死の間際に測られる
生き物は必ず生まれたら死を迎える。その時に強く深い悲しみを抱いてしまうのは、執着があるからだとブッダは説いている。
執着は、対象をあまりに大切に想い、あまりに愛しているが故に発生することもある。
先日、我が家の老犬ウイリアムが、明らかに三途の川の一歩手前まで行った日があった。朝から体調が優れなさそうだったウイリアムは、様子を見ている間にあれよあれよとあっという間に呼吸が浅くなり、目が虚になり、体温が急激に下がって、なんだか体も硬くなっていった。これはもう本当にダメかもしれないと覚悟した。主人は仕事中だったにも関わらず、何やらただならぬ気配を感じたようで、FaceTimeで電話をかけてきてくれた。
結局、なんとか一命を取り留めたウイリアムだったが、17歳と半年という犬にしてはかなりの高齢の域に来ているため、いつでもその日がくる可能性を考えて覚悟していたにも関わらず、私はギャンギャン泣いてしまっていた。今でもウイリアムが本当にこの世を去る日が来ることを考えると、涙が出てしまう。まだ今日は元気をなんとか取り戻して生きているというのにだ。
一方、数日前、とある親戚が亡くなったという連絡を受けた。詳細は伏せるが、比較的距離の近い親戚で、小さい頃から何度も会ってきた方なのだが、亡くなったという連絡メールを見ても1ミリの涙も出なかったし、悲しいという感情も微塵も湧き起こらなかった。その方もかなりの高齢だったので、そろそろ危ないという話は数年前から聞いていた。今回の訃報の連絡メールをもらった時の私の正直な感想は「へー、長生きだったね」である。なんとも冷血極まりないのだが、仕方がない。それが私の、その方への心の正直な状態だったのだ。
犬でも猫でも人でも、生前どんな生き方をしてきたのかによって、死の淵に立った時の周りの人たちの悲しみの深さは変わるのだろう。大切な人たち、周りの人たちを悲しませることは決して良いこととは言えないのだが、もしも自分が同じような状況になったら、周りの人に「ああ、残念だったなあ」くらいには思ってもらえるような生き方をしていたい。
好きであること、愛していることは、失った時にそれと同等もしくはもっと深い悲しみと苦しみをもたらす。嘆き悲しんでいる最中は本当に身を裂かれるような思いなのだが、こうして微塵の悲しみもないということを経験してみると、それも何だかなあと思わずにはいられない。人生になるべく悲しみというのは少ない方が良いに決まっていると思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。何の感情も湧かないというのは、確かに身体的には楽ではあるのだが、人生の経験の深さとしては味気ないわけで、そう思うと改めて、私たちはさまざまな感情をわざわざ味わいたくてこの世に生まれてきたのかもしれないなと思うのであった。