思考の物質化成功の基準
思考は物質化する、思考は現実化する、などというフレーズを耳にしたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、私自身はこれまでこの分野について今ひとつ具体的な実感がないままに過ごしてきました。
決して信じていないだとか信じているだとか、そういう話ではないのです。ただなんとなく、どの著作を読んでもふわっとしていて、分かったような分からないような、やっぱり分かっていなかったようなという状態で止まっていました。
しかし突如として今朝思ったのです。
例えば考えていることを文章にして書く。これは思考の物質化なのではないかと。
文章にして書く時点で何らかの媒介が必要となります。紙とペンという物質なり、電子的なモニターなり。文字ではなく絵を描くことでそれを実行する人もいるでしょうし、写真を撮ることで物質化する人もいるでしょう。頭の中にあったイメージを画材や電子的なもので他者からも見えるように転写していく。目の前にあった魅力的なものを自分の目と脳に焼き付けるだけではなく何らかの媒介を通して写真や動画という別の物質に変換していく。
これは思考を物質化したことに他ならないのではないかと、思い始めました。
思考は物質化するのです、とスピリチュアルっぽく息巻かれてしまうと、かつてテレビを席巻したインドのサイババさんのように手をくるくる回してビブーティを出さなければいけないんじゃないかと思ってしまいます。けれど小さい頃から自然とやってきた当たり前のような行動の中に、実はもうすでに思考が物質化する過程が練り込まれていたのではないでしょうか。
人は何かを物質化したくてたまらない生き物なのかもしれません。
「百聞は一見にしかず」というのは今の時代と違ってオンラインやライブ配信で「一見」するというのではなく、物理的に目撃するという意味を含んでいるかと思います。何しろ物理的に目の前にすることでしか見ることが叶わなかった時代からある諺です。
オンラインで世界の美しい景色を見て旅行気分を味わったとしても、それは旅好きの人々からすれば全くもって旅行ではなく、情報の下調べに過ぎないのです。思考の中でどれだけたくさんの場所を訪れたとしても、物質として自分の肉体を移動し、物質としてその場を目の当たりにしなければ意味がないと感じてしまうでしょう。
思考の物質化は極めて正直に物質化されていきます。
絵を描くことについて考えてみましょう。ある画家は作品が一度も売れたことがありません。その人はなんとかして売れたいと願っていたとします。そして、こんな絵なら売れそうだという予想を立てて作品を作ります。さて、その人にとって物質化とは何でしょう。描いた絵そのものではなく、描いた絵が売れたことにより手に入る対価の方ですね。
もう1人、全く作品が売れない画家が隣にいます。その人は売れた方が嬉しいけれど売れないのは致し方なしと思いながら、やむに止まれず自分の頭の中に沸き起こるイメージを絵に変換させていきます。この人にとっての物質化というのは描かれた絵そのものです。
どちらが良い悪いではなく、これは本人にとっての物質化としてのゴールが違うという話です。
前者の画家は売れた対価が手に入らなければいつまで経っても満足することはないでしょう。後者の画家は自分に嘘偽りのない表現を描けたと思うことができなければ満足しないでしょう。
思考の状態だったところから、自分自身の納得のいく物質化を達成することで、心が満たされて幸せな心地になる。
物質化というのは、そういうプロセスであり、その結果なのかもしれないと思い至りました。
時に自分自身について顧みれば、私はなぜ文章を書いているのだろうか、という話。
色々考えた結果として、物質化された何かを通した化学反応のような変化を楽しみたいのかもしれないという地点に着地しました。
何かを読んだり、何かを見たり、何かを聞いたりすることによって、自分自身の思考に変化が生じ、それがまた新しい物質化を生む。そこから先にまた次の別の誰かによる物質化が連鎖していくかもしれない。
そういう思考の連鎖による無限の拡大のようなものに何とも言えない喜びを感じてしまうのです。どこかに辿り着いて、旗を立てて、それをすぐ直後か何年後か何十年後か分からないけれど誰かが見つけて、その旗に落書きをしたり隣に新しい旗を立てたりはたまた旗を持ち去ったり。そうしてぐるぐると巡って、いつか思いもよらないような形で自分の目の前に再び登場したりする。そんな奇跡を楽しんでみたいと思っているのです。その旗に何も起こらないかもしれないし何か起こるかもしれない。旗を立てるまでが私の役割なのでその後その旗をどうにかなるように仕向けるということはないのだけれど、旗を立てないと何も始まらないから、旗を立てますという話。発芽するかしないか分からないけれど、撒かなかったらずっと種のままであるように、何も物質化しなければ私の頭の中の思考であり続けるしかない。
結局、物質化したいのです。
なぜなら満たされたいから。
思考が思考のままだけでは、決して満足できないのが人間なのかもしれません。