自身時々考えていることでもあり、その時に湧き起こる疑問はマルクス・ガブリエルのロボット犬を蹴れるか蹴れないかの話にも繋がっている。
思うのは、ロボット犬を鉄の塊と捉えるか犬と捉えるかの二択ではなく、
鉄の塊、犬、その中間的などちらとも言える新しい存在
という三択なのではないかという気もしている。
そしてマルクス・ガブリエルの言うところの日本人独特のアニミズム観点から言うならば、生きている生身の犬と同等と捉えることと、その中間的な鉄と生身のハーフアンドハーフ風な新しい(アニミズム的な独特の)存在は、非常に近い選択肢ではあるものの、等しい選択肢とは見なすことができない隔たりがあるようにも思う。
私はいつもそんなことを考え始めてしまうと、結局は全てがツブツブ(生命や物質の小さな小さな源は実はみんな同じだという理論)だから、私自身は全てを等価に捉えたいのかもしれないと悩み始めてしまうのだった。
結論はなかなか出ないし、この悩みは私自身の幼い頃からのテーマである「今とは何か」につながる問題でもある。今という時間は何か、今ここに存在するとはどういうことなのか、今はあるのかないのか。
やっぱり私はロボット犬は蹴れないだろう。しかしそれがアニミズム観点からのものなのかは、正直なところわからない。
ロボット犬を明らかに生きているものと完全に等しいと思っているか、と言われれば違うような気がしている。しかし蹴ることは出来ない。
鉄の塊、生きていて魂がある、それ以外という第三の選択肢が私の立ち位置に近いように思うのだ。生きてはいない、けれど鉄の塊でもない。ただの物質と分析できなくもない、けれど生きている犬と同じように接することを自然にしてしまうだろう。どこかのパーツにヒビが入れば「壊れちゃった」と思うのではなく「傷ついちゃった、痛い?」という言葉の方が先に出てきてしまう可能性が高い。
この考え方の根はどうも深そうなので、マルクス・ガブリエルの分析する通り、他の物事への考え方にも影響を及ぼしているだろう。
育った文化や環境が違うと、これまで自分が疑いもしなかった物事が、ある日突然奇妙な物として浮き彫りにされることがある。
自分の中にあるアニミズム的観点(と言われるもの)は嫌いじゃないし、今更否定しようにもなかなか難しく、アニミズム信仰という認識がないままに自然と馴染んでいるものなので、これからもおそらく私の中では続いていくものなのだろう。
今日も私は朝日に感謝して、やっと吹き始めた秋の風に何かが走り抜けていく感覚を覚えながら、それを神秘的で特別な物として扱うわけでもなく、日常の一部として受け入れて生きている。