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常に境界は曖昧で変容は永遠である
物理学や量子力学などに興味がある方はぜひそのような記事をじっくりお読みいただきたいのだが、私は物心ついた頃から「今」という瞬間がどこにあるのか、そもそもあるのか無いのかについて、とても気になっていた。そして私の周りにいた大人に質問しても、誰も正しい答えはくれなかったし、まともに取り合ってももらえなかった。そんなくだらないことを言ってないで宿題をやりなさい、テスト勉強をしなさいと言われ、いつも話は終了した。
大人になり、ようやくその疑問に少しずつ自分だけで向き合えるようになった今は、選択肢も情報も増え、それらを学びながら自分なりの感覚的な答えを出しては消してと、思考を繰り返せるような環境になった。
「今」はあるのか無いのかについての今日のところの結論は、私は「無い」派である。つまり物理学的視点を支持している。
「今」というものが存在するためには、心理的虚構が必要ということに私は今のところ納得している。時間という概念そのものが人間の心(頭や思考)が作り出したものであり、その中でしか成立できないものなのだということを理解し始めたところだ。
最初は「そんなバカな!」と思っていたのだが、何度も考えるうちに時間というのは後天的な学習により獲得された知識であることに気がついた。けれども、この人間が勝手に定義したであろう時間というものの中で、過去も未来も現在も全てが等しくバラバラに存在しているというところは、まだ本当の意味で納得して理解しているわけではない。
けれどもこう考えれば、少し理解は進んでくる。私たちは実は、パラパラ漫画であるとしたら。
パラパラ漫画は、アニメーションの原理でもあり、何枚もの紙に少しずつ動きを変化させた絵柄をあらかじめ描いておき、それをパラパラと素早くめくることで、そこに描かれている物が動いて見えるというものだ。
もしも誰かが永遠に止まることのないパラパラ漫画だけを見たとしたらどうだろう。その人はパラパラ漫画が何枚もの紙で構成されていることを知らない。すると、動いて見える状態が当たり前であり、よもやそれらがバラバラの静止画の集合体だとは思わないのではないだろうか。
過去も未来も現在も全て等価にバラバラにある、ということについて考えた末、人間にも実はパラパラ漫画と同じことが起きているのではないか、と感じるようになった。
パラパラ漫画のように、私たちが常にコマ送りされているコマの連続だとする。パラパラ漫画との違いは、描かれている絵なのか意識を持った生身の人間なのかである。コマ送り1コマ1コマの私たちには視点があり、世界を観測している状態がある。つまり、コマAの私と、コマBの私は、表面的には寸部違わぬように見えているかもしれないが、実際には全く違うAとBという別々のコマの存在なのである。全てのコマが等しく「今」であると考えるのならば、「今」は存在することになるかもしれない。しかしコマAは過去でコマBは現在でコマCは未来という定義はできない。それはあくまでコマBに居続けているという概念からの視点であり、実際にコマBに居続けることができないように思うからだ。そういう意味では「永遠に変容し続ける今らしき何か」はあるのかもしれない。ただ「今」とピンポイントで表示することはできない。仮に写真を撮影して、「ほら、これは決定的瞬間の今を撮った物だから、今はあるんだよ」と言ったとしても、その写真を見ている自分は「永遠に変容し続ける」パラパラ漫画のコマの自分しか存在しない。さらに私たちは光を通して物事を認識するしかないので、永遠に埋めることのできないタイムラグが生じてしまう。仮に「今」というピンでさせる本当に最小単位の何かの点が存在したとしても、それを本当に認識することは人間の能力として不可能なのだ。
私は幼稚園の頃から、あるはずのない「今」を、あるかもしれないけれど一体どこにあるのだと探し続けていた。見つかるはずもない。
さらに学んでいけば、このパラパラ漫画の私がいると思っている世界すら存在しない可能性がある。マルクス・ガブリエルの新実在論である。
じゃあ、ここでiPadに向かって文字をガシャガシャ書いている私は、一体何なのだろう。
今という概念が仮に存在する場合は、心理的虚構の中だけであるとするならば、つまり私はこの心理的虚構の中でしか生きていないことになるのだろうか。全ては自分が作った妄想の世界の中であり、実は存在しませんという話なのだろうか。
ここ数年特にそんなことを折りに触れて考えているせいなのか、最近は夜中に飛び起きてしまうことがある。昔の人が「草木もねむる丑三時」と言ったのにのは、何かこの時間帯に特別な物があるからなのか、私もこの丑三時に跳ね起きる。自分の体がバラバラになって、世界と自分の肉体との境界が曖昧になりそうな不穏感を覚えるのだ。慌てて私は体を叩いて確認して手を握りしめる。私はパラパラ漫画なのか、心理的虚構なのか。ではこの右手が叩いている左手は、あるのかないのか。動作は連続していると勘違いしているようだが、実はバラバラなのか。
わからない。わからないけれど、とてつもない不穏を感じる。
ということは、つまり、それは本当のことなのかもしれない。私たちは本当はバラバラで、過去から未来に流れている時間はなく、常にバラバラは変容している。そして目には見えないほどの小さな小さな何かが宇宙の中でそうあるように、体の中でも発生しては消え、また発生しては消えている。それを人間の肉眼と日常の脳で認識することは難しいけれど。
もしも私たちがバラバラのコマおくりのコマに戻ってしまったら、自分というものが消失するのかもしれない。私たちはパラパラ漫画をうまく作動させるために心理的虚構を使って、世界を作り、時間を作り、その心理的虚構世界の中から外れないように注意深くパラパラ漫画を構成し、止めることなくパラパラとめくり続けているのかもしれない。
そしてもしも私がパラパラ漫画なら、コマの差し替えも、最終回のコマを描き終えてしまうことも可能だし、そもそもコマAの私があるのならすでに全てのコマの私が同時にファイルに等しく存在していることになるはずだ。
そんなことを考え続けていると、時折何かが根底から危うくなり、存在を疑うと同時にそこ知れぬ怖さを感じることがある。そしてそれは時々寝ている時に特に強く私を呼び覚ます。
私は今日も夜中が怖い。最初にこの現象が起きた時は、一番大切にしている水晶とアメジストを握りしめて、なんとか虚構の中に戻ろうと必死だった。虚構の中はすでによく知っている世界であり、状態は安定しているからだ。大変なことや辛いことや苦労もドラマチックに起こる可能性のある心理的虚構世界だが、安定している。存在の概念がひっくり返ってバラバラになることはない。
しかしこう書くと心理的虚構世界が良いもので、パラパラ漫画は怖くて悪いもののように見えてくるが、実はそうではない。私自身が後者にあまりにも慣れていないだけなのだ。変化に弱い私は新しいものに不安を感じやすい。しかし変化に弱いと書いておきながら、実際には1秒よりもずっと短い極限の最短単位の時間ごとのコマが永遠に変容することで持続しているわけだから、本当のところは変化しかないのだけれど。それでいて変化に弱いと思っているのだから、もう手のつけようがない。そろそろ「常に境界は曖昧で変容は永遠である」という今日直感的に感じたこのフレーズを心身ともに理解できるようになりたいものである。
いつかきちんと、自分の中にある全ての感覚として、この「今は存在するかしないか」という幼少期の疑問から始まった、時間と存在の概念に、自分なりの理屈で納得した決着がつけられる日が来るといいなと思う。
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