見出し画像

文化的生活にテレビは必要なのか

とあるケーブルテレビの営業マンとの会話で違和感を覚えた。
ケーブルテレビ回線を契約することでテレビも快適に見られるようになって、インターネットも光回線で快適になるという話なのだが、その時に彼はこう言ったのだ。

「文化的な生活になります」

あたかもテレビを持たず、光回線も引いていない私は「文化的ではない生活」をしているという発言に聞こえてしまう。

彼に悪気はないのだと思う。
テレビを愛し、ケーブル回線を愛し、その会社で必死に営業をしている。
彼にとってはテレビが見られて高速の回線でインターネットを楽しめる生活が「文化的」生活なのであり、そう信じて疑わず、彼の職務を全うしている。
山の上まで息をきらして徒歩で登ってきて、お仕事とはいえ全くもってお疲れ様なことである。

「文化的な生活」という言葉にあまりのショックを受けた私は思わず「私たちテレビが嫌いなのでテレビを買う予定はなくて」と、つい嘘偽りのない本心をそのまま言ってしまった。
彼はテレビの営業に来ているのだから、そんなこと言わなくてもよかったのかもしれない。気の毒なことをしてしまった。少し思いやりに欠けてしまった発言だったかもしれないと反省するが、その時私が受けたショックの大きさは相当なもので、その日一日私はずっと「文化的な生活」について引きずってしまうほどの衝撃を受けてしまった。

インターネットで「文化的生活」を検索すると日本国憲法の話題が多く見られる。
日本国憲法第25条には二つの項があるがそのうちの一つが以下の通りである。

日本国憲法(昭和二十一年憲法)第25条
第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

一旦、健康で、を脇に寄せて、「文化的な最低限度の生活」は具体的にどういう内容なのかを考えてみたい。

仮に国は、テレビもなくてネットも接続が不安定な状態では現代において「文化的な最低限度の生活」を送っているとは言い難いと判断するのだろうか。

難しい。
この問いに、「全くもってその通り!」と拳を振り上げる人もいれば、「そんなことはないでしょう」という人もいるだろう。
つまり、何をもって「文化的な生活」なのかは、極めて個人の感覚に依存するものだということが言えよう。

では次に私自身にとっての「文化的な生活」とは何かを考えてみる。

先述のやり取りで違和感を覚えたことから、テレビは文化的な生活には必要ではないと思っていることは明確である。
むしろ、テレビがあることで文化的生活を奪われてしまうのでは、という疑問すら持っている。

では、文化的な生活とは具体的に何をしている様子をイメージできるのだろう。

私のとっての文化的生活に必要不可欠なものは

・自由に書籍を選べ、読書の時間が充分にあること
・映画や美術や音楽等、幅広い芸術作品に触れられること
・文学や芸術を通して自身の考えを深める時間があること
・電気や水やガスが自由に使えること
・雨風や外気を心地よく凌げる家があること

ざっとあげられるのは、こんなところだろうか。

芸術に触れるために光回線やテレビがあった方がより便利かもしれないが、必須ではない。むしろ思索の時間の邪魔をしてくるのが光回線やテレビなような気もしている。

もう一度いうが、テレビが悪いと言っているわけでも、先述のケーブルテレビの営業マンが悪いと言っているわけでもない。
最も大切なことは「自分にとっての文化的生活」はどんなものなのかを、明確にしておくことと、それは他の誰かとは違っていて当たり前なのだということをしっかり認識することなのではなかろうか。
どんなことを文化的だと捉えるかは、100人が100通りの答えを出して良いものだと思うし、全く同じだとむしろ気持ちが悪いだろう。

ただ、「自分にとっての文化的生活」が満喫できているなと感じられることは、日々の生活にこの上ない充足感をもたらすように思う。

もちろん、あれもこれも手に入れようと思えば、キリがない。便利なものは日々開発され、それを一人でも多くの消費者に欲しいと思ってもらえるように企業は努力をし、また新しいものが生産され、そうやって資本主義社会は毎日ぐるぐるしている。
つまり重要なポイントは「最低限度」を知ることにもあるだろう。
これくらいは最低欲しいなと思う自分だけの基準を、都度見直しながら生きることで、社会の煽りに振り回されづらくなり、より生きやすくなるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?