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魂と感情の違い

最近夫と話していて気がついたことがある。

人間の心に湧き起こる感情というものを、私たちは小さい頃から何となくその存在を認識して理解しながら生きているように思う。喜び、怒り、悲しみ、楽しさ、嬉しさ。色々な感情が毎日発生しては消えていく。それらの感情が原因となって人々が摩擦を起こしたり、深く理解し合えたと思ったりする。様々な人間行動や社会生活から切っても切れないものが感情かもしれない。

一方ここ数年で考えているのは、魂というものについてである。感情と同じく目には見えないものだが、感情よりもさらにどこか捉えどころがなく、その存在すら訝しまれるようなものが魂だ。良く聞くセリフとしては、「亡くなっても魂はそばにいるよ」とか、「魂は輪廻転生している」とか「魂に刻まれたカルマが」などなどであるが、良く聞く単語であるにもかかわらず、やはり存在は曖昧である。宗教的思想と結びつくことも多い単語であるが、一方で脳科学者などが今も日夜その解明に向けて研究を続けている分野であるとも言える。

わたしも昔は、魂と感情の区別が曖昧だった。しかしここ数年、「これは感情」「こっちは魂からの叫び」という違いを感じるようになってきた。

これが正解かどうかはわからない。けれども今の段階で、わたしが感じている魂と感情の違いについて、ここに書き記してみたい。

感情とは、思考によって判断され、発生するものである。
思考は、これまでの経験から発生することもあり、身体的な感覚に起因する反応であることもある。

例えばわたしは夏が嫌いだ。夏は日差しが強く、それらはわたしの肌が持っている能力を超えていることが多い。紫外線に長くさらされた夜は発熱し、日焼けしてしまった肌はすぐに皮が剥け、水膨れになる場合もある。強い日差しの下ではどんどん体力が奪われ、頭が朦朧とし、気力が失われる。自分の汗によって皮膚はかぶれ、体力の低下によってあらゆる能力が発揮できず、生きる意味を見失いがちになる。つまり、わたしは夏がもたらす様々な作用が、経験上わたしの肉体に適していないことを知っており、結果的に「夏が嫌いだ」という感情を持っている。夏を思い出すだけで嫌な気持ちになるし、やっと秋になり夏が終わったことを感じた時の喜びは計り知れない。

わかりやすい例を挙げたが、もっと複雑なものへの感情だったとしても、何かしらの原因や理由が見つかる場合がほとんどであるのが「感情」だとわたしは思っている。
猫が好き、猫が嫌い。犬が好き、犬が嫌い。蛇が好き、蛇が嫌い。蜘蛛が好き、蜘蛛が嫌い。おそらくそれらについて、真剣に「なぜ?」を繰り返していけば、どこかしらに原因が出てくるのだ。一見理由がないように思えることでも、掘り下げていけば何かがある。例えば見た目が好きになれないから蛇が嫌いという話があったとしても、それはその人の美の基準に合致していないからという理由が出てくることもある。細長くてぬるぬるしたものが嫌い。噛みつきそうなものが嫌い。ではなぜそう思っているのかまで突き詰めれば、生まれて初めて出会った細くてぬるぬるしたものに触れたときに怖い思いをしたことが原因かもしれないし、何か他の生き物に噛みつかれたり噛みつかれた人を見かけた時に恐怖を覚えたことが原因かもしれないし、そういったことを自分で経験はしていないけれど親や周りの大人から知識として植え付けられたことが原因かもしれない。多くの人は細かい好き嫌いについて、そこまで日常的に追求し、探ることはないかもしれないし、その必要もあまりないかもしれないのだが、結局は感情には何らかの原因があるはずだとわたしは思っている。

一方、魂はといえば、理由がない反応、なのである。
頭で考えて何度考えてみても最善の方法はプランAなのに、どういうわけかプランBの道に行ってしまう。自分は思考上ではこうしたいと真剣に思っているのに、なぜか体がいう事を聞いてくれない。綿密に計画しても何度も中止になる。何の不満もないはずなのに、なぜかしっくりこない。準備は万端なのに、なぜか不穏で胸がザワザワする感覚がある。
こういった類のものが、魂の反応に近いように思う。

魂は、もっと大きな何かと常に繋がっていて、自分の周りにある全ての、同レベルの何かと繋がっている。結果的に自分の魂の反応が、現象として自分の周りに発生することもある。そこに感情もシンクロしてついてくることもあるのかもしれないが、基本的には無関係でもある。

もちろん魂からの反応を感情として捕まえることも可能だ。しかし全ての感情を魂からのサインだとは完全には言い切れいないようにわたしは感じている。

魂からの反応は、時に理性も感情も、全てを無効にするような力を持っている。感情はカウンセリングを受けたり、自己分析を集中的に行うことで、ある程度の解決の糸口が見えてくる場合が多いが、魂の叫びは最終的には自分で自分の魂の声を聞いて、気がついていくしかない。もちろんスピリチュアル系のカウンセラーにセッションをお願いすることもできるかもしれないが、感情つまり思考でそのカウンセラーを選んでいる時点で、あまりうまくいかない場合が多いように思う。

では簡単に、どうやって魂からの叫びと感情を見分けていくのか。

最もわかりやすいのは、「原因不明であるかどうか」である。

まず、自分の不可解な行動や改善したいと思うことがあれば、それらの原因を探る。どんなに小さなことでも構わない。他人が聞いたら「そんなこと?」というような、くだらない原因でも全く問題ない。もしも原因が見えてくるなら、それはどの経験や思考や感情から出てきているのかがわかるはずであり、それらはつまりは魂からの声ではないかもしれない。時に、魂からの声と感情が同じことを示している場合もあるので、一概に全て違うとは言い切れいないのだが、感情は大抵は理屈で説明できるのだ。

そしてさらに考え、原因不明で理屈ではどうにも説明できないのに、確かに存在する意思や反応というものがあれば、それが魂の叫びであると言えるのではとわたしは思う。

先日こんなことがあった。
ある女性の仕事の手伝いをしていて、わたしはそれを真剣にやりたいと思っていた。多少のバイト代にもなるだろうし、わたしにも役に立てることがあればいいなと非常に前向きに捉えていた。しかし何度も会議を重ね、いよいよ大きな動きがあるという時になって、突然なぜかわたしは、涙が止まらなくなってしまった。原因を述べようと思えば無理やり言えなくもないのだが、結局は訳が分からずただ涙が止まらなくなったというだけのことだった。実はその大泣きした前日にも夜中に涙が止まらなくなった事件があった。わたしは必死に原因を自分の中から見つけ出そうと自問した。何が困っているの?何が嫌なの?何が辛いの?と必死に自問するが、出てくる答えは全てが表面的で他人への説明的な、小さな嘘混じりの体裁を整えた何かだった。わたしはそれが本心ではないことに気がついていたので、さらに深く自問を続け、「何々が辛かったのかな?大変だったね、頑張ったね、もう大丈夫だよ」という自分への作業を繰り返してみた。けれどもあまり大した解決にはならなかった。
最終的に思い当たったのはただ一つ。魂からの叫び「それは違いまーす!ストップストップ!!」というサインだろうということだった。魂が黄色信号を超えて、赤い旗をブンブン振り回してわたしを止めていた。

自分のやるべき仕事ではないことに無理に向かおうとすると、魂からストップサインがもらえることがある。このサインを受け取るのには、少々慣れが必要だし、単なる感情論と切り離して判断しなければいけないので、ちょっとコツを掴まなければいけないかもしれないが、少しずつトライアンドエラーでやってみると、だんだんとわかってくる。あ、これはわたしの感情論だなとか、これは魂からの叫びだなとか。

魂は比較的寛容で、感情論は比較的心が狭い。
魂は、許容範囲が非常に広いので「あ、そっち行くんだ。まあ近道はこっちだったけど、それはそれで面白いかもしれないから、いいんじゃなーい」と構えている。
一方感情論はすぐにムッとしたり、突発的に喜んだりと、日々の揺れ動く波が大きい。感情を味わえるのもまた生きていることの一つの経験なので、無駄ではないしダメなことではないのだけれど、感情による判断を魂の叫びだと勘違いしてしまうと、どんどん魂の本質が求めている道から離れていってしまうことがあり、結果的にどんどん自分が辛くなっていく場合がある。

夫は魂の叫びと感情の区別がつかない人で、そういう人はそれで問題なければそれでいいのだと思う。そういう人に、この区別を説明するのは困難だ。だから今日の文章を読んでいて、さっぱり意味がわからないという人は、それはそれで良いと思う。そもそもそういう人はこの文章を読まないとは思うのだが。
わたし自身も、昔の状態の自分、魂と感情の区別がついていなかった自分に、今のこのような事をいくら説明しても理解できなかっただろうなと思う。全ての人が魂と感情を区別して認識しなければいけないわけでもないだろう。
ただもし、ここに違和感を持っている人がいたなら、わたしはこんな風に魂と感情が違うのではないかと今思っているよ、という話が何らかの考えるヒントになるかもしれない。

初めにも書いたが、これが正解かはわからない。
わたしは幼少期からずっと気になっている「存在とは何か」「今という時間は何か」という問いについて、今もまだ考え続けている。その中で副産物に見えてきたのが、魂と感情の違いだったように今は思っている。

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MariKusu
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。